羽根がなくてもわたしは飛べる


小さな頃から皆の背中に白く大きな羽根を見ていた。
幼い頃には皆同じ真っ白なそれは成長すると抜け落ちて、少しずつそれぞれの色と形に生え変わる。そうしてやがて星へと還る命は全て、その羽根を羽ばたかせて天高く駆けてゆく。人はみな神さまに愛されている証に、その羽根を賜ってこの世に生まれ落ち、そうしてこの世界を生きて己の羽根を育むのだと、誰に教わらずとも小さな頃から知っていた。


「初恋の人?」
「そうそう!みんなの初恋ってどんな人なのかなって」

ある日の夜、久々に与えられた暖かな宿屋の一室でティファとエアリス、ユフィの三人がそんな話で盛り上がっていた。

それぞれ与えられたベッドの縁に座って身を寄せ合い、エアリスが満ち足りた表情で過去の思い出を話すあいだ、わたしが思い浮かべたのは真っ白な一対の羽根のことだった。誰よりも白く、柔らかく、きっと飛べやしないくらいにたおやかな、けれどいつまでも眺めていたいほどに美しい、大きな羽根。物心つくより前にほんのわずか共に過ごした彼のことは、顔も名前も、何も覚えてはいないけれど。



「——名前、名前!」

ぼんやりとその羽根の色を思い出していたらいつの間にかエアリスの話も、そのあとのティファの話も終わっていて、とんとんと少し強く肩を叩く衝撃でようやく現実へと引き戻される。隣に座っていたユフィがわたしの方へと腕を伸ばして、何度も名前呼んだのに、と頬を膨らませている。

「ごめんなさい、ちょっと、ぼーっとしてて」
「初恋の人のこと、考えてた?」
「…どう、だろう」
「えー、聞きたいな?」

キラキラと笑うエアリスは純白の羽根に包まれて笑っている。顔も、名前も覚えていない彼のことをどのように説明すればよいかわからずに言葉を探すけれど、いっこうによいアイデアは浮かばない。

「…あまり、よくおぼえていなくて」

これ以上期待されてもきっと、答えられない。そう思うとなんだか居心地が悪くなって、立ち上がった。逃げているみたいでなんだか申し訳ないけれど——でもまあ、逃げているのか。自分よりもずっと年下の彼女たちに強く出れずに、小さく苦笑いを浮かべた。

「ちょっとだけ、外に出てくるよ。先に寝ててもいいから」

背中からわたしを呼ぶ3人の声が聞こえた。ごめんね、と、その声にそう重ねて部屋を出た。

今日は晴れていて空が綺麗だから、外でしばらく、散歩でもしよう。階段を降りて入り口の方へと歩くと、ロビーに座る小さなぬいぐるみが視界に映った。

「ケット・シー」
「名前さんやないですか」

デブモーグリに乗った小さなぬいぐるみはぱっとこちらを向いて、こんな時間にどうしたんや、と首を傾げるので、彼を誘って、星でも見ようと外へ連れ出した。

プレートの下では決して見ることのできなかった満点の星の下、デブモーグリから抱き上げた小さなぬいぐるみを腕に抱いて、雑草の生える地面に座り込む。星かげさやかな旅の夜に、こんなかわいいぬいぐるみにも、眩く白い、羽根が輝く。——消えかけた記憶の向こうにある、あの人とちょうど同じ色をしたその輝きが、ずっと気になっていた。

「なにかあったんですか?他のみんなと喧嘩でもしはった?」
「ううん、そういうのじゃあないよ」
「浮かない顔してはるけど…」
「…昔に見た誰かの、羽根の色を思い出して…」
「羽根の色?」

どう説明したらいいだろう。
先ほど思ったことと全く同じことを考えて、でも相手は人間でさえない小さなぬいぐるみなのだから、別にそのまま話せばいいかと、そう考えた。

「みんなの背中に、羽根が見えるの。きらきら光る、神さまからの贈り物」

ケット・シーは首を傾げてしばらく黙り込んだ。人の背中に羽根を見るのだと、そう話すと誰しもがおかしな人だと、そんな目でわたしを見るので敢えて自分からそんな話をすることは、大人になってからはもうなくなってしまった。冗談だよ、と誤魔化そうとしたけれど、わたしが話し出すよりも少し早くにケット・シーが話し出した。

「ボクの背中の羽根は何色なんです?」

思わず固まったわたしの前で、薄暗い闇の中、そのぬいぐるみは殊の外真剣な表情を浮かべている。

ねえ、きみはそうやって、わたしの話をちゃんと聞いてくれるんだね。嬉しかった。そうやって話を聞いてくれたのは多分初めて——いいや、名前さえ忘れてしまったあの人もそうやって、優しく聞いてくれたような気がする。

「きれいな、白だよ。初恋の人と同じ色」

ほんとうにほんとうに、まぶしいんだよ。
その美しい羽根を持つきみが、自分の美しさを知らないことがもったいないと、そう思うくらいに。

「ほんまに?うれしいわぁ」
「本当だよ。あのね、そんな風に綺麗な色、きみともう一人しか、見たことがないの。…すごくすごく、好きな色」

ケット・シーは楽しげに飛び跳ねて、全身で喜びを表現してみせてから、もう一度膝の上で、わたしに向き直って首を傾げる。

「じゃあ、名前さんの背中の羽根は何色やの?」
「…ああ、それはね」

わたしの背中にはもう羽根はない。

ごくごく幼いころに、そう、きみと同じ羽根の、男の子と出会うよりもずっと前に。上級生のちょっとしたいたずらでわたしは、壊れてしまった。羽根をもがれて、地面に転がされ、その時からわたしはもう、天へは昇れない。

「ネズミに齧られて、なくなってしまったよ」

時折羽根をもたない人がいる。
きっとみな、どこかで誰かにその羽根を奪われてしまった。羽根を奪う人々はみな無邪気に笑って、奪った羽根を横道に捨てて、そうして幸せに天へと羽ばたくことができる。奪われたわたしたちにを置き去りにして。

だから、この世界で生きてゆくことはわたしが望むよりも少しだけ、難しい。

「名前さん、大丈夫…?泣いてはるの?」
「大丈夫だよ、ごめんね。…ありがとう」

心配そうに下から顔を覗き込むケット・シーが、そっとその小さな腕を背中に回して、そこを撫でた。きっと羽根があったはずの、その場所を。ふにふにとした柔らかな感触が背中を撫でて、それがとても愛らしくて小さく笑うと、ケット・シーは安心した風に「よかった」と返した。

「なあ、羽根、食べられてしもうたなら」
「うん?」

何を言いたいのだろう?少し黙って俯いて、もう一度此方を向いた糸目のぬいぐるみの向こうに、どこか見知った少年の顔が見えた気がした。

「ボクの羽根、あげます」

「…え?」

「ボクの体、作りモンなんです。そんなボクにも羽根があるなら、ボクの羽根、つこうてください」

そんなこと、できはる?
ケット・シーが首を傾げてそう尋ねるのを瞳を見開いて凝視した。——ボクの羽根を、あげる。遠い昔に聞いた少し高い男の子の声と重なった。

あの羽根の色を、あんなにも綺麗だと思ったのは、そう、あの子が、そう言ったからで、わたしはそのとき、

「…ありがとう、リーブくん…」

そう、そう言ったんだ。リーブくん、優しくて、穏やかで、強くて、まっすぐな男の子。触れたら消えてしまいそうなほど儚い、真っ白な羽根に包まれて、笑っていた。

この世界とわれわれを作りたもうた神さまはどこまでも深い愛情をわたしたちにいつも与えていて、羽根を失ったわたしのことさえ、見捨てずに目を向けてくださる。迷い子のわたしのもとにもこうして二度も、天使を遣わしてくださっているのだから。

だからこの世界がどれだけ息苦しくとも、諦めずに生きていられる。空から舞い降りてそっと、心に灯火をくれる誰かのために。

「……あ、ごめんね、ケット・シー」

目の前のケット・シーが何か、惚けたように佇んでいるのに気がついた。あの時とあまりに同じ光景に、無意識のうちに同じ言葉を口走ってしまったのだと気づいて、少し恥ずかしくなって瞳を逸らした。…きっと初恋の人の名前も知られてしまった。そんなつもりはなかったのに、わたしの喉がわたしの心も、記憶さえ超越してあの日と同じ言葉を。そうして顔と、声と、名前とを思い出してしまったわたしの頭に怒涛のように流れ込むのは彼との思い出だった。

「…あのね、わたしが初めて好きになった人も同じことを言ってくれたの。それを…突然、思い出して…」

そう話しながら、頭の中では散乱したフィルムたちが一斉に回って、たくさんの古い映像が流れ続けている。どこか引き出しの奥に大切にしまっておいたものたちが溢れ出して、そうして今度こそ、大粒の涙を堪えきれずに両手で顔を覆っっていると、ぴょこり、と可愛らしい音を立てて膝の上にいたケット・シーが地面へ降り立った。

「その人のこと、ほんまに好きやったんやね」
「…っ、う、ん……すごく……すご……く……また、会ったら…うっ………おれい、おれいを、言いたくて……っ」
「うんうん」

こんな小さなぬいぐるみ相手にわたしは一体何をしているんだろう。でも、ただ何も否定せずにわたしの思いに頷いてくれるこのぬいぐるみに、聞いてもらいたくなった。溢れる思い出と、大切な気持ちを。お礼を言って、それから。今もその優しさを、あの時の嬉しさを覚えているのだと、そう伝えたいよ。とりとめもない言葉で、時折声を詰まらせながら話続けるわたしの言葉を何度も頷きながらちゃんと受け止めてくれたケット・シーは、やがて楽しげな口調で話しだした。

「名前さん、占ってあげますさかい、元気出してください」
「…っ、…うら…ない…?」
「そうですそうです。よく当たる、いうて、評判なんですわ。当たるも〜ケット・シー、当たらぬも〜ケット・シー。名前さんがその初恋のひとと会えるかどうか、占いますよ!」
「…うん、…うん、」

何度か首を縦に振って頷くと、涙に濡れた視界の向こう、ケット・シーはデブモーグリに乗り込んでその巨体をゆらゆらと揺らす。しばらくして、何か小さな紙を取り出して、それからニッコリ笑った。

「ええかんじですよ。名前さん、待ち人きたる、ですわ!きっとステキな未来、待ってます!」

よかったですね、と笑うぬいぐるみはデブモーグリの上でまたぴょこぴょこと飛び跳ねている。元気なその姿を見ていると少しずつ心が落ち着いて、本当に会えるかも、なんて根拠のない希望が胸に湧き起こる。この小さなぬいぐるみは神の御使いだから、きっとそういう魔法も使えるのかもしれない。

「そう、だといいな」

もしもまた会えたなら、彼は何色の羽根でわたしを迎えてくれるだろうかと考える。赤、緑、青、白、どんな色でもきっと、世界でいちばん好きになれると、そう思う。

「ありがとうね…ありがとう、ケット・シー」

そろそろ、戻るね。見上げると、4人部屋の明かりはもう消えていた。みんな眠ってしまっているだろうか。初恋の人の話は盛り上がっただろうか。——今からならわたしも、いくらか話せそうな気がするけれど。そう考えながらケット・シーに手を振って、部屋へと戻っていった。



「ボクも、待ってるさかい…はよ、戻ってきて」

呟く男の声は広い部屋に溶けて消える。窓の向こうのミッドガルの夜は、今日も明るい。