※年齢操作有
さっきから同じような事を何度も繰り返す教授の小言を右から左へと受け流して、白を基調とした眩しいくらいの廊下を抜け、外に出た。ふーっと一息つくと、金木犀の香りに包まれた。毎年思うけど、俺はあんまりこの匂い好きじゃない。
ポケットからスマホを出して、時間を確認。待ち合わせにはまだ少し余裕がある。喉乾いたからコーヒーでも買おうかと、3号館のカフェテリアを目指して、一歩進んだ時に聞き慣れない声に足を止められた。
「すみません、5号館ってどこですか?オープンキャンパスの受付に行きたいんですけど…」
「5号館?じゃあ、ここをまっすぐ行って…」
「あっ、堅治くんだ」
「………?」
誰だっけ…?スラリとした身体から伸びる白い手足は細いのに健康的で、顔も結構可愛い。こんなに可愛い感じの子ならさすがの俺でも憶えてると思うけど…。
「あ、忘れてる。なまえだよ」
なまえ…?名前を聞いてもいまいちピンと来ない。1ヶ月前の合コン?一昨日練習試合した大学のバレー部のマネージャーとか?ん?でも、オープンキャンパス?ハテナマークが浮かぶ俺を見て、彼女はくすくすと可笑しそうに笑った。
「喋るのなんて、すっごい久しぶりだもん、憶えてなくて当たり前だよ」
「ごめん、本当にわかんね」
「昔は可愛がってくれたのになー」
昔…?朧げな記憶が目の前の彼女の面影とゆっくり重なっていく。
「なまえって、あのチビっ子のなまえ!?」
「そうだよー!」
「あの泣きベソのガキ!」
パラパラとアルバムをめくるように思い出していく。近所の女の子。大きな犬が怖いとか、花の冠がみんなよりうまく作れないとか、そんな些細なことでべそべそと泣いていたあの子だ。
「…え?てことはお前、今いくつ?」
「17。もうすぐ18歳」
「18ー?あー、なんかすっげえ歳取った気分」
堅治くん、おじさんみたい、と笑うなまえの頭をぐしゃりと撫でると、あ、なんか、懐かしい感じ。よく見りゃ、ふにゃりと笑った顔はあの頃のままだ。
「大学院生なんて、女子高生から見りゃおっさんだよ」
「そんな事…」
「堅治!」
待ち合わせ時間ぴったりに現れた彼女が睨むように俺となまえへ視線を送る。道案内、ありがとう、と言ってなまえは俺の掌の下からするりと抜けた。いや、道案内なんて最後までしてねーだろ。不機嫌そうな彼女の方に、ごめん、すぐ戻る、と言ってなまえの背中を追いかけた。
「おい、ちびっ子、5号館はこっちだぞ」
「え、堅治くん?彼女さん、いいの?」
「いーよ、あとで飯でも奢るから」
はい、こっちですよー、となまえの身体の向きを変える。もう、ちびっ子じゃないもん、とむくれた顔が子供っぽくて、ひどく懐かしい思いを胸に残した。
***
「いや、しかし、よく会うもんだな」
目の前で甘そうなラテを嬉しそうに吸うなまえと会うのはこの3ヶ月ほどで何度目だろうか。駅で、街で、こんな風にコーヒーショップで、顔を合わせる回数が急激に増えたことに、苦笑い。
「なに?お前ストーカー?」
「違っ、たまたまだもん!」
「怒んなよ、わかってるって」
「…今までだって、私は何度も堅治くん見かけたもん」
堅治くん、私に気付かないし、いつも誰かと一緒だったし、とズズッとラテを吸う。いや、気付かないだろ、こんな成長してれば。
「ね、堅治くん憶えてる?堅治くんさ、花冠だけじゃなくて四つ葉のクローバーで指輪も作ってくれたんだよ」
「そんなこともあったかもな」
「今思えばさ、すごく器用な男子高校生だよね」
「まあね、俺、なんでもできるから」
チャラく見えたのにね、とクスクス笑うなまえを、白詰草みたいだ、と思った。私を忘れないで、って、思い出して、って全身で俺に語りかけてくる。
視界の端に待ち合わせをしていた彼女が見えて、正直ホッとした。なまえの細い指に自分の指を絡めてしまいたい衝動を抑える事が出来たから。
「じゃ、俺行くわ」
「あ…うん…」
シュンとした姿に、小さく湧き上がった思いをプツンと摘むように、じゃあな、女子高生、となまえの柔らかい髪をぐしゃっと撫でた。
コーヒーショップの入り口で待っていた彼女は不機嫌を隠す事なく全面に出して俺を睨んでいる。ごめん、ごめん、と何に謝っているのかもわからずに謝罪の言葉だけを述べて、綺麗に整えられた髪に触れた。それだけで治ると思った彼女のご機嫌は俺の予想に反して、さらに不機嫌そうな色を強めた。
その不機嫌さは彼女の家に着いても治ることはなくて、重苦しい空気が片付いた1LDKの部屋に充満している。
「ね、堅治、もう別れよ?」
「は?何で急に?」
「私にとっては急にじゃないよ。最近ずっと、堅治の中にあの子がいるみたいな気がして、もう嫌なの」
「あの子って…なまえ?なまえは女子高生じゃん。そんなこと…」
あるわけない、って言葉を遮るように彼女が言った。すぐに女子高生じゃなくなるじゃん、って。摘み取って捨てたはずの思いが、ふつ、ふつ、と湧き上がる。
「だから、もう出て行って」
彼女の泣き顔に、ごめん、としか言えない自分の不甲斐なさが苦しい。ちゃんと好きで大切にしていると思っていたのにいつの間にかこんなにつらい思いをさせていたのか。玄関のドアを開ける前にもう一度、ごめん、と呟いて、二度と来ることのない部屋を出た。
***
彼女との別れから1ヶ月が過ぎた。なまえには会っていない。なまえに会ってしまいそうな所を避けて過ごしている。別れた彼女に悪いとか、そんなんじゃなくて、ただただ考える事から逃げ続けているだけなんだけど。このまま、一時の気の迷いとしてこの気持ちを片付けてしまいたい、そんな風に思っていたのに…。
「あ、堅治くん!」
「お、おう…」
会っちゃうわけで。駅のホームの雑踏に紛れるように、思わず視線を逸らしてしまった俺の前に回り込んで、どうかしたの?と覗き込む。学校の帰りなのか制服で。平静を装って、子供は早く帰んなさい、と手を振って、タイミング良くホームに入ってきた電車に乗り込もうとする俺の腕を強い力でなまえが引っ張った。
「お、い、何すんだ…」
「もう子供じゃないもん。誕生日が来れば18歳だし、春には大学生になるんだから!」
目の前でプシューと閉まる電車のドア。がらんとしたホームに俺らふたり残されて。なまえに向き直ると涙目で俺を睨んでいる。ああ、もう。ずるずると力無く自分よりも遥かに華奢で小さななまえの肩にもたれかかる。
「け、堅治くん!?」
「もー、本当になんなの?お前…」
「…ごめん、困らせて…」
「…困ってるよ…ガキから急に女の子になって現れて。マジで困ってる」
堅治くん、となまえが俺の身体を包むように抱きしめた。歳下のくせに生意気だ、と思いつつも暖かいその腕を振りほどく事は出来なくて。
「ね、堅治くん、四つ葉のクローバーの花言葉知ってる?」
アメリカだとね、私のものになって、って意味なんだって、と囁いたなまえを思いっきり引き寄せて、うるせえ、クソガキ、と言ってぎゅっと抱きしめた。
「堅治くん、春が待ち遠しいでしょ?」
嬉しそうに笑うなまえのおでこに唇を落とすと、みるみるうちに赤くなって。こいつが制服姿だった事を思い出して、サッと身体を離した。
嬉しそうに、堅治くん、堅治くん、と俺に纏わりつくなまえを引き離しながら、ひとり思う。お前の言う通り、本当に春が待ち遠しいよ、って。
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