雨粒になって頬を伝う


 キィ、キィとブランコの連結部分が軋むような音を立てた。
 雲がかかって星も見えない暗い夜の公園を、白っぽい街灯の明かりがぼんやりと照らし出している。バチバチと小さな音を立てて、小さな虫ポケモンたちが街灯にぶつかっては離れてゆく。それ以外の音が消えた不気味なくらい静かな場所で、あたしはブランコに座って揺れていた。
 流石にもう涙は乾いてしまったけど、気分は暗い空と同じくらいに塞いだままだ。

(シンジの、ばか、もう知らないんだから)

 きっかけは小さなことだった。シンジは小言が多い。シンジは自分にも他人にも厳しいから、あたしが甘えてるように見えて許せないんだと思う。それはシンジ基準での見方でしかないし、あたしはあたしで頑張ってるんだ、なんて、そういうの、絶望的に理解してもらえないけど。
 ああ、思い出したらまた不愉快な気分になってきちゃったな。苛立ちをぶつけるように強く地面を蹴るとブランコも大きく揺れた。

 不意にぱかん、とモンスターボールが開く音が響くのと同時に、赤い光が腰元から発されて、驚いて一瞬瞳を閉じた。チェリチェリ、と楽しそうな声を聞いて瞳を開く。

「チェリンボ、勝手に出てきちゃだめって言ってるでしょ」

 そんなの知らないよ、と言いたげにチェリンボが笑っている。この子はなかなか自由なポケモンで、あたしがどれだけ落ち込んでいようと体調が悪かろうと勝手にボールから飛び出しては好き勝手にそこらじゅうで遊び出すのだ。そんなチェリンボは、今いる場所が公園だと気づくとはしゃいで駆けていった。夜は暗いし、ろくに戦えるわけでもないチェリンボには安全とは言えない。待って、と声を掛けたけどチェリンボは振り返らなかった。
 危ないとか暗いとか、そんなこと理解してくれるはずもなくて、チェリンボはうきうきと手近な木に登って枝の向こうの木の実を掴むと、そのまま食べ始めた。主の気も知らず、楽しそうで何よりなこと。あたしもあのくらいマイペースにいられたらいちいちシンジの言うことにだってつっかからなくてよくなるんだろうなぁ。なんだか自分が嫌になる。

 本当は知っているんだ。恋愛なんてちっとも興味なさそうな顔してるくせになんだかんだで付き合いの長い彼は、普段は言葉にしないけどちゃんと、あたしのことを考えてくれてることってくらい。
 だからあたしのために必要だと思って発する言葉が、まあ、恋人に向けるものとは思えないくらいきつかったとしても、少なくともシンジはあたしのことを心配してくれている。たとえあたしが泣きだそうと責める手が緩まないのは……さすがに恋人相手にどうかとは思うけど、でもそれもそのくらい真剣なんだって分かってる。

 ……分かってるよ。分かってても、ありがたく受け入れられるほどあたしは大人じゃないってだけ。

 ぽつ、と頭に冷たいものが落ちる。見上げた額に、頬に、肩に、足に、ぽつぽつと冷たい水が落ちて、流れて。
 あっという間に流れる水の量が増えて、雨だ、と気づく頃にはもう、土砂降りとまでは言わないけれど、それなりの量の雨粒を全身で受け止める羽目になっていた。
 なにそれ、ツイてないな。チェリンボの方は久しぶりの自然の恵みに全身で喜びを顕にしているけれど、生憎あたしはにんげんタイプ、雨を浴びて成長する特性なんて持ってない。っていうか、このままここにいたら風邪を引いてしまう可能性さえある。泣きっ面に蜂ってこういう状況のことを言うんじゃないだろうか。イヤになって外に飛び出してきたのに、外は外で雨、なんて。

 肌に触れる水は冷たくて、少し寒気もしてきた。状況はちゃんとわかっている。
 早く戻ったほうがいいに違いない、そう思っても、やっぱりまだ帰る気にはなれなかった。

「……シンジのばか、」

 聞こえてる? あんたのせいであたし、風邪ひきそうなんですけど?
 小さな声はシンジの元どころか、雨音にかき消されてチェリンボのところにさえ届いてなさそうだ。さすがに八つ当たりなのは分かってたけど、それでも口にせずにはいられなかった。大声で叫んだって届くかわからないのに、消え入りそうなくらいに小さな声でそう言って、返事がないことに無性にイライラした。
 しとしとと振り続ける雨を髪の毛や服が吸って、じっとりと重たくなっていく。ブランコを漕ぐのをやめて、立ち上がった。キィ、と再び、連結部分が擦れて音を立てた。暗い公園で、ずぶ濡れのトレーナーが1人。かたわらには、はしゃぐポケモンが一匹。なんだかとっても奇妙な光景だ。傍から見たら変な人に違いない。それがなんだかとっても、惨めな気分で。

「……シンジの、ばか」
「聞き捨てならないな」

 もう一度発した言葉には、背後から返事が返された。

「え……」

 平坦な声。振り返る。見慣れた姿。手に持った傘を見てはじめて、それがあたしに差し掛けられていることに気がついた。

「お前、こんなところで何をやっている。体調管理くらい自分でやれと前に言わなかったか?」
「しっ、知らないよ、シンジには関係ないでしょ!?」

 心配して来てくれたんだ。頭はすぐにそう答えを導いたけど、口は考えていることとは無関係に攻撃的なことばかりを吐き出した。迎えに来てくれて嬉しい。さっきはごめんねって謝りたい。素直にそう言えない、自分がイヤで。

「だっ、だいたい、迎えにきてなんて、頼んで、ない、うぇ、う……」

 ぐずぐず、と鳴る鼻を啜って言葉を止める。右手で目をなんども擦ってみたけど、涙は止まりそうにない。チェリチェリ、といつの間にやら戻ってきていたチェリンボが、様子をうかがうように足元に巻き付いてあたしの方を見上げていた。このチェリンボはあたしがどんなでも全然気にせずにはしゃいでるけど、あたしが本当にダメそうな時にはそばにいてくれる優しい子だ。
 ……そういう、マイペースなのにちゃんとあたしのことを理解してくれてるところがシンジに似てるなって、そう思ってゲットしたんだ。
 大丈夫だよっていってあげたかったけど、涙の止まらないあたしの口からは嗚咽が漏れるだけで、ごめんね、ごめんねと内心で繰り返しながら、涙が止まるようにとまた強く目を擦った。
 はぁ、と、ため息をつくのが聞こえた。ぴく、と体が反応する。ばくばくと心臓が音を立てて、呆れられたんじゃないか、嫌われたんじゃないかと怖くなってくるあたしはきっと、随分都合のいい性格をしてるだろうな。さんざん文句を言いながら、素直に謝ることもできないのに、でも呆れられるのは怖い、なんてさ。バカみたいだ。

 右手を掴まれた。擦っていた目から離されて、彼の左手があたしの右手を強く握る。顔を上げると、滲んだ視界の向こうでシンジが俯いていた。

「……言い過ぎた。謝る。だからさっさと帰るぞ」

 イヤイヤ、といった風に彼はそう言った。雨がぽつぽつと傘を叩いている。もう随分と濡れてしまった体にその傘は焼け石に水ってところだけど、ぱちぱちと瞬きをして少しクリアになった視界には、雨に無防備に晒されてうっすらと色の変わった肩口が見えた。
 おい、と言葉を重ねて今度こそあたしをまっすぐ睨みつけてくるシンジに、冷えたはずの体が再び体温を上げるのがわかった。

「あ、たしも……ごめん」
「……早く動け」

 チェリンボ、と声をかけてボールに仕舞う。雨音が響く。公園の水捌けの悪い砂の地面は、雨が降り始めてそう経ったわけでもないのに歩くたびにぴしゃぴしゃと音を立てた。

「肩、濡れてるよ」
「お前にそれを言われるとはな。人の肩を見ている暇があるなら自分の体をみたらどうだ?」
「えへ、たしかに」

 彼はそんなことを言いながら、差し掛けた傘の角度を変えようとはしない。いつの間にか涙なんて止まっていた。先ほどまでのイライラも嘘のように消えている。ふふ、と一人でに笑い出してしまうあたしを訝しむように横目で見て、何を笑っていると問いかけるシンジの左手をぎゅっと握り返した。

 ——なんでもない。ただ、シンジのことが大好きだなって、そう思っただけだよ。