時間がとまればいいのに


「好きって言ったら怒ります?」
「……怒りませんが、なぜ今なんですか?」
「なぜ……なぜ……?」

彼女はそれから顎を手に載せて真剣に悩みだした。——いえ、理由が気になったわけではないのですが。そう言おうと口を開きかけたけれど、彼女は一度考えだすと誰が何を言おうと答えが出るまで悩み続けることがこれまでの経験から明らかだったので、黙って答えが出るのを待とうと思い直す。薄暗い部屋の向こうがにわかに騒がしくなっても、彼女は気にも留めないどころか、おそらく気づきもしていないのだろう。貴女のそんなところ、好きですよ。なんて、そんな言葉を掛けてみたら彼女はどんな風に反応するだろう。

◇ ◇ ◇

入れ、と中へ押し込められてすぐ、扉ががしゃんと音を立てて閉ざされた。ため息をついて立ち上がり振り返れば、ひとりだと思っていた部屋にはすでに先客の姿がある。床に白衣を広げて座り込み、何かを書いているらしい彼女。見覚えのあるその姿に思わず彼女の名前を呼んだ。

「なまえ、どうして貴女がここに?」
「……」
「聞こえてますか?」

歩み寄って、とんと一度軽く肩を叩くと、びくり、と全身を大きく震わせてなまえは顔を上げた。瞳を大きく見開いて「リーブ統括……!? どうしてこんなところに……!」と絶句する彼女。私は今まさにそれを貴女に尋ねたんですよ。そう返せば「いやあ、宝条博士に逆らったらいつの間にかここに連れてこられてました」と気の抜けたような表情で笑った。一体何をしたのだか。彼女の行動はいちいち突飛で、原因も動機もさっぱりわからないことばかりだったので、それ以上尋ねることは諦め、彼女から少し離れたところ無造作に置かれた椅子に座ってため息を一つ返す。私をこの部屋へ閉じ込めた治安維持部門の男たちは数分前に部屋の外鍵を掛けてどこかへ消えてしまった。扉の外には誰かいるかもしれないが、少なくともこの牢には彼女と私以外の人の姿はない。

「それで、統括はどうしてこんなところにいるんですか?」
「……ハイデッガーに逆らったらいつの間にかここに連れてこられてました」

わたしとおんなじですね!と、おどけたように返す彼女に、呑気なものだと笑ってしまう。外はこれだけ大変な状況なので、まるでここだけ流れる時間が違うようだった。

破壊され、社長も死んで、ボロボロになったミッドガルの中心。飛空挺はもうじき到着するだろう。この部屋にいつまで閉じ込められていなければならないのかは不明だが、そう長い時間幽閉されることはないはずだし、シスター・レイのことはクラウドさん達に任せておけば問題ないはずだ。ケット・シーごしに見える状況を合わせてそう結論づけるともう一度、目の前の彼女のほうへと視線を戻す。ぽつぽつと交わされていた会話はいつの間にか消えて、部屋には彼女の手元から発される摩擦音だけが響いていた。彼女はいつも上までぴっちりと閉ざされているその白衣を地面へ広げ、没収されずに済んだらしいボールペンを左手に持って、計算用紙代わりに何かをつらつらと書き連ねている。白い背中が半分くらい、たくさんの数字やアルファベットで埋め尽くされていた。

「何をされているんですか?」
「……あ、これですか?」
「はい。脱獄のための計算でも?」
「やだ、そんなんじゃないですよお。研究の続きですっ」

顔を上げた彼女はそう言って笑う。ここに座っていてもすることもないしと立ち上がって、興味本位で近づいてみれば、やはりよくわからない数字の羅列。彼女が研究熱心なことは知っていたけれど、まさか牢屋の中でも計算とは。彼女の勤勉さには頭が下がるなと思いながらぼんやりその数式たちを眺めていると、不意にどこか見覚えのある数字が混じっていることに気がついた。途中まで文字式で計算されていたそれに代入された数字。最後に見かけた場所は——

「シスター・レイ……?」
「っ、どうしてそれを、」

その顔が一瞬で動揺に染まった。言ってしまってから「しまった、」と言いたげな表情を浮かべる彼女を見てようやく察する——宝条博士に逆らったのだと言った、その言葉の意味を。考えずともすぐにわかるはずのことだった。宝条は今あのキャノンを暴発させようとしていて、彼女は宝条に、此処へ閉じ込められている。何も思わなかったのはきっと彼女があまりに——あまりに、いつも通りに振る舞っていたから、で。驚く彼女をじっと見つめれば、その表情には不安が見え隠れしていることに今更ながらに気づかされて、思わずその左手に、自身の右手を重ねた。

「……砲台の……暴発リスクを……」

初めて聞く彼女の弱々しい声が、想像していたのと同じ答えを紡ぎ出す。左手は小さく震えていた。右手をぎゅっと強く握ると彼女は俯いて、すみませんと謝罪の言葉を溢すので、少しでも彼女を安心させたくて口を開いた。

「……大丈夫ですよ」
「……え?」
「クラウドさん……仲間達がこちらへ向かっています。彼らがきっとどうにかしてくれるはずです。だからその計算はきっといりません」
「……あ、りーぶ、とうかつ……」

私の言葉の意味を理解したらしい彼女は安心したように長く一度、息を吐いた。

ありがとう、ございます。しばらく無言を貫いた彼女は消えそうな声でそう呟いた。

「あまりにいつも通りに笑うので見逃してしまうところでしたよ」

ぽつりと呟いたその言葉に、彼女は気まずげな表情で瞳を逸らす。科学部門の人間は皆、自分と研究のことにしか興味がないものなのだと思っていたけれど、目の前の彼女はどうやらそうではないらしい。「よかった、」と独り言のような彼女の言葉が静かな部屋にぽつりと落ちて、空気に溶ける。私たちもじき、此処を出ましょう。告げた言葉に彼女は「いつでもいいんですけどね」と、気の抜けたような笑みを返すけれど、その笑みもまだ、どこかいつもと違う影を背負って、彼女のうちの感情を伝えている——どうして最初に、気づけなかったのか。それがどこか悔しくて。

(——悔しくて?)

どうしてそう思うのだろう。引っかかった自分自身の感情の糸口を辿るように黙り込むと、あたりは自然と静寂に包まれた。白衣でしていた計算の続きをやめた彼女は、所在なさげに体育座りで、ぼんやりと虚空を見つめている。表情は少しずつ安堵を取り戻してゆくように見えた。

不意にその彼女がくしゅん、と小さなくしゃみをして、右手の温もりが離れてゆく。室内はそう寒いわけではないけれど、白衣を床へ投げ出したまま両腕を摩る彼女はずいぶん薄着に見えた。

「白衣、着たらどうですか?」
「白衣、あ、たしかに」

気付きませんでした、と笑う彼女は非常に優秀なはずなのにどこか抜けているから目が離せない。苦笑いを浮かべながら床へ広げられた白衣をとって、ぱんぱんと二、三度埃を払って肩へ掛けてやる。「ありがとうございます」と、間近で私の瞳を見上げて、にこりと笑う彼女。

——その様子に、愛おしさが自然と、心に湧いた。

(……ああ、私は、)

そうか、私は。一つの答えを出したとき、目の前の彼女が唐突に、同じ答えを、彼女の口から紡いだのだった。

「好きって言ったら怒ります?」

肩を抱く彼女が首を小さく傾げて、笑っていた。

「……怒りませんが、なぜ今なんです?」
「なぜ……なぜ……?」

本当を言えば、それは照れ隠しのようなものだった。ここで告げたらただでさえ不安の最中にいる彼女を混乱させてしまうと思って、何も言わずにいたのに。そんな思いから出た言葉。けれど思いの外彼女がそれに悩み始めて、そうして冒頭に戻る。悩む彼女はだいぶ落ち着いたようにみえて、そうすると彼女の反応が見たくなってしまったのもまた事実。とん、と肩に触れると彼女は顔を上げて、瞳いっぱいに私の姿を映した。なんですか?と尋ねる彼女に今度は私からにっこりと笑って——すこし、意地の悪い笑顔だったかもしれない。鏡はないから自分が今どんな表情を浮かべているのか、正確にはわからないわけだけれど。

「すみません、答えが知りたかったわけではないのですが……何でも気になったことは答えを出すまで考え続ける貴女のそういうところ、好きですよ」
「え、ああ、すみま、せ、ん……? ええ……?」

悩みの最中、話半分のように私の言葉を聞いていたらしい彼女はけれど、一拍おいて、ぱあ、と音が付きそうなくらいに一瞬でその頬を耳まで真っ赤に染め上げた。これ以上ないくらいに見開かれたその瞳。予想していたのよりもずっと可愛らしい反応は、私の方まで動揺してしまうくらいに。あっという間にあ、とかう、とか、言葉にならない音を発することしかできなくなった彼女は、瞬きさえ忘れたように私の方をじっと見つめている。震えて半開きのままの唇に、吸い込まれるように近づいた。震える唇の温もりが私のそれから伝わってはじめて、衝動のままに彼女に口付けていたことに気が付いて。薄く瞳を開くと、彼女は目を見開いたまま固まっている。思わず口付けたまま低く笑ってしまうと、びくりと彼女の体が震えて、それから唇を離せば放心状態の彼女が「え、」と小さく呟いた。

「すみません、貴女があまりにも可愛らしかったものですから」
「あ……え……わ、わたしいま、」

声を上げて笑いそうになるのを堪えて、腕を伸ばして先ほど肩へと掛けた白衣ごと、彼女を抱き寄せる。小さな背中をあやすように撫でてもまだ、混乱したような呻き声。これ以上何かを言っても余計混乱させるかもしれない、それもいいけれど、流石に苛めすぎるのはよくないかと結論づけて、何も言わずに撫で続けていれば、しばらく経ってようやく落ち着いてきたのか、徐に額を私の胸へと寄せた。細い腕が白衣の下から伸びてきて、そっと首の後ろへ回る。

「……その、統括のいう好きっていうのは別に動物園の珍しい動物を見ていう好きじゃなくて、その」
「ここでそれを疑うんですか?」

そもそも何です?動物園の珍しい動物って。そんな自分を珍獣みたいに。彼女は唇を尖らせてだって、とぶつぶつ何かを呟いている。言い訳を連ねる彼女のそれは照れ隠しなのか、何なのか。可愛らしいことに変わりはないし、見ている分には面白いので構わないけれど。彼女の頬に指を滑らせて、そっと顎を持ち上げると再びぴしゃりと固まって言葉が途切れた。まだうっすらと、頬が赤い。

「……あの、とう、か……」
「それで、この期に及んでまだ私のことを統括と呼ぶのですか?」
「……ぅ、この期ってどの期……?」
「その話は今重要ですか?」
「……リーブ、さん……?」

よくできましたと、顔をゆっくりと近づければ少し緊張したように肩が上がるのがわかったけれど、抵抗する様子はないので止めることもない。やがてもともとほとんどなかったふたりの間の距離はゼロになって、額をこつんと合わせると、間近になった彼女の瞳が右往左往を繰り返す。それにまた吹き出しそうになりながら、誰にも聞こえないように、小さく彼女に囁きかけた。

「宝条博士の件ですが、どうやら解決したようです。この部屋からもじき出られるでしょう」
「……よ、かったです……」
「それから貴女の質問についてですが——」

好きですよ。もちろん。一人の女性として。はっきりと告げた言葉に、「そう、ですか」と諦めたように返した彼女がようやく、真っ直ぐに私の瞳を見返した。まぶたを下ろすと薄く視界の向こうで同じように瞳を閉じる彼女が見えて、それから再び唇を重ねる。啄むように触れては離れる口付けに彼女も同じように応えて、それが胸の中に穏やかに火を灯してゆく。なまえ、努めて優しく名前を呼べば、どこか安心したように頬を緩めるのがわかった。

この部屋からはすぐにだって出られるだろう。そして出てしまえばきっと、これからしばらくは忙しくなるだろうけれど、今だけはこの場所で、ほんの少しだけこうしていよう。心臓がゆっくり脈動して、暖かな熱を全身へ運ぶと時間はいっそう穏やかにすぎてゆく。静かで優しい夜だった。
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