Old Fantasy

「……いっ……た、」


午後8時。帰宅しようと腰を上げて思わず、腹を抑えた。こんな時間だからか、部屋の中にも外にも私以外の人の気配は感じられない。よかった、もし誰かに見つかってしまえば大変なことになってしまう――たぶん、私が。どこかに治療用のマテリアは置かれていただろうか、ああでも、もし彼が次に会ったときに痣が綺麗に消えてしまっていたら機嫌を損ねてしまうかもしれない。でも少しは……せめてケアルでも掛けてからじゃないと歩くのも辛い。痛み止めの薬はもう、3時間前に使い切ってしまったし。


――今日は帰らない


座ったままで携帯を開けば夫からのメッセージが光っている。一体どんな用事で帰らないのか尋ねる気にもならなかった。今日は彼から殴られることも、蹴られることもない。それがわかれば十分。溢れた溜息は諦めか、安堵か、自分でももうわからない。当たり障りのない返信を打って、もう一度お腹に力を入れないように気をつけながら立ち上がったところで突然、入り口の扉が開いた。


「っ、あ、統括……いっ」
「ナマエさん……?大丈夫ですか!」


突然のことに驚いて注意が逸れてしまったせいで再びお腹から鈍い痛みが走って顔を歪める。駆け寄ってきた統括は椅子の背もたれに左手を乗せて心配げな表情で私を覗き込んだ。どうしよう。心臓がひやりと冷える、心地がした。この人にだけは、見られたくなかったのに。


「……だ、いじょうぶです……ちょっと、体調が、よくなくて……」
「しかしそれは……」


統括は尋ねていいのか分からない、という風に何度か口を開いては閉じるのを繰り返して、治療のマテリアは必要ですか?と当たり障りのない言葉を口にする。ごめんなさい、内心そう思いながら頷くと、手にもっていた鞄から小さな緑色の球体を取り出した。


「あ……りがとう、ございます……」
「あの、差し支えなければ私がしても?」


マテリアを受け取ろうと手を伸ばした私に少し硬い彼の声が届く。どこか有無を言わさぬ響きに考えるよりまず、頷いていた。


「……大丈夫、です、が……」
「では失礼しますね」


近づいた統括の付けていた香水の香りが鼻を擽った。それはどこか、泣きたい気持ちにさせられる。腹を押さえている右手を包み込むようにバングルにマテリアを取り付けた統括の右手が添えられてすぐ、腹部からは緑色の光が立ち上った。光が舞い上がっては消える毎に痛みは緩く、引いてゆく。


「……痛み、引いたみたいです。ありがとうございます」
「……」


統括は私の言葉に何も答えない。魔法はとうに唱え終わっているのにも関わらずその手を下げる様子もなかった。それどころか触れるか触れないかの位置に添えていた右手で私のそれを緩く、握って。


「……統括?」
「彼とはうまくやっているんですか?」
「彼、って、」
「治安維持部門の部長の、」
「……夫の、ことですか」


どうしてこの人がそんなことを聞いてくるのだろう。心なしか鋭くなった眼光と、握られた右手に緊張が走った。逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに不思議と抵抗さえできず、まずまずですよ、なんて当たり障りのない返事。右手を包む大きな掌の感触が強まってもう一度咎めるように統括、と呼んだけれど、離そうとする様子はない。


こつこつと鳴り響く時計の音だけが響くオフィスの片隅でごくりと唾を飲み混む。デスクと、統括とに前後を挟まれて身動きの取れない私を、解放する様子のない彼はまだ、何も言わない。じっと私よりずっと下を見つめたまま、口を固く結んでいる。もう一度口を開いた。


「あの、統括、」
「いつまで我慢を続けるつもりですか?」


―― ナマエ。
ようや口を開いた彼の、纏う空気が変わったのを肌で感じた。


「……それは、どういう、」
「私が何も気づいていないと、本気で思っているんですか?」
「……」


こんなに間近でこの人の顔を見るのは随分と久しぶりだと、場違いなことを考える。何か強く訴えかけるような彼のその声と、心配の色を宿して視線をまっすぐ私の顔へ移した彼のその瞳に、思わず逃げるように俯いた。


「……なんの話、でしょうか。私はしがない契約社員で、」
「それだって彼に強要されたこと、ですね?」
「そんなこと、」


なんで、この人はこう、言葉にしないことも何もかも、察してしまうのだろう。正社員として入社した神羅カンパニー本社で、同期だった彼とは随分と離れてしまった。彼は上層部の一人で、私は本社の片隅で書類整理をするだけの、非正規職員でしか、なくて。今更のようにそんな事実に胸を痛める自分がいることになんて、気付きたくなかった。


「……有能な君がいつまでも此処に残っていることを疑問に思っているのは、私ひとりではありませんでしたよ」
「有能だなんてそんな、」
「本気でそう、思っていますか?君は君のことを、本気で」


一体何を、言おうとしてるんだろう。戸惑いとともに嫌な汗が背中を伝っていった。彼がこうも何度も人の話を遮って話すのはとても、珍しいことだ。彼はいつも穏やかで、自分が話すよりもまず相手の話を聞くような人だったから。


ああ、でも、だからこそ。だからこそ、その言葉に、いつも以上に追い詰められている。


出世コースを外れてしまって、正規職も退職してしまってからはずっと、何も考えないようにしてきた――妊娠するまで、と懇願してどうにか仕事だけは続けさせてもらえた、それで十分だと。妊娠したらすぐに退職すると、約束してあった。それでさえいつまでも子を宿す気配を見せない私に夫の苛立ちは肌で感じていて、もしかしたらもう、続けられないかもしれない、なんて、思っていて。


「君はこんなところで愛してもいない夫の顔色を窺って一生生きていくんですか?」
「そ、んなこと統括には、」
「関係ないと言うつもりですか、ナマエ」
「それはっ、」


反論しようと顔を上げて思わず、言葉を止めた。
そんな顔をしないでほしい、そんな、傷ついたような。だって、事実じゃない。貴方と私はもうなんの関係もない。それに、


「……リーブに言ったところでどうにかなる問題じゃ、ない」
「しかしそれで君は、」
「やめて、」


――もう、やめて。
彼のその声が、右手の温度が、首筋に付けられているだろう香水の香りが、どうしようもなく私を動揺させる。誤魔化してきた本当の自分自身を突きつけられる。消してしまいたい過去を決して、忘れさせない。


もう、やめてほしい。私に何も、思い出させないで。貴方のことも、彼のことも、何も。何も考えさせないで。もうこれ以上、私を、


「これ以上私を追い詰めないで……お願いだから……っ」


ぽつりぽつりと、私の右手を包み込む彼の手に数滴の涙が落ちる。デスクの上で体を支える私の左手で、飾りっ気のないシルバーの指輪が咎めるようにきらりと光った。彼を受け入れてはいけない、彼を、想ってはいけない。どうせ、叶わないのだから。そう、思うのに。


右手を掴んでいた彼の手が、私を引っ張った。スローモーションのように体が、揺れて、景色が変わる。――気がつけば、全身を彼に、包まれていた。決して強くない力で、一歩下がればすぐにでも離れられるほど緩やかに、彼の腕が私の背中に回されている。流れっぱなしの涙が白いYシャツを濡らしてゆく。より間近で感じる熱と香りにくらりと、目眩がした。


「リーブ、」
「私は貴女を忘れたことなんて一度もありません」


強い言葉がナイフのように胸を突き刺す。布を何重にも被せて、重く蓋をして、錠をつけて仕舞っておいた、その思いを引き摺り出そうと、何度も、何度も。これ以上はいけない。私が、私でなくなってしまうような気さえした。頭が混乱して、体の動かし方さえ忘れてしまった私は、その決して強くはない抱擁から逃げられない。でももうやめてほしい、一度忘れたはずの思い、それを再び思い出してしまったらもう今まで通りには戻れなくなってしまうと、思った。そう思うとたまらなくなって、懇願するように口を開く。


「離して……リーブ、私、」
「離れたいなら離れればいい。……その手はなんです?ねえ、」


ナマエ、とまた彼が私の、名前を呼んだ。
言われて初めて、彼のYシャツを強く握っていたことに気付かされて、愕然とした。どうして、私、どうして……?そしてそれを――自分の腕をそこから離すどころか、緩めることさえできない自分に更に、衝撃を受けて、茫然とただ、彼を見つめた。


「わ、たし……そんな、」
「貴方が望むなら、それが幸せならと思っていました。しかし今は貴方が幸せそうにはとても見えません」
「そんな、ことは、」
「この傷はどうしたんです?」
「……っ、」


私を追い詰める手を決して緩めない彼の大きな掌が治療したばかりの腹部を撫でるのに、びくりと震えた。知らないふりはもう、してくれそうにない。


忘れることなんて、できなかった。なおもシャツを濡らす涙と、強く皺をつける左手がそれを残酷なまでに証明していた。


「今も、私を選んでは……くれませんか?」
「……今更、遅いよ、そんなこと….」


そんな言葉に意味はない。どうしようもなく見苦しい言い訳なんだと、彼もきっと、分かっているはずで。
遅いも早いもない、私には選択肢なんて初めから与えられていなかったのだから。


――いつも、捕われてきた。この、ミッドガルの街に。
重役の娘として生まれた私は初めから自由など一度も与えられてこなかった。若い頃は何度か反抗もしてみたけれど、結局何一つ、儘ならずに。結婚するまでは父に、それからは夫に、今も私は、全てを握られている。やりたかった習い事も、親しくなった友達も、なりたい夢も、昇進も、全てを諦めて、抜け殻みたいに此処で毎日を、過ごして。子を宿さないお腹を何度も何度も、殴られて。本当に好きな人と結ばれることも、許されずに。


「……君が望むなら、ボクは君を、」
「そんな、こと……っ」


そんな、こと。


「リーブに……させられない……っ」


統括と言えど治安維持部門と都市開発部門では力関係が違うとか、そんなこと以前に、彼に、この街のためにこの会社で戦っている彼に私のためにリスクを負って動いてほしくなんか、ないし。――そんな言い訳を連ねようとして、ぐずぐずと鼻を啜った。私の逃げでしか、なかった。何もかもリーブに、押し付けようとして、私はなんて我儘な人間だろう。そこまで戦うだけの覚悟がないのはきっと彼じゃない、私なのに。


「……酷いことを、言う……私は何に代えても君が欲しいのだと、分かっているくせに」
「りー、ぶ……ごめん、なさい……」


滲む視界に傷ついたように笑う彼が映った。それがゆっくりと、近づいて来る。今なら拒絶できると、分かっていた。彼は私が嫌がることは絶対にしない――夫と、違って。だからここでNOと言えばきっと彼は、やめてくれる。そう、分かっていて。


そっと、瞳を閉じた。
唇に触れ、一度離れて、また下唇を食むように挟む彼の唇と、上唇に感じる髭のちくちくとした感触が懐かしくてまた涙が溢れる。婚約が決まってからもう何年としていたなかった彼との口づけはしょっぱくて、苦くて、痛い。身体中に走る痛みが私から考える力を奪ってゆく。深くなる口づけが全てを飲みこんで、ダメだと思う気持ちを押し流してゆく。


「わ、私、」
「ナマエ、」


愛しています。
はっきりと彼の声が私の心を、揺さぶった。夫は一度だって私にそんなこと、言わなかったし、私も夫には一度も、言ってこなかった。それなのに。


「……私も、愛してる」


その言葉はするりと自然に、悲しいくらいに自然に口から滑り落ちた。溢れた言葉に、感情が決壊したように溢れ出て呼吸さえ苦しくて、でも、それ以上の喜びを、罪深いくらいの喜びを全身で、感じてしまって。ただこの人に愛されているのだと自覚するだけでどうしようもなく幸福を感じてしまう自分をもう、誤魔化せなかった。


彼はそんな私を、きっともう蕩けたように彼を見つめることしかできない私を笑みを浮かべながら見つめて、私の手を撫でている。左手薬指に嵌められたままの、私を縛り続けるその、鎖を。


「これは……今日は外しても、いいですか?」
「……うん、あの人、今日は帰らないって……んっ」


そう答えたわたしの唇は彼のそれに掠め取られる。間近に見える瞳の向こうに大きな炎が見えたような気がした。唇が離れてすぐ、音もなく、左手の指輪が抜き取られる。彼はそれを見て一瞬だけ苦しげな表情をした後に、ジャケットの胸ポケットへと仕舞い込んで。


「……彼の話はもう、しないでください」
「ぁ、ご、めん…………」


意外と嫉妬深い人なのだと知ったのはもう随分と前のことだ。知っているのはそれだけじゃあ、ない。意外と甘いものがすきなところとか、可愛らしいぬいぐるみを家にたくさん飾っている、ところとか。愛する人と結ばれる未来を純粋に信じていた幼くて愚かで弱い、昔の自分の記憶が、ずっとずっと心の奥に隠していた、小さな箱に押し込めてしっかりと鍵をかけていた思い出たちが、溢れ出て止まらない。きっと錠は壊れてしまった。鍵は、永遠に失くしてしまった。もう、元には戻れない。


だから。


「……今夜だけで、いいから、」


全部、忘れさせて。


リシァさんは貴重な統括夢の生産者なのでこれからも仲良くさせていただきたいし、たくさん統括夢を生産していただきたいと…!思い…!相互リンク記念にTwitterで一度盛り上がった不倫ネタでお話を書かせていただきました!笑 今後もリーブ夢界隈を盛り上げて参りましょう!(そんな界隈ある…?)