雨に濡れた髪が煩わしくて手櫛でかきあげる。ちらりと目線を斜め下に向けると、前髪から雫を滴らせる横顔が煽情的で、俺は喉仏を上下に動かした。そうして、思わずその濡れた前髪に手を伸ばす。みょうじさんは不思議そうな顔をしつつも、目を細めて俺の手を受け入れた。俺は優しく、優しく、その雫を振り払う。
「濡れてる」
「笹谷くんも」
「うん」
「突然降るんだもんね」
「うん」
「全然止む気配しないね」
また俺は、うん、とだけ答えた。ふたりとも、髪から雫を滴らせ、ブレザーも深い緑からさらに濃い色へと変化させていた。俺の委員会の雑用を、みょうじさんが手伝ってくれて、そうして肩を並べて正門を出て、少し歩いた所で、俺たちは土砂降りにみまわれた。咄嗟にみょうじさんの手を取り、屋根のあるバス停に駆け込んだのは数分前のこと。
彼女の手はちいさくて、指先は細くて、そして、冷たかった。
みょうじさんを好きだと思ったのはいつからだったか。いつの間にか俺の心に住みついて、気付けばいつも目で追っていた。瞼を閉じれば笑顔が浮かび、声を聞けば身体の内側から熱を感じた。みょうじさんは誰にでも笑顔で、誰にでも優しい。俺はその笑顔に、優しさに、触れれば触れるほど、彼女を自分のものにしたいと、強く思った。でも、彼女にとって、それは誰にでも与えるべきものであって。それを独り占めにできるわけがないと、諦めていた。
でも、そんな諦めたなんて、結局何も出来ない臆病な自分をごまかす言い訳でしかなかったことに、気付く。俺は未だ、みょうじさんの手を掴んだまま、離せずにいた。本能が、このまま奪ってしまえと、俺を突き動かす。
汗が滲むほど熱を持った俺の手とは裏腹に、小さな手のひらはひどく冷たい。それは、俺たちの心の温度差を表しているかのようで。俺の熱を分け合えたらいいのにと思いながら少し力を込めるも、冷たい手が握り返すことはない。
言いようのない胸の苦しさを感じて、「みょうじさん」、と名前を呼んだ。さっき前髪の雫を振り払った時のように、彼女に手を伸ばす。みょうじさんはまた、目を細めて俺の手を受け入れるから、俺は優しく、優しく、その濡れた頬に手を添える。そして、背中を少しだけ丸めて、みょうじさんの血色のいい唇に、俺のそれを触れ合わせた。
「、笹谷くん」
ふたりの唇の間から漏れた彼女の声色は、熱を孕んでいるように感じたけれど、手のひらは依然として冷たい。だから、俺は、心の温度差を埋めるように。
「みょうじさん、今は、何にも考えないで」
「っ、ん」
「俺のことだけ、考えて」
揺れるみょうじさんの瞳。でも俺はそれに気付かないふりをして、何度も、何度も、柔らかい唇を食んだ。
みょうじさん。俺、みょうじさんを独り占めにしたいんだ。キスの間に、俺のことで頭いっぱいにしてよ。こんな、力ずくでしか向き合うことのできないずるい俺だけど、でも、どうしてもみょうじさんを俺のものにしたいんだ。ねえ、俺を好きになって。
どれくらいそうしていたのか。
いつの間にかバス停の屋根を叩いていた雨音は消えていた。聞こえるのは、自分の心臓が激しく脈打つ音、だけ。握りこんだ小さな手が温かくなったことに、ひどく満足してそっと唇を離す。熱を持った瞳と視線が交わった。そうして、みょうじさんはキスで赤くなった唇をそっと開く。
「笹谷くん、わたし、」
今まで握り返してくることのなかった小さな手に初めて力が入った。揺れる瞳は、ただただ女を感じさせるしかなくて、俺は自分が男である満足感に浸る。これはもう、言葉なんていらない。
「もう一回、する?」
「……うん」
「みょうじさん」
「笹谷くん、ん」
諦めていたみょうじさんが俺のものになったという事実。表現しようのない喜びで胸を弾ませながら、みょうじさんの薄く開いた唇に噛みついた。
:::
みょうじさんと付き合ってしばらくした頃、あの時の話をした。キスの間何を考えていたのかとか、キスで俺のこと好きになってくれたのかとか。俺は、みょうじさんを自分のものにしたいという気持ちでいっぱいいっぱいで、彼女の気持ちを考えてあげられなかった。余裕なんてなかった。俺のもんになった今だからこそ、聞けるというもの。みょうじさんは、ああ、と思い返すようにして、口元に弧を描いた。
「キスした時に気付いたの。あ、わたし笹谷くんのこと好きなんだって」
「へえ」
「でもね、好きになってほしいなとはずっと思ってた」
「え?俺に?」
「そう、入学したときから、笹谷くんにわたしを気にして欲しいなって思ってた」
それから、みょうじさんは、俺に気にして欲しくて雑用を手伝ったりしたことや、俺に意識させるために見える所で他の人に優しくしたことなどをつらつら話してくれて。
「あの時、手を握り返さなかったのも、そうした方が、笹谷くんは気にするかなって思ったから」
目を見開いて口を噤んでしまったのは、すべてに心当たりがあったから。そんな俺の顔を眺めたみょうじさんは「笹谷くんでもそんな顔するんだね」と口元に手を当てて、ふふっと楽しげに笑い声を漏らす。
「キスしてくれたときはね」
穏やかにみょうじさんは言葉を続けた。
「わたしのものになってくれてうれしいなあって、思ってた」
そう笑ったみょうじさんは繋いだ手をきゅっと握った。
俺はこの時まで、みょうじさんを力ずくで自分のものにしたと思っていたけれど、彼女の手の中にいたのは俺の方が先だったんだろうか。でも、みょうじさんをそう突き動かせたのは、彼女の心のどこかに俺がいたわけで……。いや、そんなん、考えたって埒があかない、どっちだっていいよな。結局、みょうじさんは俺のものだし、俺もみょうじさんのものなんだから。
俺は小さな手のひらをただ握り返す。熱を分け合う必要はない、すでに同じ温度だ。
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