鈍い輪



 彼女は優秀な、可愛い部下でした。
 でした。なぜ過去形なのかというと、本当にあのときまでは、ただ単純にそう思っていたはずだったからです。今となってはもう、自信がありません。壱番魔晄炉が爆破されるまでは、優秀な、可愛い部下でした。


 壱番街の被害は、零番街より壱番魔晄炉に近づくにつれて大きくなっていた。住宅は瓦礫の山。被害者も多く、離れた場所であっても爆風により走っていた車が事故を起こすなどしていた。
 心を痛めているのはもちろん私だけではありません。そこに住む人たち、別の地区に住む友人や家族。開発、建設に携わったうちの社員……。

「まったく、なにを考えているのか」
「統括。ご相談があるのですが、少しお時間よろしいでしょうか?」
「なにかな?」

 彼女は魔晄炉内のセキュリティ構築を任せているシステムエンジニアです。彼女もそのうちの1人で、今回の一件でアバランチによりセキュリティを突破され、かなりの被害に心を痛めている様子でした。そして、壱番街には彼女のご両親が住んでいた。
 魔晄炉に近かった住宅、彼女の実家は……。

「セキュリティを、新しいものに構築しなおそうと……」
「すぐでなくとも構わないよ。君だって――」
「ですが、私が……私たちの構築したセキュリティが甘くて……」
「落ちつきなさい。悪いのは君ではないよ。さぁ君も一度、宿泊所に戻って休みなさい。君の班は明日を休みに設定していたね」
「わかりました。統括も少しはお家に帰ってあげてくださいね。皆さん、きっと心配していらっしゃるでしょうから」

 無理矢理の笑みを浮かべ私の心配までして、腑に落ちなさそうな面持ちで彼女はオフィスへと戻っていく。その背中はとても小さく、彼女の仕事ぶりからはとても考えられないほど心許ありませんでした。まるで吹けば消えてしまうような、ろうそくの火のように。
 それが心に引っかかり、被害報告を精査していても彼女の顔が頭の中をチラつくようになりました。
 なんだか嫌な予感がして、彼女の戻ったオフィスに足を向けました。会社が今回の一件で取った宿泊施設に戻っていれば電話で確認すればよかったし、休もうとする意思が見えたら自分の統括室に戻ればよかった。ただ、それだけだったはずなのです。
 誰もいない彼女の班のオフィス付近、仕切りガラスから見える立ち尽くした彼女。どこか虚空を見つめるような、虚ろな表情に目を奪われた。それも、デスクやパソコンなどの隔たりから彼女の全身が見えたとき、鮮烈に焼き付けられてしまう。

「なにをしているんです!」

 彼女の利き手にはカッターナイフが、もう片方の手からはポタリポタリと赤い血が滴っていました。弾けるように駆け出し、彼女の元へと向かう。
 手が青白くなるほど握られたカッターナイフ。男の私でも驚くほどの力で握っている手を包み込む。

「りーぶ、と、うかつ……」

 私の顔を見て名前を呼ぶ彼女の目に、私は映っていない。ぼんやりと見つめるそこにあるのは、絶望と死。
 不覚にも、そう、不覚にも、その今にも消えてしまいそうな彼女を、美しいと思ってしまったのです。これは今、思ってしまった感情なのか、それとももっと以前より抱いていた想いなのかわからないほど、私の心を占めてしまった。

「カッターを離しなさい」
「ぁ……」

 芽生えてしまったとんでもない感情を誤魔化すように努めて静かに告げると、彼女はまるでロボットのようなぎこちない動きで、カッターナイフを握る自分の手を見つめる。
 石のように固く閉じていた指を、震えながらやんわりと開いた。その手からカッターナイフを受け取り、まだ新しい血を滴り落としているもう片方の手の甲を包む。

「手当てをしなければ。随分と深く切ったようだね。痛いでしょう」
「わかりません」

 怪我を見つめながら、ぽつりとそう呟く彼女。また、わかりませんと口にした。

「わかりません。わかり、ません……。わたし、どうすればっ……!」

 自分のせいでと心の痛みに耐えられず目からポロポロと涙をこぼす彼女を、衝動的に抱きしめていました。そうしなければ、再び宿泊所に戻れなんて言ってしまえば、彼女が星に還ってしまう気がしたのです。

「大丈夫。大丈夫ですよ。わかっています」
「私も一緒に逝けば……、ひとりに……」
「君は独りにはならない! 私が……いえ、その……」

 抱きしめていた彼女を解放し、柄にもなく大きな声を出してしまった私を、彼女は涙を溜めた大きな瞳で見上げました。
 とりあえず手当てをしようと、医療室へと連れて行く。少し落ち着きを取り戻した彼女は手の痛みを感じ始めたのか、歯を食いしばって苦痛に顔を歪めていました。それはそうでしょう。こんなにも深く彼女の心の傷のように切りつけていれば、無理もない。

「……っ。統括、申し訳ありません」
「謝らないで」

 向かい合って傷の消毒をし、包帯を巻き終える。沈んだ声で謝る彼女に、私は……。
 いけない、この一歩を踏み出しては。己の左手薬指に光る輪が、鈍く見えてしまうなんて。あってはいけないことなのです。

「ありがとうございました。……大人しく、宿泊所に戻りますね」

 立ち上がって明るい医療室の部屋から、暗い廊下へと歩み出そうとする彼女の腕を引き留めました。そのまま私は彼女の頬を包み、唇を重ねてしまったのです。

「とうかつ……?」
「戻らせるわけにはいきません。君が、君が戻ってこない気がするんです」

 私を見上げて固まる彼女。私はなんてことをしてしまったのでしょうか。
 暗い廊下に一瞬溶け込んで見えた彼女の背中は、もう二度と会えなくなるのではないかと錯覚を起こさせました。だからと言って、唇を奪ってしまうなどと……許されるわけが……。ないのです。
 こんな気持ちは私だけで、彼女は私に上司以上の感情など持ち合わせていません。それなのに自分勝手なこの感情を押し付けてしまうわけには。これではただの、ただの……。
 彼女の目から、止まっていたはずの涙が再び、ひとつ、ふたつと雨の降りはじめのようにこぼれ落ちてきた。私のせいなのに、それを愛おしいなんてどうかしている。

「リーブ統括、私、わたし……! ダメです。ひど、い、ひど……」

 ええ、そうでしょう。私は酷いことを……?
 ずっと我慢していたのにと、私のスーツに縋りつきながら泣きじゃくる彼女。
 我慢? まさか、そんな。いつから。いや、そんなことはどうでもいい。もう何も戻れないのですから。私はまた、抱きしめてしまった。
 嬉しいと言ってもいいのでしょうか、いえ、許されるはずがない。私は妻帯者で、家で待っている家族がいる。ですがこれは、この気持ちは、抑えることができないとは。

「独りになりたくないと……っ、思ってしまっても……リーブ統括は!!」
「すみません、すみません……!」
「なんで……」
「君をこの世に繋ぎ止めておきたい。これが許されざることだとしても」

 もう止められませんでした。私の手は、彼女の後頭部へと回り、滑らかな髪に触れてしまう。それだけでもっと触れたいと、欲が少しずつ、少しずつ溢れてくる。

「独りになりたくない。独りに、しないでください……!」
「独りに、しませんよ」

 涙でぐしゃぐしゃの顔を上げさせて、乾いた唇を覆う。医療室の灯りを落として、ドアにロックをかけて。
 確定的な言葉は言いません。私も、彼女も。お互いちゃんと、わかっているのですから。
 するりと鈍い輪を外す私は、ずるい嘘つきです。


Twitterで仲良くさせていただいている香月ふぅさん(Pixiv)から頂きました。なんかこのページ不倫ばっかりですね……わたしの性癖って感じ……既婚者の統括がいいって言ってたら書いてくださったんです、「ずるい嘘つきです。」でおわるなんてあまりに……最高すぎませんか……?ふぅさんわたしの好みよく分かってるな、こういう救いのない話がどこまでも好きです。本当にありがとうございました、嬉しかったです!