Comment on les ressent quand on touche les bonheurs
何か嫌なことがあった時のリーブはいつもより少し、表情が硬い。ユリアがそれに気がついたのはもう随分と前のことだった。少し前に彼女が落ち込んでいることにも敏感に気がついた彼と同じようにユリアもまた、彼の些細な表情の変化にそれを察せるようになっていることに気づかされる。それにどこか気恥ずかしい思いを抱きながら、いつも通りに振る舞おうとする彼に近づいた。
「ユリア、どうしました?」
夕食の後、彼はソファに座っていた。テレビの電源は消えていて、彼は何をするでもなくぼんやりと虚空を眺めている。ユリアは彼の座る隣に彼の方を向いて正座すると、きょとんと首を傾げる彼のその言葉には答えずに抱き寄せた。背の高い彼の頭がちょうどユリアの胸に埋められて、そのままユリアは包み込むように彼の頭を抱く。頭頂部に顔を埋めるように下を向くと、彼女の使っているのと同じシャンプーの香りがいっぱいに広がった。同じ匂いのはずなのに、どうして、彼の髪から香るときはこんなにどきどきするんだろう。鼻をぐりぐりと擦り付けるように動かしてユリアは、彼のためにしているはずの行為に幸せを感じて甘く高鳴る胸の鼓動に気がついて口元を緩めた。
「ユリア……ありがとうございます。心配させてしまいましたかね?」
「……心配。うん、そうだね……心配……心配、というより、」
――落ち込んでたら、元気になってほしいと思うよ。ユリアの優しい言葉にリーブはゆるく微笑んだ。その表情は彼女からは見えないのだけれど、どこか安心したようにゆっくりと瞳を閉じる。少し、体勢がきついな。リーブは彼女の腰を引き寄せて、自分と向かい合うように膝の上に座らせるとそのまま、首筋に顔を埋めて抱きしめた。くすぐったい、と笑う彼女に少し我慢して、と返すけれどやっぱり、彼女はくすくすと笑いながらしきりに身動ぎを繰り返している。柔らかな肌も、その鈴を転がすような笑い声も、彼のささくれだった心にすっと沁みわたって、小さな安らぎをもたらしてくれる。小さな悪戯心で、彼女の首筋をくすぐるように髭で撫でさすればもう!と怒ったような声で小さく肩を叩かれて、すみませんでしたと笑った。
「今日はなかなか運のない一日でしてね」
「運のない一日」
抱きしめる腕を緩めると、ユリアは彼の言葉を繰り返して、なるほど、と頷いた。
「おっぱい揉む?」
「……は?」
「……いや、」
男はみんなそれで元気になるもんだって言われたぞ、と。自分で言いながら顔を赤らめる彼女のその口調に、いつの間に彼に会っていたのかとか、一応神羅とは無関係の組織としているのだからもう少し慎重になってほしいとか、やっぱり何故彼と会っていたのかとか、たくさんの感情がぐるぐると心臓の辺りを回ったけれど、結局口からこぼれたのはため息ひとつ。膝に座る彼女ごと横に転がれば、慌てたようにしがみリーブにしがみついたユリアがいっしょに、ソファに横たわる。そうして見慣れた彼女の顔が近づけば、どうしたって口付けたくなってしまう。リーブはその欲求に何ら逆らうことなく、彼女へ唇を寄せた。
「……んっ、ぅ、りー、ぶ……」
唇を合わせるだけで感じ入ったような声を漏らすユリアは酷く扇情的だと思う。だからきつく背中を抱きしめる腕も、呼吸さえできないくらいに深く交わす口付けも、彼の理性には止められない。今日は少し、苛々としていたこともあって、彼のそんな劣情は彼女を窒息してしまうまで口づけを続けようと彼に囁いた。しばらく続けて苦しげな吐息をリーブの口内に溢す彼女にその囁きは大きくなるばかりだったけれど、どうにか理性をつなぎ止めた彼が名残惜しげに唇を離す。繋がった銀の糸ごと、最後に彼女の唇を舐めると肩で息をする彼女を強く抱きしめた。
「……すみません、苦しかったでしょう」
「大丈夫、だよ……」
少し落ち着いたつもりでいたが、そんなことはなかったな。リーブは心中で反省する。彼女の呼吸はまだ苦しげだった。申し訳なさと、その扇情的な呼吸に熱くなる体と、そんな自分自身の反応への罪悪感と。
「ですが……」
「痛くても別に……死ぬわけじゃ、ないし」
ひゅっと、息が詰まるのを感じた。彼女はこういうときどこまでも自分に無頓着で。時折衝動に逆らえずに彼女を傷つけてしまうリーブのことも受け入れてしまうから、だから彼は落ちてゆくのを止められなくなってしまう。本当は手酷く抱きたくなどないのに。先ほどまで心に巣食っていた感情は、その言葉にむしろ萎んでゆく。
「そんなこと、言わないでください」
「リーブ……?」
リーブの声は彼自身が思っていたよりも硬いものだった。それにユリアは彼の腕の中で顔を上げる。何かまずいことを言ってしまっただろうか、とおろおろとする彼女を傷つけてしまいたい衝動は確かに彼の中にある。それはきっと彼が優しく生きようと理性を振り絞って生きる毎日の反動で。けれど同じだけ、否、それ以上の質量で彼女を大切にしたい思いが彼をいつも人の道に引き留めている。自分をなおざりにして彼に尽くそうとする彼女にもそれを知っていてほしかった。貴女にはそれだけの価値があるのだと。
「……私は……時折貴女を手酷く扱ってしまう私がこんなことを言っても説得力はないかもしれませんが……私は、貴女を大切にしたいのです」
「……あ、りがとう……」
「私の言っていることは、ちゃんと伝わっていますか?苦しめるのは……互いに、苦しいでしょう……?」
「い、や……なん、だろう……」
リーブの思いを前に、ユリアは戸惑ったように視線を彷徨わせながら言葉を探しているようだった。やがて見つけた言葉はきっと彼の望む言葉ではなかったのだろうとリーブは思う。ユリアは気まずげに瞳を逸らしたまま小さく言った。
「……そっちのほうが、安心するの、かも」
――私が歪んでいるのは自覚していますが、彼女も大概ですね。
彼女の言葉にリーブは瞳を細めた。それを怒りや苛立ちと受け止めたのかユリアはびくりと体を震わせる。あながち間違ってはいないけれど。
「……それでも私は、貴女を正しく愛する努力をやめたいわけではないのです」
「そっか」
「はい」
「……ごめんね」
ふたりの関係はどこか歪で、一歩間違えばきっとどこまでも暗い闇の向こうへと転がり落ちていってしまう。いつだって二人はその崖のギリギリを歩いている。ふとしたきっかけですぐに落ちてしまうその崖の淵を、それでもリーブは、歩き続けることをやめたくはなかった。その思いだけはユリアにも届いたのだと、思う。この世界は彼らに冷たいから、そう、ふたりに冷たいから。だからそれはとても難しいことだけれど。
「わたしがただのヒトだったら、ちゃんと傷つければ傷がついて……深い傷を負えば死ぬふつうの人間だったら、違ったかもしれないのになあ」
ユリアがそれを負い目に思っていることももちろん、知っている。そして彼女の言っていることはおそらく間違っていない。傷つけすぎたら死んでしまうなら彼ももっと忍耐強くいられたのかもしれない。
気づけば甘い空気は重苦しいものに置き換わってしまったソファの上で、背中を抱いていたリーブの手が彼女の頬を撫でた。その優しさにユリアは顔を上げて少し、頬を赤らめる。リーブは困ったように眉を下げて、笑っている。
「どんな貴女でも……私は貴女だから愛しているのです。ですからそれは、意味のない仮定ですね」
――暖かいな。ユリアは思う。彼の温度はユリアのそれよりも高いから、だから彼が生きてるのだと、こうして包まれるたびに実感できる。囁き送られる言葉もまた彼女を温めてくれる。ああ、なんだか、
「励ますつもりが、励まされちゃったね」
「いいえ、どうやら私は貴女を心配している間が一番、元気になれるようです。貴女のことを思えば他の全てが些細なことのように思えてきましたよ」
もう一度贈られた口づけは、今度は触れるだけ。3秒くらい、湿った唇が彼女のそれに押し付けられて、啄むでも舌を差し入れるでもなくただ、彼の温もりを唇からつたえた。やがて離れてゆくと、自分の言葉に今更に恥じらいを覚えたのか恥ずかしげに鼻の下を撫でるリーブにユリアは小さく笑う。
「リーブ、結構わたしのこと好きだよね」
「気づきませんでしたか?」
「……ううん、」
知ってた、よ。
腕の中で顔を俯けようとする彼女のその表情をずっと見ていたくて、リーブは顎に手を添えてそれを引き止める。やはり彼女がこうして可愛らしくしていると心が凪いでゆく。衝動が消えるわけではないけれど、それ以上に、ただ、彼女の隣で呼吸をしていたいと、そう思う感情の方が今はずっと強い。
「……おそらく、」
「……?」
首を傾げる彼女がただ、愛おしい。
「私は貴女が想像するよりずっと、貴女のことを思っていますよ」
「……う、うう……」
彼からの予期せぬ追撃に恥ずかしくなったらしい。小さく呻いた彼女はぐりぐりと鼻先を彼の胸に押し付けるので結局、彼女の顔は見られなくなってしまった。少しだけ残念だけれど、そうして隠れてしまった彼女が胸の中でどんな風に恥じらっているのかは想像できるから、くすくすと笑って彼女を抱きしめ直した。
「ユリア、お願いをしてもいいですか?」
「う、うう……いいよ……」
「はは、ありがとうございます。では、」
もう少しだけ、このままで。
リーブは胸の中の温もりを抱いて幸せそうにそう囁く。ユリアが先ほどそうしたように、頭頂部に顔を寄せて、髪を撫でて。腕の中の彼女が小さく頷いて、さらりと細い髪が彼の指を撫でた。幸せというものに触れられるならきっとこんな感触なんだろうと、そう思ってリーブはゆっくり瞳を閉じた。