帰ろう -her side.




 名前が任務中に抗争に巻き込まれて殉死した。淡々と上司の告げる言葉を、驚いたり残念がったりしながら受け止める仲間だった彼らと、何も言えずに固まる彼の表情をまるで他人事のように眺めていた。名前ーーわたしの名前。でももう、そんなものに意味はない。もう二度と誰かに呼ばれることもなければ、それに応えることもないのだから。なんだかおかしな気分だ、自分がいなくなった後のことをこうしてどこかからふわふわと眺めるというのは。今のわたしが何であるかは正直に言って分からない。そもそも今のわたしにとって、「わたし」とはなんだろう。何がわたしの内と外を分かっているのだろう。肉体を失ったわたしの意識はそれを星と切り分けられず、星の意識とわたしの意識が絶えず混ざり合って、どれが自分なのかもよく分からない。


 けれど、その中でただひとつ強く流れ出すこの想いだけはわたしのものなのだという強い確信があった。ーー最後にリーブに、会いたかったな。


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 世界というのは意外とわたしひとりいなくともいつも通りに回るものだ。わたしがもう少し頑張れていたら、アバランチの内部工作が成功していたら起きなかったかもしれないテロも、神羅カンパニーの——つまり元同僚の——作戦も、多くの命を奪い、憎しみを生み、悲しみを産んだかもしれない。それがよかったかどうかを決めるのは今を生きる人々であって、わたしではない。ただ明らかなのは、そうやって生み出された悲しみと同じようにその後の日常にも喜びがあり、楽しみがあり、暗く沈んだ顔で暮らす人々の中にも少しずつ笑顔が戻ってゆくということ。悲しみが風化するにはまだ時間も浅すぎるけれど、確かに時は人の傷を癒していた。何が起きても世界は回るし、時の流れは止まらない。わたしが埋葬された墓地は随分と墓石の数が増えて賑やかになったけれど、わたしも、ここに眠るとされる数多の人々の命もそこにはないのだから、そんなことには大した意味などない。人がひとり星に還るごとに、プレートの上か下か、現世でどれだけの地位を築きどれだけの財産を持っていたかなど何も関係なく、皆平等にその意識が集まりひとつの大きな流れとなってこの星を巡ってゆく。大切な人との記憶を持って、裏切りや絶望の意識を持って、或いは神羅への憎しみを持って。


 ——わたしは一体何を持ってこの星を巡っているのだろう?


 ほしがってばかりの人生だった。人よりもたくさんのものを持っている癖に、手に入らないものを惜しんでばかり。人が当たり前に与えられるものは全て自分にも与えられるのが当たり前だと信じて疑わない人間だった。


 そんなわたしにとって、彼はきっとできすぎた人間だった。


「ねえ、わたしのこと、本当に愛してる?」
「ええ、勿論。心から愛していますよ」


 少し皺の寄った眉をいつもより少しだけ緩めて、穏やかに笑う彼の言葉を執拗に求めていた。愛して、と強請るたび困ったように笑う人だった。


「名前は愛されていますよ。私だけじゃない、周囲のたくさんの人に。そう信じていただけるように頑張っているつもりですが」


 力不足みたいですね、すみませんと苦笑する彼に、困らせていると分かっていてもそれをやめることはできなかった。そんな笑顔が最後に見た、彼の表情だった。幸せそうに笑う顔だって知っているはずなのに、わたしはいつだってそれを曇らせて困り顔に変えてしまうのだ。


 だからもう、彼のあんな風に笑う顔が見られなくても仕方がないのだと思った。


「名前、名前……私は一体どうすれば……」


 あの日からずっと、彼が浮かべるのは困ったような笑顔でさえなくなって、眉を目一杯に寄せて深い皺を刻んで、何かに耐えるような苦悶に満ちた表情ばかり。


 生きている人は皆、どんな深い悲しみも強い怒りも、生きている人同士で傷を舐め合い、誤魔化して、そうして少しずつ時がそれを癒してくれるまでただ耐え忍ぶしかない。だからわたしにできることは何一つ、ない。わたしの名前だったそれを何度も譫言のように繰り返す彼に応える言葉はもう、持っていない。奇しくもわたしの立場を引き継いで、アバランチに潜入するスパイとして動く彼の分身をモンスターの攻撃から守る腕ももう失ってしまった。


 彼に笑ってほしいと、そう願うようになって初めて、わたしは彼を笑顔にすることさえできていなかったのだと気が付いた。


 それなのにわたしはずっと彼から笑顔をもらっていたのだと、気が付いた。


「——だぁれ?」


 暗闇に一筋の炎が上がっている。ただ静かにそれを見守っていたわたしに、たしかにわたしに向けて誰かがそう声を掛けた。


「わたし、」
「あ、待って。わたし、あなたのこと知ってる」


 ——勿論わたしだって知っている。エアリス、タークスの護衛対象兼、監視対象だった古代種の唯一の生き残り。星と対話するというその種族はもしや、こうして星を漂い流れる死者の想いにも触れることができるのだろうか。


「名前、でしょ? レノとルード、一時期すごく落ち込んでたの。それで聞いたらあなた、星に還ったって」


 なんと返せばいいのか分からなかった。同僚だった彼らは人の死になど慣れきってしまったから、たしかにしばらくは落ち込んでいたけれどもうとっくに日常へと戻っている——否、本当は戻れてなどいないのかもしれない。ただ全て見ないふりをして、前を、前だけを向くフリをしていなければ自分を保てないこともある。歩み続けなければ壊れてしまうことが。


 そんな彼らの姿を、見る人が見れば痛々しいと思うのかもしれない。わたしはそうは思わなかった。何もかもを直視できるほど人は強くない。ただ何も見ずに前だけを見ることも時には——特にわたしたちみたいな人間には——必要なことだ。泣いたり悩んだりすることは今でなくともいいはずだ。


 だからこそ、ひとりで抱えるには大きすぎる罪や悲しみから目を背けることのできないリーブが心配だった。同時に、そんな彼にできることがない自分が——生きている間も何もしてこなかった自分が無力で、悔しくて仕方がないのだった。


「——誰か別の人のこと、心配してる?」
「……え?」


 思惟に耽っていたわたしを引き戻したのは様子を伺うように首を傾げたエアリスの声だった。ずっと話しかけてるのに全然、答えがないから。エアリスはにこりと笑った。その笑みを見るだけで誰もが頬を緩めずにはいられないような、華やかな笑顔だった。ああ、せめてわたしにもそんな笑顔があったなら、ほんの少しでもリーブに笑顔を齎すことができたんだろうか。エアリスのような女性だったなら彼は今ああして苦しまずに済んだのだろうか。


「……もしわたしの大切な人に会ったら、」
「え?」


 エアリスにそれが誰かなんて分かるはずもなかったが、それを伝えることは、彼が今していることを思えばできなかった。すでに終わった身であるわたしという存在が生きている人に影響を与えるなんて許されるはずもないのだ、だから、そう、届かなくとも。届かなくとも構わないと思った。エアリスのぽかんとした表情をぱちぱちと鳴る焚き火が赤く照らしだしている。緑色の虹彩の向こうに赤く燃える炎が光っている。生きている者の瞳だ。この世界で、絶望にも理不尽にも、悲しみにも負けず、明日を信じて生きようとする人間の輝き。わたしにはもう失われてしまったもの。


「……あなたの笑顔が好きだって、伝えて」


 返事も聞かず、その場を離れた。


 生きている間にできなかったことが、死んでしまってからできるなんて、そんなわけ、あるはずなかった。


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 傷口は瘡蓋になり、剥がれ落ちて消える。心も同じように癒えたなら、きっと彼はあんな風に悩むことも苦しむこともないのだろう。生きている間、きっと何度も何度も傷つけて、勝手な思いで傷ついて、それでも彼はわたしを愛していると何度でも囁いてくれた。それがどんな場所でも、どんな時でも。死んでしまう直前に会いたかったのはきっと、あの愛の言葉をもう一度聞きたかったからだ。しかし今は別の理由で死んでしまう前に会いたかったと思う。——愛していると、ちゃんと応えればよかった。ほんの一言でも、彼に。


 メテオが発動したらしい。あの時少しだけ話した彼女も今はわたしと同じようにこの星を巡っている。ざわざわと騒がしいのはきっとあの空に光る赤い流星を感じているから。星が騒がしいのと同じように、生きている人間も目の前に現れた終わりを前に怯えているのだと分かった。


 ——わたしが見てきた生きていた頃の仲間たちや、リーブの分身が共に旅する彼らは誰も、怯えてなどいないように見えた。


 わたしがいなくても世界は回る。
 そう初めに思ったのは随分と昔のことだったように思うが、近頃はそれをより強く感じられる。リーブは瞳の向こうに強い輝きを取り戻して、生きようとしているのだと分かった。それはあの生きている仲間たちが齎したものだ。わたしにできなかったことを、彼らはいとも簡単にやってしまう。


 アバランチの残党の混じる彼らに対する思いは複雑だ。バレットを憎んでいないと言えば、自分を殺した組織の人間を受け入れられるといえば、あるいはそんな人間に味方するリーブに何も思わないと言えば嘘になる。けれどそれを良しとするか悪しとするかを決めるのはわたしではないし、わたしが何を思っていようと彼らに届くことも、それが彼らに影響を与えることもないのだから考えても詮ないことだった。


 とにかく、彼は自分を取り戻した。世界を守ろうとする己の強い意志を。


 わたしはいつだって、何もできないのだ。それどころか死してなお彼を力づけた仲間たちを受け入れることさえできない狭量な女だった。愛を求めていた頃から何も変わっていない——生きていないから、成長することもできないのかもしれない。


 世界は回ってゆく。わたしを置き去りにしたまま、人は成長し、心を癒し、強くなってゆく。それが苦しいのか、それともそれに安堵しているのか、わたしには何も分からなかった。


「名前、私はもう少し頑張ってみますよ。どうか見守っていてください。私はまだそこへは行けませんが……」


 見守っているよ、応援もしているよ。まだここには、こなくていいよ。


 失われたと思っていた笑顔さえ取り戻した彼が墓石の前で告げる言葉一つ一つをただ、噛み締めていた。


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 ふ、と星の意識と自分のそれとが混じり合う。慣れた感覚だった。星の知識は流れては向こうへ消えてゆくが、今はそれが己の内に留まっているように感じられる。温かなそれには覚えがあった。


 ——エアリス。彼女の祈りは星に届いている。ホーリーはきっと、発動する。だってクラウドがいるから。エアリスの優しいけれど力強い声だった。


 そして同時に、私にもまだできることがあるのだと知った。それはとても、嬉しいことだった。生きていたなら泣いてしまいたいくらいに、心は歓喜に満ちている。ようやくリーブにできることが見つかったから。


 こうして誰かのために何かをしたいと、そう思えることが愛情なのだと、死した今ようやく気がついた。わたしのほしかったものは全て、わたしのところにはじめからあったのだ。与えられるものは与えられたもの、これは紛れもなくリーブがわたしに残したものだった。


 きっとわたしの意識はもうすぐ消滅してしまうだろう。本当は人は皆このライフストリームを巡る間に一つ一つ手放してゆくのだ。そうして全てを失った流れは星と完全にひとつになって、また新しい命として星に宿る。きっとわたしにも、その時がきた。人よりずっと長かったと思う。けれどわたしにとっては今しかない。


 何もできないはずだったわたしに、できることがあるのなら、それを全うしたい。そうしてそれから、全てを手放して忘れよう。新しく生まれる世界はきっと素晴らしいものだ。彼が、リーブが作るのだから。


「リーブ、愛してるよ」


 星に近づいたメテオにホーリーの大きな光がぶつかる。初めに手放したのは憎しみだった。わたしを、そしてわたしの同僚たちを少なからず殺したあのアバランチに対して抱き続けてきた思いだった。次に手放したのは友情。元同僚だった仲間や、プライベートでよく会っていた友人たちとの記憶や、彼らへの思い。それらは緑色の光となってあの赤い光の方へと消えてゆく。段々と背中が軽くなってゆくような気がした。


 最後に手放したのは愛情だった。ついさっき気づいたばかりだけれど、ずっと前から彼がいつも与えてくれた、わたしをわたしたらしめる思い。彼にこれからも幸せに生きてほしいと願う、わたしがここに在る理由。


 最後の言葉は「さよなら」なのかもしれない。けれどわたしには確信があった。


 きっと、また会える。だってわたしが生きるのなら、たとえ今手放してしまったとしても、わたしがわたしである限り、帰る場所は彼のもと。だから告げたい言葉はさよならでも、ましてやまたねでもない。意識が途切れる直前、ミッドガルの街の下に彼の姿を見た気がした。彼が、わたしを見ていたような、そんな気がした。


「ただいま。」


 さあ、おうちへ帰ろう。


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イメージソング(?): 藤井風「帰ろう」