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ややあって、小さな音を立てて海馬君の唇は離れていった。それでもまだ近い距離にいるので緊張が収まらない。

「もう遅い。あとで風呂の場所を案内させる。何か必要なものがあればオレに言え」

黙って小さく頷くと、海馬君は一度目を閉じてそっと私から離れていった。そして最後に私を一瞥し、なにも言わずに部屋を出て行った。


着替えなどの衣類は、アパートにあったものがクローゼットにそのまま収納されているのを見つけたので、そこから部屋着に着替えた。
そして少し後に案内に来てくれたメイドさんにしたがってお風呂に入ったあと部屋に戻った。


天蓋付きのベッドに仰向けになるも、気持ちは一向に落ち着いてくれない。
どうしてあんなに、熱がこもった視線で私を見るんだろう。そして突然キスをされたことにも驚いた。まだ感触が残っている。私は指先で唇に触れた。
もちろんその日の夜はほとんど眠ることができず、そのまま朝を迎える事になった。



制服に着替えていると、ノックの音が静かに響いて、「朝食の準備が整いました」と滑らかな声がドア越しに聞こえてきた。昨日と同じ部屋に案内をされると、テーブルの上には1人分の食事が用意されていた。

「あの、海馬君やモクバ君は…」
「お二人とも、もうお仕事に出かけられました。今日は遅くなると伺っております」
「そうですか…」

室内に差し込む朝日がテーブルを照らしている。昨日とは違って私一人しかついていないこの席に、少しの物悲しさを感じながらフォークを手に取った。


その日、学校を終えてから私はまず、いつものバイト先へ向かった。個人店の小さな喫茶店で働かせてもらっていて、高校入学当初からお世話になっている。
ドアを開けると軽快な鈴の音が響いて、カウンターの内側にいたマスターが顔を上げた。

「ユリちゃん!」
「マスター、おはようございます。今日もよろしくお願いします」

そう言って奥に向かおうとしたのだけれど、ちょっと待って、と引き止められた。

「どうしたの。昨日限りで辞める事になったって聞いたよ」
「えっと…え?」
「海馬コーポレーションの社員の人がここに来てね。ユリちゃんはもう働く必要がなくなったからって」
「……」

まさかここにまで手を回していたのか、と驚愕する。というか本人の意向なんてまるで無視じゃないか。
お金で買われました、なんて詳しい話をマスターにするのは気が引けてしまったので、私は「そうでした、失礼しました」と言ってそそくさと喫茶店を後にした。


夕日が照らす道の中を歩く。そのままアパートへ向かってみたけれど、海馬君が言っていた通り私の部屋には「空き家」の張り紙がしてあって、虚しい気持ちに襲われた。つい昨日までここに住んでいたというのに、人の人生というのはここまで劇的に変化してしまうものなのか。

「…帰ろう」

今まで帰る対象はここだった。けれど今日から、私の帰る場所は海馬君の住むあの家なのだ。なんともいえない複雑な気持ちを抱えながらも、私は歩き出した。

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