よくできたから花まる4つ


「できたー!!!」

時計を見れば時間はもう夜の8時。ぐっと大きく伸びをしてそう叫ぶと、リビングでくつろいでいたらしいリーブさんがソファの背もたれの上から顔を覗かせた。ダイニングテーブルいっぱいに広がったノートや、論文や、それからパソコンと、ボールペンに、赤ペン。ノートの真ん中に今さっき書いたQ.E.D.をどこか誇らしげな気持ちで見つめて、それから赤ペンですみっこにはなまるを3つ。

「終わりましたか?」
「はい、ひと段落です!ここまでとりあえず、論文にします!」
「ああ、それはよかった。ここしばらくずっと大変そうにしていましたからね」
「へへ、そうなんですよお。よかったあ……」

ソファから起き上がったリーブさんがこちらへ歩いてくる。ようやくやりたかったことが終わった達成感から自然に緩んでしまう頬に、隣に座ったリーブさんがそっと指を一度滑らせて、それからその腕はわたしの頭へ。差し出すように下を向けば大きな手がよくできましたと頭を撫でた。瞳を閉じてそれを受け入れているとその間に、リーブさんはわたしのノートを見たらしく、「本当に計算終わってますね、大変だったでしょう」と優しい声が降り注いだ。そうなんです、と嬉しさでなんども大きく頷いてしまう。

「大変でした……とっても……永遠に終わらないかと思いました……」
「はは、先週はそう言っていましたね。でも貴女なら大丈夫だって言っていたでしょう。その通りでしたね」
「へへへ……はい、そうでした……花まるですね、花まる……」
「そうですね、花まるです」

頭を撫でていた大きな手が離れていくのを感じて瞳を開くと、リーブさんはわたしがついさっき花まるを書いた赤いペンを掴んで蓋を開いている。わたしが3つ描いた花まるのさらに隣に、わたしが描いたのよりもずっと几帳面で綺麗な形をした、新しい花まるをひとつ、さらさらと描いておめでとうございます、と笑って。わたし、この人のこと、大好き。胸の底から嬉しさが溢れて止まらない。勢いに任せて彼の方へ、半ば突進する勢いで抱きつけば、とん、と左手をテーブルについて体を支えながら、彼はわたしを受け止めた。

「っと、なまえ、危ないでしょう」
「ごめんなさい、うれしくて」

見上げれば視界いっぱいに困り顔のリーブさん、けれど瞳の色はいつもと同じように優しくて、それから口元は緩く吊り上げられているから、怒ってるわけじゃあないなとわかる。だからにこにこと笑っていれば、全く貴女は、と呆れたような、喜んでいるような、そんな声。

「今日はもうおしまいですか?」
「はいっ、論文はまた明日から……書きたくないなあ……」
「こら、気持ちは分かりますが論文を書くまでが貴女の仕事でしょう」
「そうですけど……そうだけど、うー……」

困った子ですね、なんて言われて、困らせちゃったと舌を出せば、額を優しく小突くリーブさんの指先にきゃっきゃと喜んでしまうわたしに見せつけるみたいにため息をひとつ。それから指先が遊ぶように頬を擽って、思わず身をよじるとぎゅっと大きな体に包まれた。いつもと同じ暖かなこの場所が、世界で一番安心するよ。すぐそばにある頬に、同じようにわたしも触れると、リーブさんも擽ったげに瞳を細めた。ダイニングルームの蛍光灯の下では彼の緑がかったヘーゼルの瞳が綺麗に見える。だからいつもこうして瞳を見つめているだけで吸い込まれそうになって、目が、離せなくなる。

「……突然静かになりましたね、なまえ」
「う……だって、リーブさんの目、きれいだから」
「はは、なまえは毎日飽きもせずに同じことを言いますね。嬉しいですが」

少し悪戯げな表情の彼がゆっくりと、その瞳を開いたままで近づいてくる。キスされるんだってわかっても、それに少しの恥じらいを覚えても、それでもその瞳から視線を逸せないわたしは、唇が触れ合ってもまだまぶたを下ろすこともできずに、同じように目を開いたまま唇を啄む彼のその瞳をただ惚けたように、見つめてしまう。

「ん……っ、りーぶ、さん」

そう長くない数秒の口付けが終わって唇が離れていってもまだ、その瞳から目が離せないなんて、彼にはきっと、わたしにしか効かない魔法が使えるに違いないのだと思う。「きれい、」ともう一度呟くように言うと、答えるようにリーブさんも口を開いた。

「貴女は私に瞳が綺麗だと言いますが、」

――私も貴女の瞳が好きですよ。まっすぐに見つめ合ったまま彼はそう、笑った。甘い響きを伴うそれに、ついに顔を俯けて両手で頬を隠すわたしは、このまま溶けてしまいそうなくらいに幸せを感じてる。背中に回されていた手がふいに動いて上下に撫でるのに、ぴくりと体が震えた。

「……今日はそろそろ寝室へ行きませんか?」
「そ、れは、」
「はは、貴女の思う通りに。『お祝い』しましょう」

お祝いって、それ、えっと。なかなか『そういう』空気に慣れないわたしは途端ぎこちない動きで彼の腕から出ようとするけれど、何をしてるんですかと笑う彼は当たり前のように離してくれない。何より恥ずかしいのはきっと、それを少しだけ期待していた、自分がいたこと、で。

「うう、ううううう」

呻き声しか上げられなくなって、結局ぐりぐりと鼻を目の前の胸板に擦り付けると、リーブさんはとうとう声を上げて笑い出した。かわいい、と耳元でささやく声は今までとは違う色気を孕んで、わたしの耳を、頬を、それから全身を熱くさせる。うう、としばらく呻いたあとにようやく、「よろしくお願いします」と蚊の鳴くような声で顔も上げずにそう返すと、笑うのをやめた彼が、けれど再び笑い出しそうになるのを堪えるような声色で「よろしくお願いします」と、わたしと全く同じ言葉を紡いだ。

ダイニングルームには花まるが4つ残されたまま。きっと片付けは明日の朝になるだろう。ううん、もしかしたら、お昼になるかもしれないね。
Back to Index | Top