A saint has died.



薄暗い部屋の片隅に座り込む小さな影。
乱れた髪は整えられずに肩に広がり、背を向く彼女の表情は伺えない。
1人用の狭い部屋に声はなく、ただ静寂が広がっていた。


その静かだった部屋にふいに、小さな機械音が響く。
ピ、と小さな音がなって、入り口の自動ドアが開かれた。音のない部屋にはその静かなドアの開閉音さえ響き渡って、それに小さな影はぴくりと反応したが、振り返ることはなかった。


「……ユリアさん」


聞こえたのは、本当に聞きたかった男の声ではない。そんなこと、初めから分かっていたけれど。ユリアは自嘲した。ぴょこん、と場にそぐわないコミカルな音を伴って、小さなぬいぐるみが隣に座った。


「……ケット・シー」
「ユリアはん、体調は大丈夫ですの?みんな心配してはります」
「……うん、ごめんね」


何代目かのケット・シーは困った風に入り口に立ち尽くす男の方を見遣った。


「……シャワーを浴びたら行くよ」
「……私が心配しているのはそういうことではないんですよ」


男――リーブはゆっくりと歩いて部屋へと入ってゆく。ユリアは何も言わない。部屋に踏み入ると、開かれたままだった扉はようやく閉ざされた。ひとりだった部屋に今は、ふたりと一匹。暗い部屋はリーブとケット・シーの表情にも等しく、影を落としている。


「正直、後悔しています。ヴィンセントに今回の件を依頼したのは……間違いだったのではないかと」
「……そうかな?これ以上ないくらいに適任だと……思うけど」


女はみな聖母だというのは幻想だ。男がただ人間であるように、女もただ人間である。
――彼女は、人間ではないのかもしれないけれど、少なくとも聖母ではない。たとえ外からはそう見えていたとしても――少なくともこの部屋にいる1人と1匹は、彼女が聖母の笑みを浮かべる裏で抱える苦悩を知っているから。だからここにいる。心配そうにちょこんと背中に触れられた柔らかなぬいぐるみの感触に、ユリアはどうにか笑顔を作った。


「……ケット・シー、ありがとう」


ケット・シーの頭を撫でるユリア。リーブはそれを直視できてしまう。今にも壊れてしまいそうな笑顔を。


そんな顔が見たいのでは、ないのに。


胸が締め付けられた。彼女のきらきらと輝く宝石のような瞳には亀裂が入って、今にも砕けてしまいそうなのに。彼は今きっとたった1人の――愛した女性のことしか見えていないから。此処で砕けた宝石はきっと、ただ地面に転がって踏み潰されてしまうばかりなのだろう。彼がここにいなければ文字通り、誰にも気づかれないままに。それでもユリアは、彼を待っている。


「……ユリアさん、どうしても、」


——彼でなければ、いけませんか。
その言葉は辛うじて呑み込んだ。


こんなことが許されないなんてとうに解っていた。
どうせ今までも――神羅にいた頃も、今も。背中には数えきれないほどの罪が積み重なって、とうに感覚も麻痺してしまった。これからそこにもう一つの重荷を載せる。


リーブはケット・シーを操る。ひどく残酷なことをしているのだと理解していた。
頭を撫でていた手を取って、優しく引く。手を引かれるまま、振り返ってベッドを降りて。立ち上がった彼女の腕を取って。


「……リーブ、」
「すみません、」


そっと、ユリアを胸の中へと引き入れた。
彼女は抵抗することもなく、静かに彼の腕の中で俯いていた。


彼ではない誰かの温もり。
ヴィンセントは体温が低いから、こう抱き寄せられても腕の中は冷たかった。ユリアはそんな彼の温度ももう、忘れてしまいそうだけれど。


青いロングコートをそっと握った。
その腕がただ優しさだけで与えられるものではないことにも気づいている。心を分けるつもりはないのに縋らずにはいられない。それが良くないことだなんてずっと……ずっと前からわかっている。


「……リーブだったら、よかったのに」
「ユリア、さん……」


背中に回されていたリーブの指が、ユリアの髪を撫でた。
ケット・シーが静かに扉のほうへ歩み寄って扉の鍵をかけると、用済みとばかりに部屋の隅っこに座り込んだ。


ユリアはゆっくりと、顔をあげる。


薄暗い部屋で、同じ闇を纏った瞳がじっとこちらを見ている。哀しみや、罪の意識を抱えた瞳はまるで、自分を見ているようで苦しい。


もう、疲れてしまった。見たくないものを見続けることも、それを何も言わずに受け入れつづけることも、愛する人のために聖母を演じることも。――どうしたら彼を信じていられただろう?髪を撫でていた右手が頭を引き寄せるので、ユリアは瞳を閉じた。そうすれば、彼のその瞳を——自分と同じ罪を宿したその瞳を見ないで済むから。


きっともう戻れないと、互いに理解していた。