突然、肩を掴まれた。掴んで来たのはチャラそうな若い男で、無視してんなよ!って言ってる。たぶん。困惑する私に何か早口でまくし立ててくる。ものすごく勇気を振り絞って、やめてください、と、もう出し方を忘れかけている声を手探りで絞り出そうとした、その時。
誰かが男の腕を掴んで私の肩から引き離してくれた。男はなんだか文句を言うように口を動かしながら、何処かへ行ってしまった。
助けてくれたのは誰だろう?
知らない人だ。背の高い、本当に見上げるほど高い、強面の人。ジャージに伊達工業と書いてある事から、高校生だろう。

「ありがとうございます」

なるべく気持ちが伝わるように、頭を下げて、その場を後にした。

***

去年の今頃、病気で聴力を失った。死ぬかもしれないほどの大病をして、命は助かったもののって、やつ。耳が聞こえないくらい、命の重みに比べたら、なんて事無い、と励ますように講釈を垂れる人もいたけど、私にとってはなんて事無くない。私はこの先、愛した人の声も、いつか授かるかもしれない可愛い我が子の鳴き声も聞く事は出来ないのだから。あれから1年経って、高校2年生になった今でも、正直、完全には受け入れられていない。
傍目には、どう見えるのだろう。私は、"普通"を失ってしまった。それは、すごくショックで、静かすぎる世界に一人、置いてきぼりを食らった気分で。
人に奇異の眼差しを向けられるのが怖くて。音声を発する事が出来ても、きちんと言えているかは聞こえないので、話す事はやめた。覚えてきた手話も外ではやりたくなかった。
私はますますひとりぼっちになった。

***

突然、トントン、と肩を叩かれた。振り返ると先ほどの大きな高校生が気まずそうに立っていた。

何?という視線を向ける。
これ、というように私の物と見られるクマのマスコットを差し出した。
私の?と目で聞けば、ぶんぶんと大きく頷き返してくれた。

じゃあ、という感じで頭を下げて背を向けた彼。ああ、もう会う事はないんだと思ったら、私の口は自然と大きく開いていた。

「あの、待って!」

周りの人にはどんな風に聞こえだろうか。掠れていたかな。醜い濁声だったかな。恥ずかしさが一気に込み上げてきた。でも、羞恥の涙が溢れるその前に、彼は振り返ってくれた。

俺?と自分を指差した彼に、うんうんと二回頷いた。急いで取り出したメモ帳に、お礼になにか奢ります、と書くとぶんぶんと首を横に振った。待ってて、とだけ書いて、近くのコンビニに入った。適当に冷たい飲み物やお菓子をいくつか買って、お会計をする。お釣りを受け取り、自動ドアから外に出れば、むわっとした空気の中に包まれた。
彼は、さっきと同じ場所で所在無げに立っていた。通り過ぎる人がその大きな身体を避けて歩き去っていく。その姿を見て、頬が緩んだ。耳が聞こえなくなった瞬間から、言葉や口約束はなかなか信じ難いものになっていた。少なくとも、私の小さな世界の中では。でも、彼は誠実にそこに佇んでいて。すごくイケメンだったりオシャレだったりする訳でもない彼の姿だが、卑屈になって曲がっていた私の心の亀裂に優しさをじんわりと染み込ませた。

"待っててくれないかと思った"

メモ帳に書いた文字を彼に見せると、なんで?といったように首を傾げた。そして、自分の耳を少し引っ張り、また首を傾げた。耳、聞こえない?そう取れるジェスチャーに、一つ大きく頷いた。
大きな身体が少し動いて、スッとコンビニの駐車場の隅を指差した。ゆっくり歩き始めた彼の大きな背中の後を追う。車の邪魔にならないような所に、腰を下ろした彼は、ゴソゴソと自分のスポーツバッグを探って、くしゃくしゃになったタオルを引っ張りだし、アスファルトの上に広げた。

ここ、座る

ゆっくりと大きく唇を動かして、私にそこを指差してくれた。ありがとうの会釈をしてから、タオルの上に座った。メモ帳を取り出す。

"いいの?タオル"
彼はうんと頷く。
これ、どうぞというようにコンビニの袋を渡すと、深々と私に向かって頭を下げた。

"こちらこそ、ありがとう。助けてくれて"

貸して、とメモ帳とペンに向けて彼の大きな手が開かれた。その手に私の大切なコミュニケーションツールを乗せると、驚くほど小さく見えた。

"気にしなくていい。飲み物とかも、ありがとう"

意外と綺麗な文字。

"背が高いですね"
"191"
"すごい。バスケとか、バレーとか?"
"バレー"
"強そう"

そう書くと、彼は、ニッと笑った。そっか、強いチームなのか。試合、見てみたいな、そう書くかどうか迷っていると、彼はポケットから携帯を出して、画面を見ている。たぶん、電話が鳴ってる。私にちらりと目を向けたので、どうぞ、とジェスチャー。
ごめん、と頭を下げて、携帯を耳に当てる。聞こえないとは言え、ずっと見ているのも申し訳ない気がして、道路を行き交う車に視線を移した。春の埃っぽい風邪に目を細める。

トントンと隣の彼に肩を叩かれ、振り向く。彼が差し出した携帯の画面には、ごめん、もう行かなきゃ、と。
うんうん、となるべく笑顔を作って、頷く。急いで立って、お尻に敷いてたタオルを畳んで、彼に返し、バイバイと手を振った。

な、ま、え

彼の唇がゆっくり動いて、手が、何かを書く様子を示している。ペンとメモ帳を渡す。

"青根高伸"

あおねたかのぶ。青色のページに書かれたその名前を口の中で反芻する。

"みょうじなまえ

それだけ書いたメモ帳の1ページを破って青根くんに渡した。それをしっかりと握りしめて、ぺこりと頭を下げて、走って行くその後姿が見えなくなるまで見送った。


真っ暗闇だと思っていた世界は、分厚い絶望のカーテンで覆われた私が作り出した小さな部屋でした。
3日後、何故か少し空いている電車の車両で、再び出会った彼が教えてくれる。勇気を出して、カーテンを開ければ、そこには広い世界が待っている事を。

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