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海馬コーポレーションの建物の前で停車した車を降りて、私は磯野さんに言われた通りに最上階へ向かった。
いきなり来いだなんて、何か用事でもあるのだろうか。ドアに向かって控えめにノックを二回する。
「…海馬君、来たよ」
「ユリか。入れ」
失礼します、と呟くように言ってから室内に入る。やっぱり何か業務の途中だったようで、デスクの上にあるパソコンを両手で叩いていた。けれど私がドアを閉めて2.3歩進み出ると、その視線はパソコンの画面から私へと向けられた。
「どうしたの?海馬君。突然来いだなんて…」
「お前に会うために理由がいるのか?」
「…ううん、いらないけど…」
答えにならない答えを述べる海馬君。そのまま片手をついて席から立つと、私の前に歩み寄った。相変わらず射抜くような視線を向けられ、思わず後ろへ退がりたい気持ちに駆られる。
黙ったまま視線を合わせないようにしていると、海馬君は不意に私に尋ねた。
「…おい、それは何だ」
「え?」
「その傷は何だと聞いている」
膝のあたりに注がれる視線。それを見て、私は「ああ」と朝方の出来事を思い出した。
「ちょっと擦りむいちゃったんだ」
「…転んだのか」
「走ってきた男子とぶつかっちゃって…あ、大した事ないから平気だよ」
本当に大した事はないし、数日放っておけばすぐに治る程度の傷だった。だからへらっと笑いかけてみたのだけれど、海馬君はそれに応じてくれない。それどころか、なぜかその表情からは怒りすら感じられた。
「そいつの名を教えろ。今すぐ殺してやる」
「ころ…えぇっ?!」
「オレの所有物に傷を付けた罰だ。当然だろう」
なにかの冗談かと一瞬思ったけど、海馬君の表情にはそんなものは一切混ざっていなかった。まさか本当に殺すとは思えなかったけど、私は海馬君に男子の名前を告げる事はとてもできなかった。
「…」
「だんまりか。ふん、良かろう。力づくでも吐かせてやる」
「え…?か、海馬く…」
長い指で顎をすくい取られて、そのまま奪われるように口付けを落とされる。反射的に海馬君の胸板に手を当てて力を入れてみたけどびくともしない。
それどころかその腕すら海馬君の手で拘束されてしまい、抵抗することができなくなってしまった。
「…っ、ん…!」
音を立てて上唇を何度も食んでいく。それが終わると下唇へと移り、最後にまた覆いかぶさるようにして、角度を変えて何度も口付けを繰り返す。耳に響く水音がいやにリアルで羞恥心を煽られるのを感じる。
海馬君が普段浮かべている、冷徹とすら呼べるその表情からは想像もできないくらいに熱っぽいキスだった。
「…っ」
「…どうだ。話す気になったか」
唇が離れた頃にはすっかり息が上がってしまっていた。海馬君はまだ身体を密着させたまま離そうとはしてくれない。
「…言えない、よ」
「なぜ隠す。お前がそいつを庇いだてする理由などなかろう」
「…っ!」
掴まれている腕にぐっと力が込められた。この細い身体のどこにそんな力があるんだろう、と思うくらいに強い力だ。それは痛みを感じさせるほどで、私は思わず顔を歪めた。
「…こんな、かすり傷ひとつくらい…なんて事ないもの。それに…」
「…」
「…私なんかの事で、海馬君に手を掛けさせるわけにはいかないよ…」
この傷がもっと大きくて深いものであったとしても、私はきっと同じことを言っていたと思う。
自分のことで他の人の手を煩わせるのは嫌だと思った。相手が海馬君であっても、海馬君以外であっても。
海馬君は黙って私の話を聞いていたけど、やがて手の力を緩めて私の腕を解放した。そして私の目をまっすぐに見下ろして言った。
「お前はあの頃から変わらないな…ユリ」
「え…」
「…もういい。帰れ」
静かにそう言って、海馬君は私から顔を背けた。有無を言わせないその口調に言葉を発することができず、私は何も言わずに社長室を後にした。
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