まなざし


ウータイ出張から戻ったらしいなまえが科学部門内の研究部会で講演するらしいと聞いて、ふと興味を持ち会議室の扉を開いた。今回の研究会は神羅カンパニーの他の社員にも開かれている大きなもので、都市開発部門に所属するエンジニアの中にも参加者や招待講演者が混じっているから、今日は仕事の一環として業務を休んで工学に関わる分科会に朝から顔を出していたものの、分野の異なる彼女の講演は会議室のフロアから異なっていて、廊下を歩けばすれ違う科学部門の研究員らしい人々からの視線が痛い。どうしてリーブ統括が、と小さな囁き声が耳に届いて、確かに何故わざわざこんなところまで来ているのだろうと、そう思い出すと自分でも考え込んでしまいそうになるが、あの何も考えていなさそうな彼女の講演を聞くのに自分が考え込む必要などないと思い直す。そうこうしているうちに彼女の講演する分科会の開かれる部屋の前まで到着して、時計を確認すればちょうど始まる時間だった。

「貴重なご講演の機会を賜りありがとうございます。本日の講演では——」

静かに扉を開いて中へ入ると、前にタッパーを持って背中にぶつかってきた時とはまるで別人のように真剣な表情のなまえがレーザーポインタをスクリーンに当てている。大きな集会だからか専門外の人が聞くことを想定して丁寧に説明しようとしているようだが、都市開発部門の元エンジニアまでは想定されていないだろう講演は三分の一も理解できずにただ語られる結果や考察、まとめに耳を澄ませる。しかし内容こそ分からなくともなまえのその真剣さの向こうに隠しきれない楽しさだけははっきりと伝わって、きらきらと輝く瞳がスクリーンに映し出された講演スライドを写すのを見ているだけでどこか微笑ましい気持ちにさせられた。

ウータイのモンスターや野生動物の生態系についての研究だったらしい30分ほどの講演はあっという間に終わり、ぱらぱらと場内に響く拍手に合わせて私も手を合わせると、ほんの数分の質疑応答には最前列に座っていたあの宝条博士までもが興味深げに質問をしているので私は一人驚きに包まれる——あの男は自分が有用だと感じることにしか興味を持たない性分らしいのは上役会議で少し話すだけの私にも十分伝わるので、そんな男が興味深げに彼女の答えに頷いている様子を見るにつけ彼女はただの変人ではないことをひしひしと感じさせられる。

宝条博士の質問が最後だったらしく彼女の答えに宝条博士がありがとうと返してマイクを置くと座長が10分ほどの休憩時間を告げた。次の講演で今日のこの会議室でのセッションは終わりらしい。最後まで残っていても構わないが、特に興味の惹かれる話ではなかったし、周囲からちらちらと向けられる視線が痛いのでここで退出しようと立ち上がる。

「……? あ、リーブ統括! 講演聞いてたんですかっ?」
「はい。といっても、内容はほとんどわかりませんでしたがね」
「あちゃあ。くるって最初から言ってくれたらちゃんとわかるように話したのに〜」

扉を開くと会議室の外に設置された小さなお茶菓子のスペースでお茶を飲んでいたらしいなまえとちょうど、目が合った。前に会った時と同じ満面の笑みを浮かべた彼女がぱたぱたと走り寄って私の前に立つと、まるで長年の友人のようにそうやって話し出す彼女はふにゃふにゃとさっきとはまるで纏う空気が違うので、私の方が困ってしまう——距離感を掴むのが難しい方ですね。内心でそう思いながら彼女の質問に受け答えていると不意に、あのタッパーが再び頭を過った。

「……そういえば、あの交換日記はどうなったんです?」
「こうか……ああ。誰か見つけてくれましたかね? 統括なにか知ってますか?」
「いえ、私はなにも……」
「そうですかあ……ちゃんとわたしのオフィスの場所書いたから、きっと書き終わったら届けてくれると思うんだけどなあ……」

——見つけられたら中身を見られるより前に処分されるか、爆発物か何かと勘違いされて大騒ぎになり貴女が叱られるかのどちらかだと思いますがね。さすがにそうは言えずに、そうですか、まだ誰にも見つかっていないのかもしれませんねと苦笑いを浮かべてしまう。そうか、お返事まだかなあ、どんな人が拾ってくれるんだろう? 一人ニコニコと空想を始める彼女はやはり、先ほど講演をしていた時とはまったく別人のように見えて何度でも疑ってしまう——さっきの彼女と目の前の彼女は実は双子とか、そういうことではありませんよね? まさかそんなことは聞けないのだけれど。

「講演の時はまるで別人のように真剣でしたので、驚きましたよ」
「へ? わたしがですか?」
「ええ、もちろん。専門外の私には少々難しかったですが、講演はとてもお上手でした」
「そうですかねえ、いつも通りのつもりなんですけど」

へへ、と鼻をかくなまえがありがとうございますと嬉しそうに言うとどこか此方の心まで暖かく感じてしまうのはきっと、天真爛漫な彼女の魅力なのだろうと思う。思わず頬を緩めてなまえを見ていると不意に、彼女の視線が私の方をじっとみて、固まった。

「……どうかされましたか?」
「……」

瞬きもせずにじっと此方を見つめる彼女——そろそろ時間です、と誰かが言って、私たちが立っている隣の扉を科学部門の研究者と思しき人々がちらちらと此方を見つめながら扉の向こうに消えてゆくのにも構わずに、なまえはじっと此方をみて微動だにしない。

「……なまえさん?」

名前を呼んでも返事はなく、ついに扉の向こうから「次の講演は——」と座長のアナウンスが聞こえ出してもなまえはまだ固まっている。何度か瞬きはしているし、そもそも直立不動のままなのだから生きていることは分かるものの、まるで石化状態にでもなってしまったように体は全く動かない。

——どうしたのでしょうか。それとも本当に何かの魔法で突然石化してしまったとか? 困りきって体を揺らそうとなまえの方へと手を伸ばしかけたその瞬間、彼女が再び動きだした。

「っ、なまえ、さん?」
「……きれい、」

細長い指が突然私の顔に伸びて、目の下を撫でるように触れた。突然のことにどうすればいいのかもわからず固まる私に構うこともなく、うっとりとした声色で宝石みたい、などと続けるので心臓がばくばくと音を立て始める——おそらく他意はないのだろう。ただ綺麗だと思ったから、それに見入っている。そうわかっても彼女の表情はどこか心臓に悪い。

「あ、りがとうございます……」

視線を泳がせるように彼女から瞳を逸らしてしまうとようやく、「あ、すみません」と我に返ったような声とともにその指先が離れていった。「あれっ、もうこんな時間?」と呟く彼女は本当に外界のことなどまるで意識に入っていなかったらしい。先程のことなどなかったように慌て出した彼女はどうしよう、と呟いてすぐに「まあいっか」と笑った。

「いいんですか?」
「うーん、まあ確かに次の講演は気になってたけど、あとで論文読めばいいので」
「……なるほど」
「統括こそいいんですか? まあ、今日は次ので終わりですけどね」
「そうですね、私は貴女の話を聞きに来ただけですから」
「え、わたしの? やっぱりもう一回お話し直しましょうか?」

わからないまま帰るなんてもったいないですよ、せめて半分くらいわかってください。真剣な表情の彼女は私の答えを待つことなく、ちょっと待ってくださいと手元の鞄からタブレット端末を取り出した。——まあ、せっかくの機会ですし、話を聞くのも悪くないでしょう。そう思って彼女の話に耳を傾ける。

「フィールドは普段しないんですけど、たまたま共同研究でこれやることになってウータイに行ってたんです、見てきたモンスターはこれなんですが——」

——日常会話よりも科学の話の方が意思疎通が取れるというのも、なかなか不思議なものですね。なまえは私がそう考えているのにも気づかずにスライドや写真を開きながら真剣に説明を加えては、ここまでは大丈夫ですか?と首を傾げて私に視線を合わせる。大丈夫です、と頷けばまた、続きの説明を始めて。時折知らない単語の意味を尋ねると真剣な表情を崩さずにああそれは、と説明を加える彼女の話は分かりやすく、こうして話を聞いていれば彼女の賢さがよくわかる——素人目にも面白い着眼点には思わずなるほどと大きく頷いてしまって。

優秀だと言われているのは知っていたけれど、確かにただ変わっているだけではないようだと、そう思わされる二度目の邂逅だった。
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