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「な…なに訳の分からない事を言ってるんですか?そんなの真に受けたりしませんよ」
「詳しくは社長から直々に説明がありますので、とりあえずご乗車ください」

どうぞ、と恭しく車の後列の扉を開ける磯野さん。けれど突然そんな意味の分からない事を告げられて、はいそうですかとついていくわけにはいかない。

「…そもそも、誰の許可を取ってこんな事してるんですか?これ以上続けるなら警察を…」
「呼んでいただいても構いませんが、ただの時間のロスになるかと」
「え…?」
「こちらを」

磯野さんは助手席のドアを開けて何かを手に取り、それを広げて私の前に掲げ持った。それは誓約書のようなもので、簡単に言うと私の所有権が本日付けで海馬社長のものになった、というものだった。おまけにその左下には、親戚の名字の印が押してあるのだ。

「な…っ」
「お分りいただけましたね?それではどうぞお乗りください」

驚きのあまり一瞬思考能力が吹き飛びそうになったけれど、すんでのところでとどまった。これがタチの悪い悪戯にしても最悪真実の話だとしても、どちらにせよ一度話を聞くべきだと考えた私は小さく頷いて車に乗り込んだ。


15分ほど走っただろうか。停車したため窓から外を見ると、そこには巨大な海馬コーポレーションのビルが建っているのが見える。

磯野さんに連れられそのままビル内へ入り、エレベーターに乗る。高層ビルは吹き抜けになっていて、そこから見える夕日は私の心とは対照的に美しく燃えていた。

エレベーターは最上階のフロアで停止し、磯野さんと私はそこで降りた。そして廊下を進み一つの大きい扉の前に立つと、磯野さんは「社長、お連れしました」と静かに告げる。ほどなくして「入れ」という声がドア越しに聞こえてきた。

「それではわたくしはここで」
「あ…」

止める間もなく、機敏な動作でその場を立ち去っていってしまった。残された私は意を決して目の前の扉のドアノブに手をやり、「失礼します」と言って部屋の中へと足を踏み入れた。

部屋に入って向かい側に机があり、そこに1人の人物が座っていた。その人は手に持っていた書類らしきものを机の上に置き私を見ると、フ、と不敵な笑みを浮かべた。ー私はこの人を知っている。

「…海馬、君…」
「久しぶりだな、ユリ」

知っている、というのは少し間違った表現かもしれない。彼のことはこの童実町全ての人が当たり前に認知しているし、むしろ知らないと言ったら一体この町でどんな生活を送ってきたんだと問いたくなるくらい、圧倒的な存在だ。

私の場合は知っている、というよりは顔見知り、という事になると思う。なぜなら私と海馬君は、かつて同じ養護施設にいたからだ。

「顔を合わせるのはあの時以来か」
「…」

あの時というのは、海馬君が養子として引き取られた日、その背中を見送った時の事だろう。テレビや新聞などで彼の姿を見かけることはよくあっても、実際にこうして顔を合わせて言葉を交わすのはあの時以来だった。

「…ほんとに久しぶりだね。けど今は再会を喜んでる場合じゃない。…どういう事なの、これって」
「どういう事も何も、磯野から話は聞いているだろう。オレはお前の人生を金で買った。ただそれだけだ」
「そ、それだけ…って…」

驚く事に、海馬君は表情一つ変えない。まるで近くのコンビニか何かでパンを一つ買ってきました、とでもいうような話ぶりだった。

「お前の親戚も了承済みだ」
「…!」
「誓約書の印を見ただろう。人間というものは金でどうにでも動くという事だ。親戚がいい例になったな」

嘲笑うと、海馬君は立ち上がって私の方へとゆっくり歩いてきた。もういっそこの部屋を出て走り去ってしまいたい気持ちに一瞬駆られたけど、その捕えるような、射るような眼差しを前にして動くことができなかった。
そして目の前に来た海馬君は私の後ろにあるドアに手を付き、上から私を見下ろして言った。

「今日からお前はオレの物だ。ユリ」

静かなこの空間の中に海馬君の低い声が響く。その瞳の奥に何があるのか、読み取ることは全くできなかった。

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