混みあっている電車の中で俺の両隣りだけ空席、というのは、よくあることだった。背も平均より高いし、体格もいい。愛想がいい訳ではない。怖がらせるつもりなんて少しもないけれど、怖がられてしまうのは仕方がないという気もしている。もう少しにこやかに出来たなら。もう少し柔らかな雰囲気を出せたなら。そう思ったことは、何度もある。何度もあるけれど、にこやかにすることも、柔らかな雰囲気を醸し出すことも、俺にはとても難しい。
がたん、と揺れる車内で、俺の両隣りだけが今日も空いている。休日の昼過ぎ。仙台市内に向かう電車ではなく、郊外へ向かう電車はそれほど混雑している訳ではない。吊革につかまっている人もいるが、ぽつぽつと空席だってある。だが、両隣りが空いているのは俺のところくらいだ。両隣りと言わず、俺の周囲に人がいない。慣れたことだとは言え、悲しくなる。時々隣に座ろうとする人も現れるが、目が合うとびくりとした様子で離れていく。中には「す、すみませんでした!」と謝る人もいる。顔を見ただけで謝られるほど、俺は怖いのだろうかと気分が重くなる。さっきまで俺の向かい側に座っていた俺より少し年上だろう男の人も、俺と目が合うと慌てたように席を移った。そのせいで、大きな窓の外の景色がよく見える。緩やかに流れていく景色。この間までちらちらと雪が降っていたと言うのに、窓の外には桜が見える。春の風に吹かれ、桃色の花弁がはらはらと散って行った。
がたん、ごとんという音と一緒に車内に伝わる振動には心地よささえ感じる。両隣りに人がいないせいか、俺の周りだけやけに静かだった。電車内には話しこむ女子高生やスーツ姿の男の人もいるというのに、電車が揺れる音しか聞こえてこない気さえする。世界から遮断されているような、と言えば大袈裟だろうか。窓の向こうで、桜の花弁が散って行く。窓の向こうに見える景色を眺めるのも楽しいが、ほんの少しだけ寂しいような気持ちにもなる。目的の駅まではまだ時間が掛かる。
電車がゆっくりと速度を落としていく。「間もなく停車します、お降りの方は…」と車掌の声が車内に響く。車内アナウンスを聞いてか、車内の何人かは網棚の上から荷物を下ろしたり、読んでいた小説をしまったりしだす。その間も、側にいる友人や家族と話を続けていた。車掌のアナウンスから少しして、電車は一度がたん、と揺れたあと、静かに止まった。乗客の何人かがイスから立ち上がり、ドアの前へと移動する。先頭に立った乗客が押しボタンを押せば、扉が静かに開き乗客が入れ変わる。開いたドアからは、あたたかな風が入り込んでくる。冷房も暖房も入れていない車内を吹き抜けていくその風は、とても気持ちが良かった。俯いて、静かに目を閉じる。目的の駅まではまだ時間が掛かる。あと何駅も過ぎないといけない。このまま少し目を閉じて眠るのもいいかもしれない。目を閉じていれば、さっき俺の目の前に座っていた男の人のように、怯えて席を移動されることはない。そんなことを考えていると、「ドアが閉まりますのでご注意ください」と車掌の声が響く。電車がもう少しで発車するのだろうなと思っていると、イスの左側が少しだけ、沈んだ。
がたん。音を立てて、電車は動き出す。たまらず、一度閉じた目を開いてしまった。開いたのは、電車が動いたからじゃない。少しだけ沈んだ、イスの左側。それが原因だった。俯き加減だった俺の目に映ったのは、俺の足と、そのすぐ隣にある細い脚だった。隣に、誰かが座った。その事実に驚いた。細い脚。黒いソックスに、こげ茶色のローファー。隣に座ったのは、どうやら女の人のようだった。それにまた驚く。俺が目を閉じていたから、座ったんだろうか。目を閉じていたから、怖い印象を与えなかったんだろうか。だから、隣に座ったんだろうか。考えてみるけれど答えは出てこない。答えを出すよりも、隣に誰かが座ったと言う事実に動揺する。空いている席に座るのはおかしなことじゃない。おかしなことじゃないが、俺の隣に誰かが座っている、というのはすごいことだ。何故だかそわそわとしてしまう。隣に座っている女の人は、ごそごそと動いている。鞄の中から、何かを探しているんだろうか。時々ちょん、と身体の左側に彼女の腕らしいものがあたる。痛くはない。けど、緊張する。左側だけがじんわりと熱い気さえする。隣に誰かがいる感覚。学校や部活中なら当たり前にあるこの感覚。でも、電車の中で覚えることはまずなかった感覚。少し落ち着かない。少しすると彼女は探し物を見つけたのか、がさごそするのを止めた。腕が触れてくることはなくなったが、それでもそわそわして、もう一度目を閉じることは出来そうにない。かと言って視線を上げることも出来ない。窓からは、きっとさっき見たように緩やかに流れる景色が見られるのだろうけど、顔を上げて、隣に座る人を驚かせてしまいたくはない。怖い、と思われて席を立たれてしまいたくはない。結局俺は、自分の足元をじっと見つめることにした。
電車は小さく揺れながら、仙台市内から遠ざかって行く。仙台市内はビルも多いけど、市内を出れば風景はまた少し変わる。緑がほんの少し多くなる。空がほんの少し広くなる。もっと進めば、海も見えるようになる。今もきっと窓の外には緑と、場所によっては、さっきのように桜の桃色が見えるかもしれない。そう思いながらただじっと自分の足元を見つめる。隣に人が座っていると言うのは、こんなに緊張するものだったのか。膝の上に置いている握り拳は、汗でびっしょりだ。少しでも動いたら隣に座る女の人が怖がるんじゃないかとか、嫌がるんじゃないかとか、そういうことを考えてしまう。じっと足元を見つめていると、ひらり、と何かが落ちてきた。俺と彼女の足の間あたりに落ちたそれをよく見てみれば、栞だった。ぺらりとした薄っぺらいそれは、売っているようなものとは少し違う。手造りなのかもしれない。どこから落ちてきたのだろうと考えなくても、これが隣に座る彼女のものだということくらい察しが付く。俺はこんな栞なんて持っていないし、俺の周りに彼女以外の人はいない。しばらく栞を眺めていたが、彼女は栞を落としたことに気付いていないのか、栞に向かって手が伸ばされることはなかった。代わりに、一度は止んだ、がさごそと彼女が鞄の中を探る気配がした。
拾うべき、だろうか。拾うべきなんだろう。分かっている。拾って、落としましたよ、と渡してあげるべきだろう。だが、怖がられないだろうか。嫌がられないだろうか。握り拳の中、汗がどんどん噴き出してくる。どうするのが一番いいのだろう。驚かせたり、怖がらせたりは、したくない。足元に落ちた、使い込まれているだろう栞を見つめる。薄っぺらいそれは少しの風でも飛んで行ってしまいそうに見えた。次の停車駅でドアが開いたら、どこかに飛んで行ってしまうかもしれない。そうしたら隣の席の人は傷付くかもしれない。怖がられるのは嫌だが、栞を失くしたことで隣の人が傷付くのも嫌だ。見ず知らずの他人だろうけど、俺は隣に座ってくれたその人に、親近感ではないが、なんだか不思議な感情を抱き始めていた。
落としましたよと、声を掛けることは難しいことじゃない。だけど、そこに怖がらせないように、だとか、嫌がらせないように、だとか、怯えさせないように、だとか、そういう言葉が付くとなると、声を掛けるという行為はとても難しいものになる。膝に置いたままの握り拳の中、手汗が酷い。栞をじっと見つめていれば、次の停車駅を告げる車掌のアナウンスが聞こえる。もうすぐ次の停車駅らしい。次の駅は、さっきの駅よりも大きい。人の入れ替えも多い。風で栞が飛ばされるようなことがあるかもしれない。よし、と意を決して俺は足元の栞に手を伸ばした。手渡した時に怖がられるかもしれないが、栞が飛ばされて隣の席の人が悲しむよりはマシだ。手汗でびっしょりになった手で栞を取る。それは手にしてみればじっと見ていた時よりも小さく薄く頼りなく、俺の手の中で壊れてしまいそうに思えて、なんだか急に怖くなった。
がたん。電車が少しずつ速度を落とし始める。栞は拾った。次は隣の席の彼女に声を掛けなければいけない。落としましたよ。落としましたよ。落としましたよ。言うべき言葉を頭の中で何度も繰り返す。落としましたよ。それだけ伝えればいい。可能な限り、にこやかに。柔らかな雰囲気で。絶対に出来ないだろうことを思い浮かべながら、意を決して隣に座る彼女にちらりと視線を向けた。
隣に座っていたのは、紺色のブレザーを着た、多分、女子高校生、だった。多分、と付けなければいけないのは、女子の制服で学校を判別できるほど県内の学校には詳しくないからだ。中学の制服か、高校の制服か、すぐに判断できなかった。ジャージやユニフォームならすぐに分かるのに。だけど、彼女が乗って来た駅の近くにある学校は、私立の女子高校1つしかない。彼女の雰囲気も、中学生、という感じではない。だから多分、その女子高校の生徒なんだろうと思う。部活帰りだろうか。でも荷物が少ないから違うかもしれない。ああ、でも運動部じゃなくて文化部の可能性もある。文化部なら荷物が少なくても当然かもしれない。声を掛けるタイミングを探りながらそんなことをぐるぐると考える。彼女がこちらを見てくれれば声を掛けやすいのに、彼女はこちらを見てくれない。視線に気づいていない彼女は、鞄の中をがさごそと探っていた。彼女の膝には、桃色のブックカバーが掛けられた文庫本があった。栞はやはり彼女のもので間違いはなさそうだ。最初のほうで感じたがさごそと何かを探すような気配は、鞄から文庫本を取り出そうとしていたからなんだろう。で、何かの拍子で、栞が抜けて下に落ちてしまった。今がさごそとしているのは、多分、栞がないことに気付いて、それを探しているのだろう。まずはすみません、と声を掛けて、その後に、落としましたよ、と言う。よし。
「………あの」
すう、と息を吸い込んで、隣の彼女に声を掛けると、彼女はびく、と大袈裟なくらい肩を揺らした。俺の方を見てはくれたが、何事だ、というような表情をしている。眉が少し下がっている。怖がらせて、しまったかもしれない。その表情に、次の言葉が出てこない。タイミングを見計らったかのように、減速を続けていた電車が完全に停車した。「お降りの際はお忘れ物のないようお気を付け下さい。こちらの駅では列車待ち合わせのため5分程停車いたします」と車掌が注意のアナウンスを繰り返す。ぞろぞろとたくさんの人が降りて、またたくさんの人が乗ってくる。あたたかい春の風が、開いたドアから車内に入ってきた。隣に座る彼女の髪が、さらりと風に揺れた。
「…これが、下に」
頭の中で言うべき言葉を繰り返したはずなのに、短い言葉と素っ気ない言い方になってしまった。怖がられて、席を離れてしまうかもしれない。手だけじゃなく、背中や額からもだらだらと汗が流れていくのが分かる。彼女は、そんな風に考えている俺と俺の手にある栞とを交互に見つめて、それから一度瞬きをした。ぱちりと音がしそうな瞬きだと思っていると、目の前で彼女が小さく笑った。目が合うだけで怖がられたり怯えられたり逃げられること今まで何度かあったけど、こんな風に笑い掛けられたことは、なかった。
「探していたんです。落としてしまってたんですね」
目の前の彼女の唇から生まれたのは、とても綺麗な声だった。彼女の小さな手が、自分の手から栞を受け取る。俺の手に乗るには小さ過ぎた栞は、彼女の小さな手にはちょうど良さそうに見えた。彼女はそれをそっと本の間に挟んだ。細い指先が、薄い桃色の爪先が、とても綺麗だと思ってしまった。
「拾ってくれて、ありがとうございます」
少しだけ首を傾けて、彼女が笑ってくれた。俺には出来ない、にこやかな笑みを浮かべた彼女はとても柔らかな雰囲気を纏っていた。ありがとう、とお礼を言われたことにドキドキした。どういたしまして、と返せばいいのに、上手く言葉にならず、ぶんぶんと首と両手を大きく横に振ることしか出来なかった。彼女はそんな俺を見て、一度ぱちりと瞬きをして、また笑う。大きな目がゆっくりと細められていくその瞬間がなんだかとても綺麗で、見とれてしまいそうになる。慌てて彼女から目を逸らしてしまった。かあ、と顔に熱が集まっているような気がする。汗で濡れた手をまた膝の上でぎゅっと握る。緊張したからだろうか。汗がどんどん噴き出てくる。だからかもしれない。口の中がやけに乾いて、熱い。急に視線を逸らして彼女は不快にならなかっただろうかと思い、ちらりと横目で彼女を見るが、彼女は視線を本に戻して、静かに本の文字を追っていた。瞬きをする度に、長い睫毛が揺れる。白い指先が頁をめくる。彼女が少し動くたびに、俺の身体に彼女の腕が触れる。その度に、胸のあたりがそわそわとする。さっきも、そわそわしていたが、そのそわそわとはまた少し違う気がする。違う気がするけど、その理由がなんなのか、俺にはすぐには分からなかった。目を閉じると、さっきの彼女の微笑みが浮かんでくる。瞬きをした次の瞬間の笑顔が、離れなくなりそうだった。
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