始まるシャンパン・ロ・ランジュの関係
少し急ぎ足で人混みを掻き分ける百合は時間を気にしつつも、目的地に向かっていた。
こんなに急いでいるのには理由があった。
社会人で会社勤めなら、仕方がない理由だ。
終業時間前になって、百合の仕事の残量を見た上司が、部下である百合に自分の仕事を押し付けたのだ。
仕事が終わってから、人と会う約束をしていた百合は、絶望感に見舞われたが、上司から頼まれた仕事だ。
嫌、とも言えず、半分泣きそうになりながらも、その押し付けられた仕事に取り掛かった。
だが、その仕事を終えたのは、終業時間から一時間ほど経ってから。
急いで身支度を整え、会社を出てからは、ヒールの音を響かせながら、待ち合わせ場所へと向かった。
上司に押し付けられた仕事とは言え、遅刻は遅刻だ。
相手に遅刻する旨をメールで伝え、相手からは、気にするな、とは言われたが、待ち合わせ時間の10分前には待ち合わせ場所に着いている百合には、十分に焦り、落ち込む要因になっていた。
おまけに待ち合わせの相手は久し振りに会う相手。
申し訳ない気持ちで、背後にどんよりとした空気を背負いながら、細くシンプルな腕時計に目を落としつつ、速度は緩む事はせず、足を動かしていた。
急いだ事もあったからか、予想した時間より早めに目的地に着いた百合は、ここ数か月で随分と見慣れた暗い色のウッドドアを開けると、待ち合わせの相手は既にそこに居た。
退屈そうにロックグラスを傾け、口に付けている相手は、随分と様になっていて、百合は一瞬、動きが止まった。
だが、ウッドドアが開くのと同時に、ドアに取り付けられていたベルがからん、からん、と音が鳴り、ドアの方を見た相手は、百合の姿を捕えると、クイ、と顎で自分の隣の椅子を指した。
それは、百合に早く隣に来い、と、言っているようで、百合は荒い息も整えないまま、足早に隣へと行き、隣の椅子へと腰を下ろした。
「す、すみません…!遅くなりましたっ……!!」
ぜえ、はあ、と、乱れた呼吸のまま、そう言った百合に相手は、その小さな背中を擦り、奥に置いてあった水の入ったグラスを彼女へと差し出した。
「落ち着いて、これを飲め」
そう言った相手に百合は、こくん、と頷き、グラスを手に取ると、ゴクゴクと半分ほど飲み干し、ことん、とグラスをテーブルの上へと置いた。
「仕事も終わりそうで、少しずつ帰る準備をしていたら仕事、押し付けられてしまって……」
息も整い、やっとの思いで残業理由を話した百合に相手は、哀れみの視線を向けると、百合の頭を労わるように撫でた。
百合を心配するかのように顔を傾け、百合の顔を見詰める相手のサラリとした襟足が揺れ、相手は鬱陶しそうにその髪を払い退けた。
百合が今会っている相手は、数か月前、この待ち合わせ場所であるバーで出逢った、褐色肌の男だった。
百合も、男も。
その日限りの関係だと思っていた。
だが、偶然にもその数日後。
百合が何の気なしに立ち寄ったこのバーで偶然、再会したのだ。
まさか、また会えるとは思っていなかった百合は、あの時の礼を言い、再び酒の力も借りて、百合なりにあの時の言い訳を並べ。
余りにも百合の必死な姿に、男は気まぐれに紙のコースターに自分の連絡先と名前を書き、それを百合へと渡した事が切っ掛けで、メールでの遣り取りが始まったのだ。
お互いに仕事が忙しい時期に入ってしまい、メールでの遣り取りだけだったが、百合や男の仕事が落ち着いた事もあり、今日会う事になったのだ。
だが、今日に限って、仕事を押し付けられてしまった。
残業する事が決まってしまい、直ぐ様、男に遅刻する旨を伝え、それからは必死に指を動かし仕事を片付け、急いでこのバーへと向かった。
一方待たされた男だったが、別に怒ってなど居なかった。
こんな急な仕事、OLなら日常的に有り得る話しだし、自分も早く帰りたい時に限って仕事を押し付けられたりするからだ。
男がここ数か月、百合とメールのやり取りをしていてみて分かった事は、根が真面目で断れない性格だと云う事。
それにこれは、百合の欠点でもあるが、押しに非常に弱い事だった。
話しを聞いてみれば、例の元恋人と付き合う切っ掛けになったのは、元恋人から百合に言い寄ったからだった。
百合も最初は律儀に断っていたらしいのだが、その押しの強さに、負けて付き合うようになったらしく、あの時負けずに断っていたら…、と、後悔交じりに男にそう言った。
その時、男は百合にこう言った。
「自分を安売りするような事は、これから先、絶対にするな」
との、キツイとも取れる言葉だった。
余り他人と関わりを持たない男がどうして百合にそう言ったのか。
どうして百合にここまで肩入れするのか。
それは、百合が放っておけないからだった。
男は女と云う生き物が苦手の域を通り越して、嫌いだった。
男が何で女が嫌いになった、その原因は、男が小学生にまで遡り、今思えばくだらないものだった。
男が小学生の頃、男にしょっちゅう話しかけてくる少女がいたのだが、男は相手にしなかった。
それでも、その時期の女の子は気になる男子には周りが見えなくなり、自分の思うままに行動する。
そんな少女にうんざりしていた時に少女の友人たちが男に“あの子の事、どう思う?”と聞いたのだ。
その問いかけに男は正直に答えてしまった。
“子犬みたいにキャンキャン煩い”と。
すると、どうした事か。
次の瞬間、物凄い目付きで睨まれ、その日から女の陰口が始まり、ある事ない事言い触らされ、自分と同じ男子にまでからかわれるハメになったのだ。
今だと別段気にしないが、当時はまだ小学生で傷付いた。
それが切っ掛けで女嫌いになり、恋愛対象が男になった。
百合も男の嫌いな女だが、不思議と嫌悪感はなく、寧ろ放っておけない、擁護対象に近い感情を持つようになった。
会うのはこれで三回目だし、百合の事はメールでしか知らないが、好感の持てる事は確かだった。
まあ、憎めないのは確かだ。
それと同時に男の中で首を傾げたくなる現象が起こっていた。
百合の事を放っておけないのは初めて会った時からだ。
だから、あの時、別れ際にハンカチを渡した。
だが、その放っておけない感情が段々と近くなっていき、近くで見守らなければ、と、思う様になってきたのだ。
捨てられた子犬を連想してしまったが最後、意外にも小動物が好きな男には避けられない感情でもあった。
そんな事を考えていた男だったが、ぐう、と腹が音を立てた。
そう言えば何も食べてなかった、と思い出した男は口を開いた。
「食事はどうする」
男がそう訊ねると、百合はうーん、と真剣に考え始めた。
それを見た男は、しまった、と思ったが、何を言えばいいのか分からず、再び口を閉ざした。
もう少し百合に選択しを与えてから訊ねれば良かった。
自分が口下手な事を申し訳ないと思いつつも、そんな自分を恨むしかなかった。
「……、あ、牛丼はどうですか?」
考え込んでいた百合が口を開き、そう言った。
そう言えば、先日、無性に牛丼が食べたくなった事を百合に何気なくメールで言った事を思い出し、男は何とも言えない感情に襲われた。
気恥ずかしいような、嬉しいような。
そんな、複雑な感情だった。
それを隠すように男は立ち上がり、それに気付いた百合も立ち上がると先を歩く彼の後を付いてバーから出ると、牛丼屋を探す事にした。
見付けようとして探すと意外と見つからないものだが、目当ての牛丼屋は近くにあり、意外にもバーの近くだった。
その牛丼屋に入ると空いてる席に座り、牛丼を頼んだ。
男は余程腹を空かせていたのか、牛丼の特盛を注文した上、そこに豚汁やらサイドメニューを数品注文し、その量に百合は目を丸くし驚いた。
元恋人も、知っている男友達も、これ程は食べないからだった。
その元恋人も百合からしてみれば沢山食べていたような記憶はあるが、それを遥かに超える男の食事量に驚くのも無理はなかった。
注文したものを完食し、満腹になった二人は、牛丼屋を出た。
だが、時間もまだ早い事もあり、バーへと再び戻る事にした。
特に会話もない二人だったが、苦痛に感じる事はなく、リラックス出来ている事に心地よさも感じていた。
バーに着いてから注文したのは、男はスコッチ、百合はお気に入りのストロベリーコラーダ。
時々、思い出したように会話をし、また無言になり、その間は店内に流れているジャズの音楽が流れるだけ。
そんな事を繰り返していると、気付けば、結構夜も更けてきた。
お互い、何の気なしに目に遣った腕時計を見て、あっという間に過ぎた時間に驚いた。
電車の時間もあるし、次の注文で最後かもしれない。
男はバーボンとスコッチを交互に飲んでいたが、ふと、百合に酒を贈りたくなった。
手元にあった紙のコースターを手にし、胸ポケットからボールペンを取り出すと、何かを書き始めた。
スラスラと迷うことなく書く男の様子を横目で見た百合は、文字を書くその様子すら様になって男にイケメンとは罪深いものだ、と、ぼんやりと思った。
書き終わった男は、バーテンにそれを渡すと、バーテンは承知した、と言わんばかりに笑みを浮かべ、何やら作り出した。
そのバーテンが作り始めたのを確認すると、男は帰り支度を始めた。
その様子に百合は首を傾げ、何で注文したのだろう、と疑問に思ったのは、当然な事だった。
そんな百合に男は気が付き、次の瞬間、甘く蕩けるような笑みを浮かべ、その笑みに百合の心臓はドクン、と騒いだ。
どうして。
どうして、こんな笑みを浮かべるのだ。
甘く、心を許したような。
愛おしい者に向けるような笑みをどうして自分に向けるのだ。
百合は混乱した。
男と自分はそんな関係じゃない筈だ。
相談を訊いてもらって、お互いに些細な愚痴を言い合う関係ではないか。
なんで。どうして。
そんな混乱している百合を余所に男は、もう一度笑みを浮かべると、百合の頬のその骨ばった指を這わせ、その大きな掌で百合の頬を包むと、ゆっくりと顔を近付けた。
スローモーションのようにゆっくりと感じたのだが、百合は避ける事も拒否する事も出来なかった。
男に魅入られたように動く事が出来なかった百合。
次の瞬間には、男の柔らかな唇が、百合のぷっくりとした唇に押し当てられ、ちゅ、ちゅ、と小さな口付けを贈られ、そのぷっくりとした感触を堪能するかのようにふにふにと食んだ男は、最後にちゅう、と吸い付き離れた。
見るからに混乱している百合。
目をパチパチさせ、何が起こったのか分かっていない百合に男はおかしそうに浮かべた。
「ひ、ろ……、光、さん…?」
何かを言いたいらしいが、混乱の余り、言葉にできない百合に追い打ちをかけるように、男はイヤラしく唇を舐めた。
それを見た百合は、その意味を何となく悟り、ぼんっ、と音が出そうなぐらい顔を真っ赤に染めた。
そんな時だった。
まるで空気を読んでいたかのようなタイミングで、バーテンが先程、男が注文した酒がテーブルに置かれた。
それを確認すると男は立ち上がり、百合の頭を優しく数回撫でた。
「また、な」
そう言い残すと一人、バーから出て行ってしまった。
目を白黒させ、現状を把握出来ていない百合にバーテンが紙のコースターを渡した。
その紙のコースターは、先程、男が何かを書いていたコースターでそれにはやはり何かが書かれていた。
それを見た百合は見事に石のように固まってしまった。
“このカクテルの名前はシャンパン・ロ・ランジュ。別名をミモザ。俺はお前とこうなりたい”
男性にしては、綺麗に書かれた角張った文字。
コースターには、こう書かれていた。
今出された酒がシャンパン・ロ・ランジュ、と云う名前なのは分かった。
そして、その別名がミモザ、と云う事も分かった。
その別名のミモザが植物の名前だと云う事も分かったが、生憎、花言葉には詳しくなく、一体何の意味があるのだろうか、と、考えていた百合。
そんな百合を見かねてか、意味が分かっていたらしいバーテンが口を開いた。
「ミモザ、が、花の名前なのはご存知ですか?」
「……、ぁ、はい」
「調べてみては如何でしょう?そうすれば、あのお客様の言いたい事がお分かりになるかと」
にっこり、と。
相変わらずな営業スマイルでそう言ったバーテンに百合は、言われるままに携帯を取り出し、ネットを立ち上げると、検索バーにミモザ、と入力して調べた。
そして、その数秒後。
百合の顔は本日二回目となる、茹蛸へと変身した。