(どうしようどうしようどうしよう……!)
頭はその一言で埋め尽くされていた。
「最後にきたのは○月×日、周期は28日だから、いや、でも……」
生理がこない。特段思い当たる節があるわけではなかったが、そういった行為を全くしていないわけではなく、コンドームの避妊効果が100%でないことなどどんな商品を書いても外箱の裏に書かれていることだ。今まで一度も遅れたことのないそれが3日もこない、その意味するところは、つまり。考えたくはない、ナマエはまだ独身だった。思い当たる相手は幸い一人だったが、その彼が今子供を持てる状況にあるとは、少なくともパニック状態のナマエには全く思えなかった。
「……ティファ、」
最初に思い浮かんだのは彼の友人である女性。近所に住む彼女やそのパートナーにはナマエもまた世話になっている。いわゆる遠距離恋愛である彼への手紙や差し入れを送ってくれるクラウドと、ときおりそんな生活の悩みを相談に乗ってくれるティファ。情けないことだが、ナマエには本人に連絡を入れるという選択肢はなかった。とりあえずティファに相談しよう。ナマエは買い物用の小さな鞄に鍵と財布とだけを詰めて部屋を出た。無骨な鉄筋コンクリートのマンションはオートロック完備で女性の一人暮らしには最適だったが、この時のナマエにはその重々しい扉も、開くのに時間のかかるエントランスさえ苛立ちを助長する。彼女のいるセブンスヘブンは歩けば10分の場所にある。5分も走れば着くだろうと、舌打ちを堪えて自動ドアの向こうへ駆け出した。
バッグには携帯電話を入れ忘れていた。折り畳み式のそれがメールを受信して光っている。
新着メール1件
From: Reeve Tuesti
電気さえ消し忘れたナマエが部屋に放置したままのそれは、明るいだけの部屋で静かに点滅を繰り返していた。
◇ ◇ ◇ ◇
その日の昼下がり、セブンスヘブンで昼の営業を終えたティファは休憩を取りつつ夜の営業の準備をしていた。料理の下ごしらえや昼に使ったグラスの手入れ。ちょうどドアの掃除をしようとカウンターから出たところで呼び鈴が鳴る。はい、と声をかけて扉を開くと、そこにははあはあと息切れをした友人が立っていた。
「わ、ナマエ?どうしたのそんなに慌てて」
「ど、どうしようティファ、わたし、」
どうしよう、そればかり繰り返すナマエ。
ただ事ではないと察したティファは開店の準備を一時取りやめてナマエの手を握った。冷たいし、小さく震えている。ナマエがティファにわざわざ相談しにすること、それもこんなに気が動転するような。思い当たる節は一つしかなかった。
「リーブと、何かあった?」
正解を告げるように彼女の体が一段と大きく震えた。
泣きそうな表情の彼女に、まだ状況の飲み込めないティファはとりあえず店の中へと彼女を招き入れる。扉が閉まるとエッジの喧騒が遠ざかり、黙り込んだナマエにどう声をかけてよいかわからないティファの二人だけのセブンスヘブンに嫌な沈黙が広がった。
「とりあえず何か飲み物出すから座って?ちょうどココアがあるの、それでいい?」
肯くナマエを適当な椅子に座らせると、一度ティファはナマエの元から離れた。ちょうど洗い終わったばかりのカップにココアを準備する。ティファがカウンターの奥へ行ってしまうと、息の整ったナマエは無言で座ったまま俯いてしまう。
しばらくの間、スチーマーの発する音だけが客の居なくなったセブンスヘブンに響きわたっていた。
「はい、ココアどうぞ?」
「……あ、りがとう……ごめんなさい、突然……」
「ううん、いいの。少し落ち着いた?」
「そう……だね、ちょっと動転してたみたい……」
ナマエがココアに口をつけるのをティファは静かに見守っていた。ごくりと喉が小さく上下して、ことん、と小さな音を立ててカップがテーブルに置かれる。それから少しして小さく漏れるため息。賑やかなエッジの街の笑い声がドアの向こうから響いては消える。少し落ち着いたように見えるナマエとは対照的に、ティファはごくりと唾を飲み込んだ。
「それで……何かあったの?」
「えっと……別に、リーブに何かされた、っていう、わけじゃ、ないんだけど……」
——生理がこなくて。
深刻そうな表情で語られたその言葉にティファは目を丸くした。
「え、もしかして」
「ど、どうしよう、わたし、」
拍子抜けするような言葉にティファはむしろ戸惑うばかりだった。
「でもナマエ、うちのデンゼルやマリンともよく遊んでくれるじゃない。子供好きでしょう?」
「わ、わたしはそうだけど……リーブ、きっと子供なんて……」
「そんなことない、きっとリーブなら喜んでくれるよ」
「でも今はまだすごく忙しいしそんな余裕きっとないよ、どうしよう、わたし、捨てられたら、」
「ナマエ……」
小さなすれ違いだ。ティファはようやく状況を理解した。
リーブのことはあのメテオ災害の頃から知っているし、それから今は世界中知らない人などいないくらいの有名人になってしまったけれど、そんな彼がどれだけ忙しくとも週末には必ずエッジにある彼女のフラットへと訪れてナマエと手を繋いで街を歩いている姿を何度も見かけていた。そろそろ結婚とかどうなの? と尋ねるティファやクラウドに、まだ忙しいですからねと照れ隠しの言葉を返しながらもどことなく期待するようにナマエに視線を向けるリーブの甘い躊躇いをみて、ティファもクラウドも、まるで自分のことのように恥ずかしくなってしまうのもいつものことで。ナマエはたしかにそんなリーブの言葉を額面通りに受け取っては「そうだよね、もう少しお仕事が落ち着かないと」などと返答してリーブを落胆させていたものだったが、意外とへたれなリーブはきっとそれ以上先になかなか進めていないのだろう。だからこうしてナマエは結婚などする気がないと思い込んでいる彼氏に伝えられずに悩んでいる。
わかってしまえば単純な話だ。ただリーブに一言言えばいい。けれどリーブの気持ちには全く気付いていないだろうナマエにはそれができずにここへ来たのだ。これだけ辛そうにしているナマエを手前にまさか言えないけれど、ティファにはそれが嬉しい知らせにしか聞こえなかった。ティファはなるべく慎重に言葉を選びながらナマエの方を向いて口を開いた。
「リーブ、確かに忙しいけどナマエのことすごく大切にしてるのはわたしたちにも伝わってくるもの。きっと喜んでくれる」
「そんなこと、」
「リーブは簡単にナマエを捨てるような冷たい人じゃない。そうでしょ?」
「……それは、」
誰の目から見たって、リーブがどれだけナマエを大切にしているかなんてすぐにわかること。仲間だったティファからは特に。それでも妊娠というのは女性にしかない問題だし、ティファもその経験があるわけではないから、こうして不安げにしているナマエにはきっとたくさんの不安や焦りを抱えていて、それは彼女やリーブには想像できないような類のものだということもわかる。もともとそのための準備をしていたのならともかく——リーブのことだから避妊自体はきちんとしていたのだろうが——そうでなく唐突にこういうことがあったのなら、仮に結婚していたとしても気が動転するのは仕方のないことなのかもしれない。もう一度ココアを口に運ぶナマエを見つめながらティファは内心でそう考える。それでもリーブが、彼女を必要以上に傷つけたり不安にするような人間には思えなかったし、彼女がここまで悩まなければいけないことだとは考えられなかった。
「とりあえず、検査はしてみた?」
「ううん、まだ……三日だから、あと、数日待たないと。でも生理、わたし、遅れたことなんかなくて、」
「そっか。とりあえず、検査してみてからまた考えよう?リーブには伝えたほうがいいと思う」
「そう、だけど、わたし……わたし、どうしたらいいのかな、やっぱり本当に……に、妊娠、してたら……中絶……するしか、」
——ガタン。大きな音が入り口から響いて、二人は揃って肩を揺らした。
「……それは……どういうことですか?」
ナマエとティファは驚きに固まる。遠くからエンジンの音が聞こえた。きっと後ろにはクラウドもいるのだろう。しかしそれに気を回すゆとりは二人にはなかった。
ちょうど会話にのぼっていた当事者のもう一方、ナマエの恋人であるリーブ・トゥエスティが扉の向こう側に立っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「リーブ、いつの間に」
「……今日はナマエの誕生日でしょう。直前まで仕事が入っていて調整が難航したので連絡は直前になってしまいましたが……先ほど片付きましてね。なるべく早くお祝いしようとナマエの家へ訪れたのですが留守にしていたので此処で待たせて頂こうかと思って伺ったのです。それで、」
どういうことか話していただけますか?そう尋ねるリーブの瞳はいつもより鋭く、怒りを覚えているのは誰の目からも明らかだった。
「ナマエ、大丈夫?」
「何も……別に何も、ないよ……誕生日だったのわたしも忘れてた、わざわざありがとう……」
ナマエは決してリーブと目を合わせようとしない。ティファはおろおろと彼女とその恋人の方を見比べることしかできない。ちゃんと話すべきだと思う、リーブだってそれを望んでいるけれど、ナマエはそんなことにはきっと気付いてない。どうしようもない状況にどうすべきか考えていると、リーブの後ろから聞き慣れた声が響いた。
「リーブ、どうしたんだ?」
「クラウドさん、すみません」
「ああ、別に大丈夫だが……ナマエ、此処にいたのか」
クラウド、思わず声をかけたティファの様子には気づかなかったらしいクラウドが「ああ、ティファ、ただいま」と返して再びナマエに視線を戻した。
「誕生日だったんだな。さっきリーブから聞いたんだ。おめでとう」
「……あり、がとう……」
「どうしたんだ?元気ないな」
「べ、別に何も、」
「妊娠しているかもしれないのに何もない、ですか?」
リーブの声はいつも以上に冷たい。ナマエはそれにまた大きく震えだす。「妊娠?」と繰り返したクラウドはリーブの様子にも、ナマエの様子にも気づかなかったらしい。よかったじゃないか、と嬉しそうな声でリーブの方を叩いた。
「リーブもずっと子供ほしいって言ってただろ」
「……え?」
クラウドの言葉に驚いたのはナマエの方だった。その様子に不思議そうに首を傾げたクラウドが、「なんだ、子供を作ろうとしてたんじゃないのか?」とナマエとリーブに尋ねる。リーブは戸惑ったように「そういうわけでは……いえ、子供がほしかったのは事実ですが、」と先ほどまでの怒りを萎めて呟く。
(クラウド、ナイス!)
ティファは思わずそう叫びたくなった。あまり人の気持ちに敏感な方ではないクラウドだが、今回はそれがいい方向に働いたらしい。ようやく冷静さを取り戻したらしいリーブが此方へ歩み寄って、ナマエの隣へ腰掛ける。それに合わせてティファは立ち上がった。何も言わずにクラウドの手を取って奥の階段を上がってゆく。何かあったのか?と尋ねるクラウドにはし、と口に人差し指を当てて。いまだ状況が掴めていないらしい彼もわからないなりに頷いて静かにティファの後をついて行った。
セブンスヘブン。客の居ない広い店に、ナマエとリーブは二人で座っていた。相変わらず店は静かで、まるで死刑執行を待つような沈黙があたりを包み込んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ナマエ。先ほどは怒ってしまってすみませんでした。話だけでも聞かせてもらえませんか?」
「……」
ナマエは無言を貫いていた。俯いた顔に髪がかかって、リーブの方からはその表情は窺えない。それでもぴったりと合わさった膝の上で固く握り締められた拳が彼女の心情を物語っている。
苦しめたいわけではなかった。傷つけたいわけでも。
しかし、それでなくとも普通ではない状態の彼女に、ほんの一瞬でも怒りをぶつけてしまったことをリーブは深く後悔していた。自分のどっちつかずの態度がそれを招いてしまったことも理解している。ティファもユフィもバレットも、クラウドやヴィンセントさえ気付いているだろうことにナマエ一人が気付いていない。
彼はいつだってナマエと家族になりたかったし、街で子供を可愛がるナマエを見るたびに将来のことを想像しては頬を緩めていた。
——本当は今伝えることではなかったけれど、彼はここで今日の予定を変更する決意を固めた。
「ナマエ、今日は誕生日プレゼントを持ってきました」
不意に話題を変えたリーブに、ナマエは初めて顔を上げた。眉を寄せ、口を固く結んだままの彼女に、リーブはズボンのポケットから小さな箱を取り出す。ことん、と音を立ててテーブルの上に置かれたそれを見つめる彼女の、小さな手にそっと触れる。彼の硬い大きなそれとは同じ形をしているのに全く別物のように、柔らかく暖かな感触。指を一つずつ開いて、その拳を開くと、白くなった手の上に優しくその箱を載せて。それから彼の手がその箱を開いた。
「……これ、」
ナマエは戸惑ったように視線をリーブの方へと向ける。思った以上に近くにあったそれに驚いたように瞳を見開く彼女を、リーブは優しい眼差しで見つめていた。
家族になりたかった。ずっとそれを告げられずに、恋人という曖昧な関係のまま時間ばかりが過ぎていって。いつまでもそんなことをしていたら相手も不安に思うはずだと部下にさえ言われたことがある。それでようやく決意を固めた。こんなタイミングで言うなんてもしかしたら最悪かもしれないとリーブは思う。そもそも、ナマエに結婚する気はない、なんて可能性も——いや、それは考えないことにしよう。
「本当なら今日の夜レストランを取ってあって、そこで告げる予定だったのですが……」
「うそ、」
「嘘じゃありません。私はずっと貴女と家族になりたいと思っていたし……子供だって、ずっと欲しいと思っていました」
「だってリーブ、そんなこと一度も……」
「私が曖昧な態度を取っていたために不安にさせてしまいましたね。本当にすみませんでした。しかし……」
リーブはそこで一旦言葉を止めた。驚きでまだ何が起きているのか理解できていないらしいナマエは先ほどまでの何かに耐えるような不安げな表情を消し去り、ただ戸惑ったように手の上の箱とリーブとを見比べている。
小さな紺色の箱。中には小ぶりのダイヤのはめ込まれた、小さな指輪がひとつ入れられていた。
「中絶なんて悲しいことを言わないでください。私は貴女の子供でしたら喜んで受け入れますし、二人で育ててゆく覚悟もあります。これがその証です」
私と結婚していただけませんか。それはナマエが聞いたうちで一番、真剣な声だった。
「……生理予定日からまだ三日で、検査もしてないから本当のところはまだ分からないの」
「そうでしたか。しかしナマエは今まで遅れたこともありませんでしたから、きっと不安だったでしょうね。気づかなくてすみませんでした」
「ううん、大丈夫。……来週になったら病院に、行ってみようと思うの。いっしょに来てくれる?」
「もちろん」
「……ありがとう」
それからナマエは不意に顔を俯けて黙り込んだ。リーブは声をかけるべきか悩んで、結局何も言わずに彼女が再び口を開くのを待つ。
こんな場所でプロポーズするはずではなかった。同じようにナマエも考えているだろうことは容易に想像がつく。今までもう何年も言えずにいた思いを、まさかこんな風に告げることになるなんて。彼女には言えないけれど今晩のために周到に準備してきた数々のことを思い出して小さな後悔さえ感じる。しかし今しかなかった。リーブはそう思った。
たっぷりと一分以上、ナマエは黙り込んでいた。やがて顔をあげて、リーブの方をまっすぐに見つめる。リーブは小さく唾を飲んで、けれど視線は逸さずに静かに彼女を見つめ返した。
「リーブは本当に大丈夫?その、忙しいのにわたしなんかと……」
「当たり前です。本当ならもっと早くに告げたかった。ずっと……言えずにいたのですが」
「……そ、っか。気づかなくて、ごめんね」
「いえ、私が言い出せなかったのが悪いので……」
「そんなことないよ。わたしも……言いたかったの。でも言えなくて……」
「だから、ありがとう。結婚したいって言ってくれて。わたしも……あなたの、妻になりたい」
リーブは彼女のその言葉に、ただ彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。そんなリーブに小さく笑って、ナマエは言葉を重ねる。
「結婚、しよう」
ナマエはダイヤモンドを取り出して箱をテーブルに置くと、そのままそれをリーブの手の上に置いた。そうして右手をそっと差し出す。何を待っているのかは明白だった。リーブは小さく震える手でその小さなリングを掴んで、それからその右手に反対側の手を添える。小さくて柔らかい、大好きな女性の手。
そっと指に輪を通すと、ゆっくりとそれは付け根へと近づいてゆく。そうして彼女のためだけに作られたそれはぴったりと、彼女の薬指にはまった。窓から注ぐ太陽が反射して一度だけ、きらりとそのダイヤが煌めいた。
「……ありがとう。最高の誕生日プレゼントだね」
「いえ、こちらこそ……ありがとうございます。貴女の誕生日なのに私もたくさんいただいてしまった気分ですよ」
胸のあたりが擽ったくて、うまく言葉がでてこない。けれどそれは、ナマエも同じらしい。目があって、どこか恥ずかしげに頬を赤らめる彼女と、同じように頬が熱い自分。おかしくなって笑い出せば、ちょうど同じタイミングで彼女もまた笑っていた。
計画通りとは程遠く、かっこよくもなかったかもしれない。それでも彼は、世界で一番幸せだと強く強く、感じていた。二人の他人同士はひとつの家族になった。そこにはすぐに、もう一人加わるかもしれない。そうなればいい。隣で笑う彼女とこれからも共に生きてゆく。それが何よりも尊いことに思えた。
二階まで響くその笑い声に、ティファとクラウドが何があったのかと降りてくるまであと、少し。
いつも可愛らしいリーブさんをたくさん生み出してくださる素敵な同志リシァさんへお誕生日プレゼントです!ずっとプロポーズしたかったリーブさんとそれに全然気づかない主ちゃん、みたいな何かを書きたかったのですが可愛い局長はリシァさんの専売特許だったかもしれません、というかわたしには難しかったです……局長の夢を書いてくださる貴重な仲間としてこれからも末長くよろしくお願いいたします。よい一年が過ごせますように!