another prologue - A lost girl craves her home.
あの日、悲鳴を聞いた。いくつもの声が重なり合い、手を伸ばして、そのまま向こう側へと落ちてゆく。助けてくれと叫ぶ幾千もの人の声。男も女も、老人も子供も、誰もが同時に上げる叫び声が脳を壊すように響き渡った。
それが全ての始まりだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあアイツまた祠に行ってるのかよ」
「……わ、からないけど……たぶん」
「そんなの浮気じゃんか!」
ウータイの宿屋の一室から怒鳴り声が響き渡った。聴き慣れた彼女の声と表情とが怒りに染まっているのに、ユリアはどうすべきかわからずに苦笑いを浮かべることしかできない。彼女は——ユフィは、テーブルに置かれた菓子を口に運びながらそんなのおかしい、と繰り返している。
この話を彼女とするのはもう何度目だったか。ユリアは思い返してみるけれど、この3年の間幾度となく交わされてきたやりとりに、数を数えることは早々に諦めてしまって、何度同じ話をしても同じように怒りを顕にする目の前の友人を見つめた。
話題に上っているのはユリアの恋人のこと。旅の間に絆を深めて、互いに過去の罪を抱えながら、それでも惹かれてしまった男のことだった。
「……最初から、わかっていたことだから」
「でも、」
「だからたぶん、大丈夫だよ」
——だから、どう、大丈夫だと、いうのだろう。ユリアは自嘲する。ユフィに呼ばれてウータイを訪れたのは彼女一人。ヴィンセントは此処を訪れる数日前に連絡が取れなくなって——おそらく『彼女』のところへ行ったのだろうとユリアは思っている。彼は時々、突然姿を消してしまう。そのときどこへ行っているのか、ユリアは尋ねたことはなかったけれど、尋ねるまでもなく答えは明らかだった。
朝目が覚めると、隣にいたはずの彼がいない。眠る前は確かにそこにあったはずの温もりさえ、もうどこにも見つけられない。そんな時の胸を掻き毟られるような苦しみにももう、慣れてしまった。ウータイに行くと言ったユリアに、ヴィンセントがついてくることさえなくとも、「またか」とか「やっぱり」だとか、その程度の感情しか抱けなかった。
朝が来るのが怖い夜も、瞳を開けるのが億劫な朝も。数年前にはあったはずの胸の痛みも、何もかも、麻痺してしまったように心はなにも感じない。それに比例するようにヴィンセントが離れている期間が長くなってゆくのにも本当は気付いていた。気付いていて、黙っている。
「……ユリアは、優しすぎるよ」
「そんなこと、ない」
それは優しいからじゃない。怖いからだ。心を麻痺させて、何も感じなくなってしまう方が楽だった。ユリアとヴィンセントの間にはいつだって分厚く透明な壁があって、その壁越しにしか彼を見ることができない。近づけば見えるかもしれない彼の本心を直視できるほどには、その壁を壊して彼の奥底に触れられるほどにはユリアは強くはなかった。ユリアは時折、わたしがもっと強ければ何か変わっていたのかもしれないと考えてはみるけれど、一歩踏み出す勇気のない彼女はいつも現状維持を選んでしまう。一人の夜をただぼんやりと過ごして、何事もなかったように戻ってくる彼にいつも通りに接して。そうして維持しているはずの現状が少しずつ悪化してゆくのをただ甘受する。気づけば暗い夜の闇の中で、たった一人で立っている。明かりはどこにも見えず、ただ黒だけで埋め尽くされた世界。あの鮮やかな赤はどこにも見つけられない。
それでも、彼を愛している。その思いだけが彼女を支えていた。ユフィも、そして今はエッジにいるもう一人の彼女の友人も、それを知っているから心配しながらも何もできずにいる。二人がとても曖昧な関係の中にいて、それはごく小さな細波でも壊れてしまうような脆いもので。そんなものでも、ユリアがそこから離れようとしないのなら。あんな男やめておけと何度言ったところで彼女が彼を愛しているのなら、無理に引き離すことなどできるわけがなかった。
「無理、すんなよ」
「ありがとう、ユフィ」
とりあえずヴィンセントは、今度あったらぶん殴る。ユフィはそう思いながらも、結局ユリアには何も言えなくて、悔しげに奥歯を噛み締めるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二ブルエリアの朝日は美しい。今はもう人が住み着かなくなってしまったこの場所で、暖かな光が空を包むと、世界の始まりはきっとこんな風だったのだろうなんて、そんなことを思わされる。きっとこの世界は希望に満ちている。東の空が薄く白むのを見るたびにユリアはそんな気持ちにさせられる。
だから、わたしは。わたしは此処には似合わない。今日もまた、目を覚ませば隣にあったはずの温もりはそこになくて、きっとユリアが目覚めるよりも何時間も前——この街がまだ闇に包まれていたころに、彼はここを立ち去ったのだとわかる。ユリアは眩しい朝の光を遮るように布団を深く被り直した。
まただ。ウータイから戻った日にはまだ隣にいた。それからまだ三日目だけれど、昨日は朝起きたらまだ彼が眠っていて、それを意外にさえ思ってしまったくらいだ。いずれ、それもそう長くないうちにこうなることは、分かっていた。
——だって、いつもの、ことだし。
あの時。あの、長くも短かったあの旅の時には確かに隣にいた。寄る辺を失ったユリアが、全てから切り離されてこの世界へと連れてこられ、仮宿にしていた場所は街ごと失われ、どこまでも帰る場所のなかったユリアにとって、彼の腕の中は確かにあの時、ユリアにとっての帰る場所だった。
今もまだ、ユリアは彼の腕の中以外には帰る場所を見つけられずにいる。だからそれを失った彼女は今、帰り道が分からずに誰も振り向かない通りの真ん中でただ立ちすくむ子供のようだった。
眩しかった。この世界の何もかもが。布団を一枚隔てただけの世界はユリアにとって明るすぎる。いつの間にか進むことも戻ることもできなくなって立ちすくむだけの彼女とは違って、世界は今日も回っている。新しい明日が来るたびに、ユリアの今日は——昨日さえ、終わっていないのだとつきつけられる。
起き上がった彼女は裸足のままで壁の隠しボタンにそっと触れた。ガラガラと歯車の回る音がしてすぐ、そこにあった地下室への扉が開かれる。向こう側はまともに掃除もされず放置されたままで、暗い螺旋階段の向こうに太陽の光が差し込むと浮かんでいた埃でしそこはうっすらと白っぽく見えた。
神羅屋敷に滞在するときは時折、この場所へと訪れたくなる。ヴィンセントが消えてしまった日の朝は、特に。全て綺麗に掃除してしまえば、この場所も彼女を置き去りにしてしまう気がして、埃の一つも落とせずにただ3年前と同じ姿を保っている隠し通路の向こう側。一歩足を踏み出せば古い階段はミシミシと音を立てたが、構わずに下へ下へと降りてゆく。
「……おはよう」
階段を下りた先で光を嫌うように向こうへのっそりと歩いていた双頭のモンスターに声をかけたが、それは振り返りもせずに向こうの部屋へと消えて行った。この屋敷のモンスターたちはあまり人間に関心を示さないらしい。あのモンスター——インとヤンの双子は時折興奮した様子でユリアに殴りかかってくるけれど、ユリアは彼らに自分から攻撃を加えたことは一度もなかった。
きっとユリアは、あの時のまま、変わらないものを求めている。
地下室の扉の向こう、宝条の実験室だったその場所で、ホコリが積もったままの椅子に腰掛けると、意味もなくそこにおかれていた本を開いた。中身は確かにユリアの理解できる言語で書かれているはずだが、それは非常に難解で、眺めてみたところで理解できるような内容とはかけ離れていた。
本を開くことには意味なんてない。宝条の実験記録になど興味はなかったし、そこで何が行われていようともユリアには関係のないことだったから。そこに刻まれた文字列のほんの一行だって、彼女は覚えていない。こうして毎度異なる本の異なるページを開いてただ、朝が終わるのを待っている。ただ、それだけ。
この世界で「生きて」ゆくのだと、そう思っていた。少なくとも此処へ訪れた8年前には。けれど今、こうしてただ時が流れるのをじっと耐えるだけの毎日は果たして、あのスピラの谷底で過ごした100年余の時間と一体何が違うというのだろう。ユリアは自問する。今はあの時とは違って愛する人が隣にいる。彼は失われてなどいない。
——本当に? ユリアの中にいる誰かがそう、問いかけた。
「……やめて」
小さく呟く。
彼が生きていようと死んでいようと、彼の心が彼女の届かない場所にあるならば、結局のところ同じじゃないか。そんなこと、ユリアは気付きたくなどない。だから生きているのに、死んでいるのと同じような毎日を享受して、歩む時を止め、痛む心を殺して。終わりの見えない迷路の中でたった一人で呼吸をしている。
彼の帰りを、待っている。きっともう戻らないのだと、心のどこかでは分かっていた。きっとわたしはひとときの止まり木に過ぎない。わたしの帰る場所が彼のもとでも、彼にとってはきっと——
頭では全てを諦めている。心はそれに追いつけずにいるから前に進めない。それはきっと時間が解決するような優しいものではなくて。彼女が変わるか、彼が変わるか。そのどちらかがなければ永遠にこの薄暗い地下に止まってゆっくりと朽ちてゆくだけだった。実際彼女は少しずつ笑顔を失っていたし、ヴィンセントは少しずつ、ユリアではなく『彼女』のもとで過ごす時間が増えていて。このまま全てが朽ちてゆくのかもしれない。ユリアの冷静な部分はそう分析してさえいた。
その日の夜食料を買って戻ったヴィンセントは、屋敷の地下から響く悲鳴に階段を駆け下り、その向こうに倒れるユリアを見つける。ユリアの止められたままの時計の針は唐突に、そして不条理に彼女を前へ前へと追い立てることになる。その心を、切り裂いてでも。