憧れていた先輩にはどうやら彼女がいたらしい。


強めの向かい風に逆らうように、私はただがむしゃらに走る。
少し緩んだシュシュをはずせば、先輩の好みだと聞いて伸ばしていた髪が乱れた。
そんな先輩の噂の彼女は、ショートカットがすごく似合うキレイな人だった。

(もう切ってやる!でもショートもあの彼女さんの真似みたいで嫌!)

私が知らないだけで、先輩に彼女がいることはどうやら有名だったらしい。
何も知らずに懐く私を、「みょうじはバ可愛いなぁ」なんて笑顔で撫でてくれた先輩の大きな手を思い出す。

(可愛いって言ってくれたのに…、先輩のバカヤロー!)

妹のようなポジションだったのは何となくわかっていた。
それでも側にいられるのが嬉しかったし、そこから何か変わっていくものだと思っていたんだ。


『それなのに彼女がいたなんて…先輩ヒドくない?!』
「…まぁ同情はするけど。でもあんなに有名な二人を知らなかったなまえにビックリだわ。」
「うん同感。それになまえは傍から見てても、女の子というよりどちらかと言えば犬っぽかったよ。」
「そうねぇ。微笑ましかったけど、とても恋愛には見えなかったわー。」

先ほどまで一緒にいた友人たちに愚痴ったら、事もなげにこんな事を言われた。
こんな時くらい普通に慰めてくれてもいいのに、友達は私の頭をポンポンと優しく撫でながらもその言葉はめっぽうキツイ。

『二人ともヒドイ!先輩の次にヒドイ!』
「はいはいごめんね。でもなまえ、今それ悲しいの?」
『超悲しんでるじゃん。見てよこの涙を。』
「どっちかっていうと悔し涙に見えるけどね。だってなまえのは"恋"というより"憧れ"でしょ?」

そんな言葉に思わず涙も引っ込んだ。
いや、確かに悔しいんだけど、それって何か違うのだろうか?

彼女たちに言わせると、私がずっと恋だと思っていた気持ちはどうやら好きとは違うらしい。
そう言われてもよくわからない。

モヤモヤとする気持ちを持て余して、私はバカみたいにただ一人走っている。


適当に走り続けていくうちに、住宅街の中にある公園に差し掛かった。
ちゃんと足元を見ていなかったからか、おしゃれっぽく敷き詰められた歩道の煉瓦に足を取られて思いっきり転んだ。
そう、大人としてありえないくらいに思いっきり。

いつもだったらそんなに人もいない小さな公園なのに、桜が咲き始めた今はそれなりに人通りがあったらしい。
「うわぁ痛そー…」という心配するような声と一緒に嘲笑も聞こえた気がして、惨めで顔があげられなかった。

走り続けたせいで息も切れ、心臓がドクドクと悲鳴をあげている。
しばらく動けずにいると、地面にひらりと桜の花びらが落ちてきたのが横目に映った。

(くっそぅ。もういっそこのまま花びらに埋もれちゃえばいいのに。)

ヤケになってそのまま突っ伏していようかなんて考えた時、私の周囲だけがふと陰った気がした。
それになんだか頭上に人の気配を感じてゆっくりと顔をあげてみる。

「……。」
『?!』

顔をあげると同時に私は固まる。
すごい怖い顔の人が無言のまま私を覗きこんでいて、バッチリと視線が合ってしまった。

明らかにムスッとしている表情に気付いて、私は思わず肩をビクリと跳ねさせる。
ヒッと息を飲んで慌てて立ち上がろうとするが、人間焦るとできることもできなくなるもんで。

『あのっ、ごめ、じゃなくて、申し訳スイマセン!』

うまく立つこともしゃべることもできない私を目の前にして、表情ひとつ変えることなく男の人がスッと動いた。
何かと思えば、私に向かって彼が何も言わずに手を差し出したのだ。
ビックリしたままその手を見つめていれば、口元をモゴモゴと動かすようにたどたどしく彼は言葉を発する。

「…血。膝から。…歩けますか?」
『あ…。』

言われて膝を見てみれば、確かに血が滲んでいた。しかも両方。
それまで全然平気だったのに、見た途端にジンジンと痛みを感じ始める。
無意識のうちに彼の手を取れば、その温かい手にグッと力強く引っ張り上げられストンと地面に立っていた。

知らない人。怖い顔。大きい体。
だけど差し出された手はすごく優しくて。
彼の背景に広がる桜が、妙に映えて見えた。

『う…うわーーーんっ!』
「?!!」

−そして私は、その手を握りしめたまま子供のように泣き出してしまったのだ。



『あの…ご迷惑をおかけして申し訳ないです。』

気まずさを隠しきれない私の言葉に、彼はブンブンと首を横に振った。
落ち着いてみればやらかしてしまったことを深く反省。

泣いている間、彼は何も言わなかった。聞かなかった。
ただ繋いだ手をそっと引いて人目を避けたベンチに誘導してくれ、持っていたミネラルウォーターで傷口を洗い流してくれた。
きっとその水が足先に流れないように押さえてくれたのも彼のタオルだと思う。

そしてその間の私はといえば、ただひっくひっくとえづくだけ。
途中何度か「先輩のバカ」なんて言って、彼の困った顔を見てまた泣き出す始末。
あぁもう、本当になんと迷惑極まりないことか…。

ありえな過ぎる失態に言える言葉さえ失い、とにかく私は必死で頭をさげる。
しかし彼は怒ってはいないようだった。

「…大丈夫、ですか?」
『はっ、ハイ!おかげさまで、ものすごく落ち着きました…。』

よかったとでも言うようにコクリと深く頷いた彼と視線を合わせれば、怒るどころか本当に心配してくれている気がして。
隣に座ったまま相手が動かないのをいいことに、私は何となく口を開いた。

『本当にバカですいません。』
「…。」
『私、いつも周りが見えなくなっちゃうんですよね。勝手に調子に乗って、一人で突っ走って、失恋した挙句に初めて会う方にこんな迷惑をかけて…。』
「……いや。」

私の言葉の終わりを受け、たっぷりと間を開けてから彼はそう言った。
小さな声で「うまく言えないが、」と前置きをして、彼はほんの少しだけ目を細める。

「必死になれるのは、いいことだと思う。」
『え』
「…それに、素直なのは、長所だ。」
『っ?!』

慰めの言葉が欲しかったわけじゃないし、彼はどう言ったらいいかわからなかったのかもしれない。
それでも言葉少なに誠実で真面目な答えが返ってきた。
不器用だけど真っ直ぐな言葉。
わからないくらいに少しだけ和らいだ目元。
その目にドキンと心臓がざわめいた。

『あ…ありがとう、ございます。…優しいですね。』

今度は私の言葉にギョッとしたように目を見開き、耳を赤くしてブンブンと首を横に振る。
どうやら本気で意外だったみたい。焦ってる姿が何だか可愛らしく見えて、私は少し笑ってしまった。

だって優しい以外ないでしょう?
この人が優しくないとしたら、一体誰にその単語が当てはまるのか。

私だって優しくはありたい。でも実際知らない人にまでそれが出来る人は本当に少ないと思う。
本当の人としての優しさを知った気がした。

あぁ、この人が纏う空気は、暖かい。

その時、春の嵐が過ぎ去った。
ぶわりと花びらが舞い上がる。

悔しさも不安も悲しみも持っていかれ、残されたのは胸に残る温かい予感だけ。


『あのっ!髪、長いの好きですか?!』
「??どちら、でも…。」
『私、みょうじなまえって言います!』
「みょうじ、さん。」
『はい!今度お詫びとお礼をさせてください!』

乗り出すような私に合わせてのけ反った彼は、その大きい身体をベンチの背もたれにぶつけていた。
急いで連絡先をメモって半ば押し付けるように彼の手をギュッと握る。

『連絡、ください。暇な時でいいので。お願いします。』

目を見開いたまま、彼は勢いに押されるようにコクリを頷いた。
それを見た私は安心して立ち上がり、「本当にありがとうございました!」と最後に大きくお辞儀をして再び走り始める。

でも足取りは、先ほどと違って軽い。鼻歌なんか出ちゃうくらい。

風に髪がなびく。
頑張って伸ばした髪は、実は私も結構気に入ってたりするんだ。


だから、髪を切るのはまた今度でいいかな。
だってあれは失恋じゃない。
恋なんてはじまっていなかったから。

うん、髪を切るのはまた今度にしよう。
だって今、すごくドキドキしてる。
私の心はまだ恋を失ってなどいないから。

現金なのは重々承知。
でもだって始まっちゃったものは仕方ないよね?
突如はじまった新しい恋を胸に、私は膝の痛みも忘れてスキップしてみたり。


『あ。』

(つい連絡先を押し付けはしたけど、名前聞くの忘れちゃった。…でも頷いてくれたからには、あの人は連絡をくれるはず。)


まだ五分咲きの桜並木の下で出会った、名前も知らない人。
でも、それでも私は、あなたに今日恋をしました。


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