la costa de la luna



コスタ・デル・ソルは年中多くの観光客で賑わって、中心部に建ち並ぶコテージは夜中も明るく光り、遠くからは若者たちの騒ぎ声が聞こえた。夜通しパーティで盛り上がっているのは近くに駐留している船の上だろうか。ビーチに沿って歩いているだけで、この街の明るい雰囲気が感じ取れて心もわくわくと踊るのが感じられる。生まれ育った場所も海を間近に臨む島の上だったけれど、こんな風に砂浜やパラソル、通りすがる若者たちの水着に色鮮やかな場所はなかった——スピラ中のどこを探しても、なかったと思う。白い波が砂浜に寄せては、隣を歩く彼と、わたしの、ふたりの足を濡らしてゆく。街を通って戻ることもできたけれど、砂浜を歩きたいと行ったのはわたしの我がままだった。


暫く歩き続けると人通りはまばらになり、ビーチは途切れて草原が広がる。明かり一つない暗い夜道を、手を繋いで歩き続ける。賑やかな音の遠ざかったコスタ・デル・ソルで、囁くように響く星の声は今日も穏やかだった。


さらに歩くと、今度は遠くに明かりが見える。窓の向こうから漏れる光と、いくつかの街灯。別荘が立ち並ぶこの区画では、大抵の場合プライベート・ビーチとセットなのでまばらに建物が建っているのだと、所有者の一人である隣を歩く男が教えてくれた。この世界を訪れて以来、お金を稼ぐこととは縁遠い生活を送ってきたわたしにとって、この人気リゾート地の一等地に立つ立派な別荘はまるで別世界で。朝から半日をかけて掃除した部屋はどれも広く、ふたりでは使いきれそうもなかった。


大きなベッドや、広いキッチン、ピカピカに磨かれたカトラリーは映画の中のように煌めいていたけれど、今日はもう少しだけ、外に居たい気分。プライベート・ビーチにはまだ足を踏み入れていなかった。


「ねえ、ビーチの方に行きたい」
「ええ、もちろん。そちらには明かりもなくて暗いですが、大丈夫ですか?」
「…時折リーブ、わたしのことを子供あつかいするよね」
「それは失礼しました。ユリアがはしゃいでいる時はどこか危なっかしくて…」


少し悪戯げな声色でそう笑うリーブに返す言葉もなく。少し拗ねた風に手を離して早歩きで前へ出ると、危ないですよ、と掴まれる腕。振り返って、背伸びをして、その唇に触れた、わたしのくちびる。


「びっくりした?」
「…はい」


ヘーゼルの瞳が、困ったようにわたしの瞳を覗き込んでいた。暗い夜でも琥珀のように光るそれに高鳴る胸を抑えてくるりと背を向ける。もう一度手を引いて歩き出すと、ビーチはすぐそこだった。


「…綺麗な、ビーチだね」
「そうでしょうか。長らく訪れていなかったので手入れもろくにできていませんが…」
「十分綺麗だよ。この辺りは砂が白いんだ…宝石みたい」


月明かりの下でさえ、ビーチは宝石の絨毯のようにキラキラと光っていた。太陽の下ならどれほど眩しく輝くだろう。しゃがみこんでその砂を掬う。さらさらと落とすと、小さく盛り上がる宝石の山。波打ち際から離れたここでは砂は乾いていて、手のひらの上には小さく残った砂の粒が光っている。


さらさらと落ちる砂の音を楽しんでいると、頭の上から穏やかな声が響いた。


「砂遊びですか?」
「…リーブ、今日はいじわるだね」
「はは、失礼しました。そこにハンモックチェアを置いていたはずです、行きませんか、ユリア?」
「…いく」


あやすように名前を呼ばれて、胸の奥が擽ったい。こうやってどこまでも付き合ってくれるから、時折困らせるくらいに我がままを言いたくなるのだと、彼は知っているだろうか。宝石のカーペットの上を歩きながら、手を引いて少し前を歩くその背中を見つめた。


ヤシの木が数本生える木の下に置かれたハンモックチェアの上には、隣に伸びるヤシの木から落ちたのだろう葉や実が積もっている。木枠に括り付けられた白い布は少し燻んでいる。


「やはり手入れをしないとボロボロですね…」
「葉っぱを払えば使えるよ」


最後に此処へ訪れたのは彼がまだ統括だった頃なのだと言っていた。別荘へ行く時間さえなかった彼の年月を思う。積み重なる3年分の重みを払って、少し黒ずんだそこに腰掛けた。一人で座るには大きな——横になれるように作られているのだと思う——ハンモック。少し端へ寄って見上げると、微笑んで頷いたリーブが隣に腰掛けた。


「ここから見える海の景色が好きなんです。今は夜なのでよく見えませんが…」
「でも、夜も綺麗だよ」


波の音が聞こえる。大きな月を反射して、海が、波が光っている。暗い闇の中で、小さな光を少しも逃さず輝く景色。遠く向こうに見える、船や灯台の光。静かに月を眺める、大切な人の瞳。


「…きれい、」


もう一度そう呟くと、優しく笑む彼の瞳に自分の姿が映る。唇が優しく吊り上がって、瞳は優しく細められる。


「…ええ、綺麗、ですね」


そんな風にまっすぐにわたしを見つめて言われたら、何も言えなくなってしまうよ。恥ずかしくなって瞳をそらすと、近くにテーブルが置かれていることに気づく。ハンモック・チェアと同じように葉を積み上げたそれは、椅子の隣に控えめに置かれている。葉を払おうと腕を伸ばすと、葉にしては重い、柔らかなタオルの感触に、葉の向こうへと手を入れて、それを引っ張った。


「…かわいい。リーブの私物?」
「え、ええ…こんなところに置きっぱなしだったとは…」


照れたように笑うリーブの上に載せると、つぶらな瞳がこちらをきらきらと見つめている。意外と足の長いそれはタコのぬいぐるみだった。大通りの土産物店で見たそれより少し色褪せている。部屋に並んだ海の生き物のぬいぐるみたちの中にタコはいただろうか。3年前の旅の間ともにいたネコといい、彼は意外と可愛らしい趣味を持っている。


ふわふわしたそのぬいぐるみの頭を撫でていると、ふよふよと足が動いて右手に触れる。そっと掴んで吸盤を撫でると、丸い瞳が気持ち良さげに細められた。リーブを見上げると、ニッコリと笑っている。手を離すと、8本の足を器用に動かして起きあがった。


「ユリアはん、おおきに!」


ぴょこん、と足を一つ持ち上げて、元気よくそう言った。彼のぬいぐるみたちは皆、頭を撫でてやると気持ち良さそうな、安心したような、うれしそうな表情を浮かべる。それが好きで、もう一度ぬいぐるみへと伸ばした腕は、けれど今度は大きな手に掴まれて引き寄せられる。


「なあ、ボクもかまって」
「っ、リーブ、」


薄暗い闇の中で間近に見える瞳と、艶やかに囁かれた言葉に呼吸が止まる。肩を掴まれて、唇に熱いものが触れる。ぎゅっと瞳を閉じると、波の音や、元気なぬいぐるみの声や、穏やかな星の囁きも遠ざかって、代わりに絡む唾液の音と、リップ音が耳に響く。柔らかな彼の香りに包まれて、頭がふわふわとして気持ちいい。歯列をなぞる熱い舌に、自分のそれを絡めると、肩を掴むのとは反対側の腕がぎゅっと、わたしの腰を抱いた。彼の熱に、全身が包まれて、こんな屋外なのに、ねえ、欲しい、なんて浅ましい欲がお腹の奥から湧き上がる。


唇を離したときにはもう、力が抜けてくたりとリーブに寄りかかって、間近にあるその顔をぼんやりと見上げていた。


「リーブ、」
「…戻りますか?」


同じ色を湛えたヘーゼルの瞳がわたしのそれを覗き込んでいる。今すぐにもこの熱を冷ましてほしい、あなたに触れたい、だって、此処はプライベートビーチなんでしょう、なんて。コスタ・デル・ソルの賑やかさに当てられたのかもしれなかった。太陽の海岸。今は月が仄かに照らすこの場所に、ただ彼とわたしの、ふたりきり。


「…ここで…ここで、したい」


小さく見開かれる、その瞳をまっすぐに見つめた。わたしの発した言葉に、煽られるように劣情が浮かぶのを。ため息をついて呆れたような表情を作ったけれど、瞳の奥にぎらぎらと光るそれは誤魔化せずに、わたしの背筋をぞくぞくと痺れさせる。


「今日は我がままが多いですね」
「…だめ?」
「いいえ。もっとたくさん、聞かせてください。可愛い貴女の我がままにならいくらでも付き合いますよ」


——ユリア。
可愛い、なんて言われて名前を呼ばれて、心臓は痛いくらいに音を立てて、ただただ身体中が熱い。もう一度その唇に引き寄せられて、瞳を閉じた。