Antinomy


「…え?ヴィンセント、行っちゃったの?」
「は、はい…一応ユリアさんのいる場所はお伝えしたのですが…」
「…そっか…。…えっと、どこに…?」
「ニブルヘイムの神羅屋敷へ…ルクレツィア博士の研究資料を…」
「……」


リーブの元には、本部の損傷状況や怪我人・死者等の被害状況を調べていたユリアが訪れていた。
一通りの報告を終えた彼女に、つい先ほどまで彼女が立っていた場所とちょうど同じ場所にいた男の話を切り出せば、ユリアは驚いたような表情を浮かべ、そうしてその行き先になんとも言えない表情を浮かべていたけれど、それからすぐに笑顔を貼り付けた。リーブには、その笑顔が心からのものではないのだとすぐに分かってしまって、罪悪感で胸が痛むのを感じながら、何も言えずにただ困ったように眉を下げてみせる。


「なるほど、カオスの…じゃあヴィンセントにしか任せられないね」
「…すみません…」
「リーブが謝ることじゃない。実際ヴィンセントが一番適役だし」


リーブはそれに心配の色を強めたが、ユリアは何も言わずに話を逸らした。


「…シェルクの様子はどう?」
「シャルアさんが診ています。特に目立った外傷もなく眠り続けているようです」
「…そっか。目が覚めたらちゃんと話せるといいけど」


シェルクの様子に関心があったのは嘘ではないだろう。シャルアとユリアの仲はそう悪くないし、シャルアが探している妹のことをユリア自身も心配しているのは分かっている。それでも思ってしまうのは、人の心配をする前にまず自分の心配をしてほしいのだということで。


「…ユリアさんの方は、大丈夫ですか?」
「わたし?」


リーブは聞くかどうか悩んで、結局そう口にした。
この件ではユリアには、何もなくも大きな負荷が掛かっている。今も常に星の声が聞こえるという彼女は、死ぬことはないとはいえ食事もまともに取ることができていない。本当なら――例えば、3年前の旅の時ならば、ユリアを支えていたはずの存在も今は此処にいない。そしてそうしているのは、たとえ他に手がなかったとしても、リーブ自身だった。


「ずっと食事を取られてないでしょう。それにヴィンセントのことも…」


その名前を出すたびに浮かぶ、傷ついたような光に気づいてしまうのに、リーブには三歩分離れた彼女との距離をただ一歩縮めることさえできやしないのだ。だからユリアは聖母の仮面を被り、赦しを齎すその微笑みのまま、ヴィンセントの身を案じてみせる。


「…カオスには他の力とは違う何かがあることはわかってた…それがきっと今回の件と関係してる…ヴィンセントがカオスの力を使うたびに星がそれを…求めるように叫んでいる…」
「求める…?」
「うん。…ミッドガルの地下で何が起きているのかは分からないけど、きっとヴィンセントには大きな…役目が、課されているんだと思う。わたしにできることはとても少ない…」
「…ユリアさん」
「…ヴィンセントを支えるのがわたしの役目、じゃないかな」
「しかしそれでは、」


ユリアさんのことは誰が支えるのですか。
リーブのその言葉に、ユリアは固まった。リーブはそれを見て眉を顰める。この人はこうして、大切な人のために自分を簡単に追い詰めて苦しめてしまうから。嫌なはずがないのに、いくら事情があっても恋人が昔の女性を追いかけているのに、何も思わないはずがないのに、それをまるでとるに足らない感情であるかのように心に収めてしまうから。


「…そんなこと、考えたこともなかった」
「…お願い、ですから。ユリアさんはもう少し…自分を大事にしてください…」


リーブは絞り出すような、乞うようなその言葉に、とうとう笑顔を保っていられなくなってユリアは俯いた。


星の声を聞く人はもうユリアしかいない。エアリスがいれば、かつて彼女が生きていたころそうだったように、きっとエアリスの明るさや強さが、ユリアを支えたのかもしれない。ユリアもエアリス相手には特別に心を開いていたから、もしかしたら悩みも相談できていたかもしれない。


矛盾しているのはわかっている。ここにいる人はみな、命の危険を冒して任務を遂行している。ユリアに本部の守りを頼んでいるのだって、彼女の身を少なからず危険に晒している。たとえ彼女が死ぬことはないのだとしても。


それでも、ただ。


「…わたしは、あなたを心配しているんです…」


ユリアに、笑っていてほしいと、リーブはそう思っている。


「…リーブ、」


ユリアは何か言いたげに瞳を彷徨わせて、結局黙り込む。
――気づかれてしまったのかもしれない、彼の、その心のうちに。自分で考えていたよりも、絞り出したその声には切なさが籠っていた。彼女のその困ったような表情に罪悪感を覚えて、彼からもそれ以上はなにも言えずに、ただそこには気まずい沈黙が広がった。


その沈黙から逃げるように、ユリアが口を開く。


「…あの、ありがとう」
「…いえ…」


核心には触れない――互いに。
この場でそれに触れてもだれも幸せにはなれないし、リーブが隠し持っていたその思いは、許されないから隠していたのだから。そろそろ戻る、というユリアをリーブは見送った。


「…くっ…」


無人になった部屋で、険しい表情のリーブが壁を殴る。
笑っていてほしいなんて、心配しているなんて。馬鹿みたいだ。苦しめることしかしていないのに。