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今日も帰りは遅くなった。そもそも早い時間に退社する事などあまりないし、その理由も特になかったから別に構わなかった。今までは。

けど今は話が別だ。この家に帰ればあいつがー、ユリがいるのだと思うと、業務をさっさと片付けて帰路に着きたい気持ちに襲われる。もちろん仕事は常に完璧にこなすべきであるから妥協は一切しないし、膨大な業務とトップに君臨する身としてそれは中々難しいが。



軽く頭を下げる使用人たちを横目に、ユリに与えた部屋へと向かう。もう零時をとっくに過ぎているしすでに眠っているだろう。一応軽くノックを2回ほどしてみたがやはり返事はない。

ドアノブをひねって扉を開けると、薄暗い空間の中に静寂が広がっていた。目が慣れるのに少し時間を要したが、ベッドの上で眠るユリの姿を見つけて静かにそこへ向かう。
近づいてみると、規則的な寝息が耳に入ってきた。とても安らかに眠っているようだ。

その寝顔を見てざわりと心が音を立てる。今すぐにでも唇を奪って、余すところなくその身体に触れたいという欲望が己を襲った。すんでのところでとどまったが。

そっと手を伸ばしてその頬に指先で触れる。すると微かに身じろいだが、起きる気配はないようだった。



ーお前は知らないだろう、ユリ。

『私?ユリだよ』
『ユリ…』

オレが落としたチェスの駒を拾って差し出してきたあの瞬間。オレはお前に魅入られた。
ふわりとした花のような空気をまとい、邪気のかけらも感じられない笑顔を浮かべているユリ。心が溶かされていくような気がした。その日からオレはユリを意識するようになった。


少し離れたところから見ていて次第に分かっていったこと。彼女は「寂しさ」を押し殺して生きていた。そして決して他人を頼ろうとしない。それが強さだと信じている、と思わせるような素振りがあった。

普段はほとんど笑顔で過ごしていた彼女だが、時折その横顔に憂いが浮かんでいるのに気づいた。彼女の友達から聞いたことだが、両親はすでに他界しているらしい。けどそんな寂しさもひた隠しにして生きているのだろうと思った。


一度だけ問いかけた事がある。

『ねぇ、君はどうしていつも笑っているの?寂しくはないの?』

と。ユリは少しの間黙ってオレを見ていたが、やがてこう言った。

『…寂しくない。だって笑っているところ、きっとお父さんもお母さんも見ていてくれてると思うから』
『…そう、なんだ』

少しでも触れれば壊れてしまいそうな表情。
ー守りたいと思った。
いや、守らなければと思った。

どうかしていたと言われればそれまでだが、オレはあの時、必ずユリを迎えに行くと自分の中で決意を固めたのだ。



『元気でね、海馬君』
『うん。ユリも』

養子に迎えられることが決定して施設を出て行くことになった日、見送るユリの目には僅かに羨望が浮かんでいたのがわかった。もちろん本人はそんな事を口にすることはなかったが。

あれから何年が過ぎようとも、オレはお前を忘れた事はなかった。ようやくこうして手に入れる事ができたのだ。逃がしてやるつもりなど毛頭ない。


オレがお前を誰よりも愛する。寂しいと感じるような余裕もないくらいに、オレという存在でお前の中を満たしてやる。

小さな寝息を立てるユリの表情を見下ろして、体を屈める。そしてその前髪を軽く払い、そこに唇を落とした。

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