おだいじに

「……ナマエ」


自然に口から零れたため息に、白いシーツに包まれた彼女はびくりと肩を縮こませた。ごめんなさい、消え入りそうな声で繰り返される言葉は掠れて、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返す彼女はひどく苦しげだ。聞いている私の肺が痛みだしそうな咳に背中を撫でてやるも、苦しげな表情が和らぐことはない。


「……無理が祟ったようだな」
「すみ……ません……せっかくの、デートが……」
「構わない、寝ていろ」


仕事を始めたナマエが毎日家に帰ってからも忙しそうにしているのは知っていた。彼女はいつも無理をしすぎる。自分の体のことに酷く無頓着で、やると決めたことは体が壊れるのも厭わずにやり通そうとするから、本当ならば私が無理にでも止めるべきだったが……こうなることは目に見えていたのに結局何もできない自分に無力感を覚えるが、今はとにかく、彼女を休めることが先決だろう。


「……熱が高いな。痛むところはあるか」
「……あたま、が……」


私の平熱はナマエのそれより随分と低いが、それにつけても額に当てた掌から伝わる温度は異常なまでに高い。昨夜少々体調が悪そうにしていた彼女は起きた時にはもう、隣で顔を真っ赤にして苦しげに寝息を漏らしていた。疲れから風邪を引いたのだろう。何か消化に良いものと、薬を。彼女のシーツを剥いでしまわぬよう慎重にベッドから降りると、ナマエがそれに続いて起き上がろうとするので肩を押して寝かせておく。お前のその律儀なところは美徳だが、こんな時にまで無理をしないでくれ。私の心臓がもたないだろう。そんな私の心配をどれだけ理解しているのかいないのか、彼女はなおも体を起こそうとする。


「……待っていろ」
「いえ、わたしが、」
「こういうときくらい、素直に甘えてくれ」
「ヴィンセント、さん……」


すみません――その言葉を聞くのはもう、三度目だな。苦笑いを浮かべてしまうのをどう捉えたのか、ナマエは四度目の謝罪を口にした。怒っているわけではないのだが、彼女はどうも臆病だ。人の心配は素直に受ければ良い。そう言ってもお前はまた、謝罪を重ねるのだろうが。


「朝食と薬を持ってこよう」
「……ありがとう、ございます……」


頭を撫でてなるべく優しく言えば、申し訳なさそうな表情は崩さないながらもようやく謝罪以外の言葉を口にした。





キッチンへと足を踏み入れると、途端にひやりとした空気が肌を刺す。昨晩ナマエがタイマーをセットしていたご飯が炊けていて、炊飯器を開けばぶわりと白い煙が舞い上がった。とにかく病人の彼女にも、食べやすい食事を。


「……雑炊、か?」


誰に告げるでもなく呟いて、鍋に水を入れて火をつけた。待っている間に薬箱を開くと、彼女が体調を崩したときに飲んでいる薬と2錠取り出してポケットへと仕舞い込む。淡々と調理を進め、程なくして出来上がった雑炊をコップ1杯の水と共に盆へ載せるとすぐに、彼女の待つ部屋の扉を開いた。


「ヴィンセントさん、」
「……食べられそうか」


横たわったままだった彼女が起き上がる。ベッドサイドのテーブルに盆を置くとありがとうございますと、相変わらず掠れた声が囁くように言った。蓮華へと伸ばした手は弱々しく震えて、手に握ったそれもすぐに振り落としてしまう。――世話の焼ける子だ。


「無理はするな」


器をベッドに移して左手で支えながら、蓮華で一口分の雑炊を掬うと、目の前の瞳が驚いたように瞬いた。あまりこういったあからさまな行為は好まないがたまには――否、今更そんな言い訳をする必要はないな。ふぅ、と何度か息を吹きかけ冷ましたそれを口元へ運ぶとおろおろと瞳を彷徨わせる彼女に思わず口元が緩んだ。やがて意を決したように小さく開いた口元にそれを挿し込むと、つるりと彼女の舌が中身を受け取って、やがてごくりと、飲み込む。


「味は問題ないか?」
「おいしいです、ヴィンセントさん……ありがとうございます」


それから同じ動作を何度も繰り返して、ナマエはゆっくりと雑炊を喉へ流し込み続けた。恥じらいも暫くすれば薄れたのか、蓮華を差し出せば大人しく口を開くようになったナマエは素直に可愛らしい――雛鳥に餌でもやるような、気分にさせられる。こういう時でなければ私も好んでこういった行為に及ぶことはないし、ナマエも自分で食べることができればこんなことはしないだろう。たまにはこう素直なお前を見るのも、悪くはない。――そんなことは、体調を崩して苦しんでいるお前には到底言えるはずもないが。そう考えながらひたすらに無言で、蓮華を口元へと運び続けた。


「……あの、ごちそうさまでした。すごく、おいしかったです」
「ああ……薬を」
「ありがとうございます……」


程なく完食したナマエに薬を差し出すとまだ微かに震える手に、小さな悪戯心が湧き起こって、思わず口を衝いた。


「……介助が必要か?」
「……?」


首を傾げた彼女は数秒経ってから言いたいことに気づいたのかびくりと全身を震わせる――いつになっても可愛いな、お前は。ぱくぱくと口を開いては閉じ、やがて弱々しい腕が私の腕を撫でるような弱々しさで殴るような仕草。私の腕から半ば奪うように錠剤を掴んで、慌てたように水を飲み、それから予想通りに咳き込むナマエに愛しさが込み上げる。お前が元気だったならすぐにでもその唇を奪ってベッドにその両手を縫いとめていただろうが……ようやく落ち着いた彼女の未だ苦しげな表情に自然とそのような感情は萎えてゆく。


「薬を飲んだなら早く寝ろ。……昼には起こそう」


昼は何を作ろうか、薬も残り少ないから買わねばならないな。頭の中で午前中の予定を組み立てながら虚空を仰ぎ見、立ち上がろうと膝を立てると、不意に弱々しい力が袖の端を引っ張るのを感じた。視線を彼女の方へ戻せば、何かを訴えかけるような瞳が上目遣いに、此方を覗き込んでいる。


「……あの、」



ナマエはそれだけ言うと言うべきかそうでないのか、戸惑うように瞳を彷徨わせている。何か欲しいものでもあるのか、再びしゃがみ込んで首を傾げると、うう、と小さく悩むような声。


「……どうした」


重ねてそう問いかけるとようやくなにかを決意したように、瞳を合わせた。寂しげに眉を下げた彼女の瞳がわずかに潤んでいる。


「……ええと、迷惑でなければ……そばに……いてほしいです。眠るまででいいんです」


――全く、この子は。
お前は私がその潤む瞳をどんな思いで見て、躊躇いがちな言葉をどんな思い出きいているのか、そんなことには気づきもしないのだろうな。あまり私を煽らないでくれと、言ったところできっとお前はなんの自覚もないのだろうから、その言葉の意味さえ理解しないだろう。


「……ぁ、」


小さな声にふと気がついて下を向くと、思いのほか近くで私を見上げるナマエはぽかんと驚いたような表情、少し遅れて唇に感じる熱――ああ、私はいつの間にか、彼女に口付けてしまっていたらしい。……すまない、つい、な。私の言葉に彼女はようやく状況が飲み込めてきたのか、風邪の所為でもうすでに赤い顔を更に赤く、耳まで染め上げた。可愛らしい反応に思わず、唇が吊り上がる。


「……熱が上がったか?ゆっくり休め」
「あ、ヴィ、ヴィン、ヴィンセント、さん……!?」
「……フッ」


混乱と羞恥が入り混じり、半ばパニック状態の彼女をそっとベッドに横たわらせてシーツを掛けた。暖かな布団に手を差し入れて、熱を持つその手を握るとようやく落ち着いたのか、安心したように笑う愛しい彼女――無意識に吐いた溜め息に今更、私も動揺していたのだと気づかされた。お前が苦しんでいるところを見るのはひどく胸が詰まる。ゆっくりと休んで、早く元気な笑顔を見せてくれ。祈るように彼女の手を握る力を強めると、彼女もまた、小さな手を私の指の間に絡めてそれに応えた。


大好きな葛義ちゃんに、がんばってほしいけれど無理しすぎないようにと願いをこめて。お誕生日おめでとう!