The sky after the rain



その日は、通り雨が降った。
ざあざあと降り頻る雨の下で、ユリアはぼんやりと遠くを見つめていた。大粒の雨が彼女の髪や、顔や、体を濡らして、流れ落ちた水滴は地面へと吸い込まれてゆく。分厚い雲の立ち込めるあたりは薄暗く、大粒の雨で視界も悪い。


——でもきっと、彼の赤は鮮やかだから、きっと遠くても、雨のなかでも見つけられる。
ユリアは心の中でそう呟いて、変わらず、ただそこにいた。


そして、彼はいつもそうして大切な男を待っている女性を遠くで見つめていた。
ユリアは何もすることがなければいつまでも本部の建物の外でただ座ってぼんやりとあたりを眺めている。ニブルヘイムの方角を向いて。こんな大雨の、下でも。黙って見ているにはあまりに苦しい光景だった。


黒い折り畳み傘を鞄から取り出して建物を出る。静かに傘を差して、リーブはユリアへ歩み寄った。


「風邪を引きますよ」


ユリアが突然途切れた雨粒と、その優しい声に驚いたように振り返ると、リーブはしゃがんで、ユリアに視線を合わせた。青いコートの裾が地面に触れて濡れている。


「汚れちゃうよ」
「同じですね」
「…局長が泥まみれじゃあ、みんなびっくりするんじゃないかな」
「『英雄』が風邪を引けば皆さん心配します」


言葉でリーブに勝てるわけがない。ユリアはそう気がついて、黙り込んだ。
けれど、立ち上がるつもりのないユリアは何を言われても此処で待つつもりなのだと、そう分かって、リーブもそれ以上声を掛けることはせず、黙って傘を差しかける。小さな折り畳み傘は二人で入るには狭く、これ以上は歩み寄れないリーブは傘を傾けてユリアが濡れないように傘を持つので、肩口は雨に濡れて暗く変色していた。


「リーブ、肩濡れてるよ」
「ユリアさんに言われたくありません」
「…わたしと違って、リーブは生きてるんだから、体調には気を遣わないとダメだよ」
「ユリアさんも今は本調子じゃないんですから、無理は禁物ですよ」


ユリアに立ち去るつもりはない。けれど、此処で肩を濡らしながら傘を差しかける男を拒むことも、そこから逃げることもできずに、ただ黙って、傘に当たって跳ねる水音を聞いていた。


二人は雨の音に包まれて、静かにそこに座っていた。






通り雨は数十分で止んで、青空の向こうから太陽が差し込む。リーブはそっと立ち上がって傘を閉じると、黒い傘から水滴が舞って、日光を反射して光っていた。


「局長と……ユリアか?」


不意に、そこに新しい声が響いた。ユリアが立ち上がって振り返ると、入り口に立っていた女性——シャルアは、白衣を揺らしてふたりの方へと歩み寄った。


「…シャルア」
「ヴィンセントを待っているのか?」
「うーん、まあ、そんな感じかな」
「シャルアさんは休憩ですか?」
「まあな。雨も止んだし、シェルクの容体も落ち着いている」
「それはよかった。目、覚めそう?」
「ああ。しばらく休めばな」


ユリアは本当に安心したような表情でうなずくので、シャルアもそれに頬を緩めた。


「会えてよかったね」
「…ああ。…ユリアは、大丈夫なのか?」
「わたし?」
「ヴィンセントとは恋人なんだろう?」
「うん、だから、ここで待ってるよ」


ユリアの笑みを見たリーブは、思わず瞳を逸らす。
穏やかな笑顔だった。何も否定せず、怒りも見せない、全てを受け入れる笑顔。シャルアはきっと彼女のことを、優しい女性だとか、懐の広い女性だとか思っているだろう。ユリアの心の水面は今も、キラキラと空を映して光っている。その水底へ潜ってゆけるほど、リーブもシャルアも彼女の近くにはいない。


それでも、リーブはユリアをずっと見てきたから、雨が上がって凪いだ水面は鏡のように空を映しても、嵐の下で波打つ先にほんの一瞬見せる彼女の本心にも気付いている。だからこうして微笑みを作って痛みを隠すユリアが胸に苦しい。——どれだけの痛みを彼女が抱えていたとしても、その向こうへ触れることは許されないのだから、こうしてそれを隠す彼女をこれ以上見ていることさえ苦痛だった。


「私はそろそろ失礼しますね、仕事が残っていますから」
「あ、うん…リーブ、」


ありがとう。
ユリアの声を背中に受けて、リーブは本部の中へと消えて行った。シャルアはその様子を見送ると、ユリアへと視線を戻す。


「局長とお前は…?」
「…仲間、だよ」
「…だが、」


続きは言えずに黙り込む。ユリアは笑っていたけれど、それ以上は尋ねられたくないと言外に告げるように笑うので、すまない、とシャルアが小さくこぼすと、ユリアはうん、と頷いた。


「ヴィンセントはニブルヘイムに向かっているんだったな」
「そうみたい、だね」
「不安か?」
「…うん、無事に戻ってくるといいけど」


ここで過ごすユリアはこの件ではあまりに無力だ。こうして穏やかに佇んでいる間は想像もできないけれど、今も響く人の悲鳴に苦しんでいるのだと、リーブが心配げに言っていたときのことを思い出す。その言葉にシャルアは少しの親近感を感じて、今はこの組織でリーブの次にユリアとよく話す人間になっていた。シャルアの瞳に映るユリアはいつも強く、美しい。こうして不安な状況にいても、ユリアはシャルアの妹の心配をするし、シャルアの体調にも気を遣ってくれる。


「シャルアは恋人いないの?」
「私は…シェルクを探すのに忙しかったからな」
「そっか。じゃあ、これからだね?」


——まあ別に、無理して恋する必要があるわけでも、ないけどね。
少し悪戯っぽく笑うユリアに、戸惑って瞳を彷徨わせた。
そんなシャルアを見て声を上げて笑って、ユリアは優しい表情を浮かべる。


「とにかく、これからだよ。楽しいことは、これから始まるよ」


雨上がりの澄んだ空気に似合う静かな笑顔を残して、ユリアも建物の向こうへ消えてゆく。


「楽しいこと、か」


まずはシェルクの容態をもう一度確認しよう。
楽しいことはこれから始まる、そう笑うあユリアには本当にそうなるかもしれないと、そう信じさせるような力があった。3年前の英雄はこうして戦えずとも人に希望を齎せるのだから、まるで女神のようだと、そう関心して、けれどシャルアは、背中を向けて歩き去るユリアの心情を知らない。シャルアだけではない、本部の建物ですれ違って頭を下げる人の、誰も。


ユリアは誰にも知られたくはなかった。
愛する人を待つ孤独も、無力感も、そしてその男が見ている先に自分はいない苦しみも。そして、傍で、ただ純粋な心配以上に自身に心を傾けてくれるその男を拒めずにいる、その心のうちも。


これはただの弱さだ。
大雨の中でも、日照りの下でも、ただ自分の足で立って歩くことができない、わたしの。