もうじき日が沈む




学校が、あまり好きじゃなかった。
毎日面白くもない授業を受けて、図書館にこもりきり。ずっと、「天才」とか呼ばれて、そんなもののために勉強してたわけじゃないのに。勝手にみんな私をそう呼んで距離を取って。好きな数学の話をしたって、「天才の言ってることは全然わからない」って。でも試験の前だけはまるで友達みたいな顔をして接してくる。そんな周囲に溶け込めなくて。


「ーーあ」


いつも通り、息の詰まる教室を抜け出して図書館の二階、本棚の奥にある小さなテーブルへと向かうと、そこには先客がいた。特徴的な頭を机につけてすやすやと寝息を立てている長身の男の子。


(ーー「天才」だ。)


私と同じ名前で呼ばれているのに、私とは随分と違っていた。学校中から応援されていて、人気があって。スポーツ推薦で入ったクラスメート。いつも飄々としているけれど、周りには人がたくさんいる、雲の上のような。


「…まあいっか」


小さく呟くと、いつも座っていたーー今は占領されているーー斜め前の椅子に腰掛けて、持ってきたカバンからノートと本を取り出した。今は試験前だから、図書館も少し混んでいるけれど、この席はあまり人目にもつかず落ち着いて自分の勉強ができる。やがて斜め向かいに座っていた男のことなんて忘れてしまって、勉強に没頭してゆく。いつだって数学は楽しくて、ボールペンとノートがあれば私に無限の世界を見せてくれた。


ーーチャイムが遠くに聞こえて、ふと顔を上げた。


「…仙道くん」
「ずいぶん熱中してたね」


斜め向かい、いつもの椅子を占領していた彼は気づくと肘をついて、此方を楽しそうに眺めていた。


「仙道くんだって、バスケしてたら周りが見えなくなることくらいあるでしょ?」
「まあな。でも集中力すげーよ。俺結構前から起きてたぜ?」
「ずっと黙って見てたの?」
「うーん、最初は何やってるのかなって思ってたけど。結局全然わかんなかったよ」


にこり、と笑う彼に、今勉強していた話をしたら聞いてくれるのだろうか。閉館時間の迫る図書館で、勉強道具を仕舞い帰る準備をしながらそんなことを考えた。


「…これはね、」


ダメ元、なんて心で言い訳をしながら口を開くと、意外にも彼は頷きながら聞いてくれた。時折される質問で、ある程度は理解しながら聞いていてくれているーーつまり、適当に聞き流しているわけではないことも伝わってきて。


「楽しそうなことやってるんだな。『数学の天才』ってのも」
「そんな風に呼ばれるのあんまり好きじゃないんだけどね」
「ああ、分かるなそれ。俺もただ好きでやってるだけなのにさ」
「『バスケの天才』も同じこと考えてたんだ、意外!いつも女の子に手振られて笑顔で返してるのに」
「そりゃあ無視はできないだろ、応援してくれてるのに」
「いや、されたことないからわからないですね」


そういって二人で顔を見合わせて、小さな声で笑った。


「そろそろ帰るけど一緒に帰らない?」
「ああ、もちろん。駅?」
「うん」


『バスケの天才』はバスケットマンだけあって身長が高い。横を歩くとその高さがよくわかった。閉館間際の図書館は試験前とはいえほとんど学生もいなくて、誰かに見咎められることもなく外に出る。空は夕焼けに赤く染まっていた。


「試験期間は部活休み?」
「もちろん。だから勉強に来てたんだけど、あの机日当たりいいだろ?気づいたら夢の中ってね」
「ああ、あそこ気持ちいいよね。お気に入りなの」
「勉強中に眠くならない?」
「うーん、まあ、たまに?」
「なんだよそれ」


仙道くんはいつもクラスで見せているのと同じような、明るい笑顔を絶やさない。こうして楽しそうにしているところが、みんなに人気のある所以なのかもしれなかった。


「でも、意外だったよ。名字さん、あまり学校で楽しそうにしてるところみないから。陵南はレベルが低すぎるのかと思ってた」
「むしろ私は仙道くんがわたしの話なんかに興味を持ってくれたことが意外だよ」
「そりゃ興味あるだろ。『天才』って普段何考えてんのかなとかさ」
「あなたも『天才』なんでしょ」
「まあな」


湘南の海は夕日を反射して赤く光っている。
優しいその赤は、隣で笑う人にも暖かい表情を加えていた。


「わたし、こっち方向」
「あー、俺逆なんだよね」
「そっか」
「名字さんとまともに喋ったの初めてだけど楽しかったよ。またな」
「…うん、わたしも。また明日クラスで話そ」


ほんの少しだけ、学校を好きになれるかもしれない。そんなことを思った。