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その日の夜は一人で夕食をいただいた。給仕の人が言っていた通り今日の帰りは遅くなるらしい。
今日、というよりも、普段から彼らはとても忙しくしているんだろうなと思う。そう考えると、昨日3人でテーブルについたという事実はこれから先、なかなか貴重になってくるのではないだろうか。

「(…昨日は私のために、仕事を切り上げてくれたんだもんね)」

確かに理不尽極まりない事をされているし、常識では考えられないような事を海馬君はしてる。けど、昨日のように優しさが垣間見えたのもまた事実だ。

与えられた部屋の明かりを消してベッドに潜り込む。昨日はほぼ眠れなかったため身体が疲れ切っていた。横になって目を閉じて呼吸を繰り返せば、あとはゆるやかに眠りに引き込まれていくだけだった。




『ホントに兄サマはチェスが強いなー!』

モクバ君の声。机の上にはチェスの盤と駒が並べられていて、向かい側に海馬君が座っている。ふたりともまだ幼い。これは養護施設の時代の夢だ、とぼんやりと思った。

『勝つためにはコツがあるんだよ。ホラ、たとえばここでこうして…』

海馬君のチェス指導に、モクバ君は熱心な顔をして頷いている。次の一手を指導するためにチェスの駒に手を伸ばした、その時だった。

『、おっと』

海馬君の手の甲がチェスの駒をはじいてしまい、それが床に落ちてこちらに転がってきた。私は屈んでそれを拾い上げて、海馬君の元へと運んでいく。

『はい!これ』
『…あ、ありがとう…。ええと』
『私?ユリだよ』
『…ユリ…』

そう言ってにっこりと微笑む。思えばあれが初めて海馬君と会話を交わした瞬間だった。



少しだけ意識が浮上したのを感じる。けれど脳はまだまだ眠りたいと訴えていて、それに従う身体は目を覚ますことを拒むかのように動かない。

薄い膜に包まれているような錯覚を覚える。そしてその膜の外側から、微かに何かが聞こえてくる。カチャ、という軽い音のあと、コツコツとこちらに足音が近づいてくるのがぼんやりと分かる。そして少しの間のあと、私の頬に何かが触れた。これはきっと誰かの指先だ、と思った。

そして最後に額に柔らかい何かが触れたあと、足音はまた静かに遠ざかっていった。



「…」

カーテンの隙間から差し込む朝日で、私は目を覚ました。ベッドの上で上体を起こして、膝を抱えて昨日見た夢を思い返す。
忘れていたはずの施設時代の夢。海馬君と再会したせいで、奥底に眠っていた記憶が呼び起こされたのだろうか。

「海馬君は…覚えてるのかな」

初めて会話した時のこと。施設で交わした言葉の数。…さすがに10年近くも前のことだし忘れているだろう。

夢の中のあどけない表情の海馬君と、今現在の鋭い目をした海馬君の表情が重なって滲んでいく。そしてなぜか不意に、先日キスされた事を思い出した。

ーどうしてあんな事をしたんだろう。
逸らすことを決して許さない、というようなあの視線。思い出すだけで胸がぎゅっと締め付けられ、私は白い清潔なシーツを軽く握りしめた。

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