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「三つの月の神が、お前に与えられないものなどあろうか?いや、ないだろう。欲しいものがあるのなら、私を頼ればいい」
ナマエは目を見開いた。
空に向けた言葉だということくらいはわかっている。この暗闇に来てから博士はずっと空に向かって喋り続けていて、ナマエはその半歩後ろで空の背中を眺めているだけだったのだ。
人と人との間にあるのは相互利益にほかならない、モラルも志も尊敬も関係を美化するための言葉に過ぎない、だからお前とも利益の上で関係を結びたい。そういう話を博士は延々と空にしていて、空は一つも頷かなかった。
その流れで出てきた一言だった。三つの月の神に与えられないものはない、欲しいものがあるなら私を頼れ、と。
わかっているのに、ナマエの頭はその言葉を勝手に別の形に組み替えていた。欲しいものはなんでも用意できると、この人は言った。
それなら、欲しいものがこの人そのものだったら、くれるということになるのではないか。馬鹿なことを考えているのは自分でもわかっていたが、一度そう思ってしまうと止まらなかった。
ナマエは博士から目を離せなくなって、息をするのも忘れてただ見ていた。
「ふむ、旅人は納得していなくともお前の相方は欲しいものがあるようだな。言ってみるといい」
博士がナマエを見ていた。いつから見られていたのかはわからない。
言ってみるといい、というその言い方に、前にも似たことを言われたのを思い出した。スメールの、雨の日の軒下だ。
あのときも答えられなかった。
「ナマエ?」
空が振り返った。その顔を、ナマエはたぶん一生忘れないと思う。
焦りと怪訝が半々に混ざった顔で、博士がこれまで何をしてきたか忘れたわけでもあるまいに、なぜそこで心が揺れるんだと目が言っていた。なぜと言われてもナマエにもわからなかったし、わからないから答えられるはずもない。
「……別に、何も」
声が小さくなった。博士はふむと喉を鳴らしただけで、それ以上は追ってこなかった。
追わない代わりに、仮面の奥でナマエを見たままだった。
そこへ空の手が伸びてきて、ナマエの手首を強く掴んだ。
「嘘つきの狂人なんかと、取引するわけない」
博士に向けた言葉だったが、掴んだ手はナマエに向いていた。ナマエを博士から引き剥がすように、空は一歩前に出た。
この暗闇に来てから、まだ一刻も経っていないはずだった。戦いの最中に空に突き飛ばされ、逃げろと言われて頷いたのに、気づけばここにいて、少し遅れて空が放り込まれてきた。
空は幻のナシャタウンを見せられてきたのだと言った。カーチャの店にいるはずのない旦那と娘がいて、俺と菓子を食べたことになってた、と早口でまくしたてて、偽物だ、と言い切った。
頭上には博士が「三つの月」と呼ぶ光が浮かんでいる。本物の月髄が二つと人造のものが一つだそうで、それが明るいのか暗いのか、ナマエにはまだ判断がつかなかった。
「そこまで非難されるとは……ふむ。昔の私なら、腹を立てていたかもしれんな。過去の私は未熟だった。些細な挫折に落ち込み、苛立ちを覚えることもあった。だが今は違う。裕福な者が貧しい者と争うことがないように、私もそんなことで思い悩むことがなくなった。“降臨者”よ――“世界”を見せてやろう」
博士が歩き出したので、空はナマエの手首を掴んだままついていった。ついていかないという選択肢は、この空間にはなさそうだった。
歩きながらも博士は喋り続けた。四大執政の話、公平の話、ルールを定めたのは誰かという話。
途中で博士が造ったらしい何かが襲ってきて、空はナマエの手首を離して剣を抜き、片づくとまた掴んだ。博士はその間一度も振り返らなかった。
空が負けるとは思っていないのだろう。この人は空のことをよく知っている。
「欠陥だらけだった私の断片を、神の心と交換したことは賢い選択だった。磨き上げられた悪こそが、真の求道者となり得る」
断片。欠陥。
あの軒下の人は欠陥だったということか。ナマエは手首を掴まれたまま、その言葉を飲み込もうとして飲み込めず、かといって吐き出す場所もなかった。
「これまでに数多くの面白いものを作り上げてきた。人造月髄もその一つだ。コロンビーナの生まれ持った特別さなど、替えの利かないものではない」
「黙れっ!君のせいでコロンビーナは消えてしまったんだ!」
手首を掴む力が強くなって、正直痛かったが、言わなかった。
「お前の旅の最終目標は知っているぞ。血縁者が歩んだ道を辿り、旅の終点で彼女から答えを得るのだろう?」
「君みたいなやつに、誰かを想う気持ちなんて理解できるわけない」
「理解できないからといって、助けられないとは限らないではないか。例えば――今すぐお前の妹をここに連れてきて、目の前で答えを聞かせてやることもできる」
手首を掴む力が、今度は別の変わり方をした。強くなったのでも弱くなったのでもなく、ただ揺れたのだ。
「ふざけるな。君なんかに、俺と蛍のことは永遠に分かりっこない!」
「誤解があるようだな。私は三つの月の力を持つがゆえに、それを約束できるのだよ。私は親切だからな。実験に協力さえすれば、その見返りとしてあらゆる無意味な抗いと旅を終わらせてやる」
空は答えなかった。
横から空の顔を見ると、怒っている顔ではなくなっていた。怒っていたのは少し前までで、今は何かを見ている顔をしている。
ここにはいない誰かを見ている顔だ。
蛍。空が探し続けている人で、ナマエは会ったことがないけれど、空がその名前を口にするときの声なら知っていた。
今の空の顔は、その声と同じ色をしていた。
この人は空の欲しいものを正確に言い当てて、それをくれると言った。空はそれを跳ね除けて、跳ね除けたくせに、それでも今黙っている。
同じだ、とナマエは思った。欲しいものをこの人に差し出されて、欲しくないふりをして、ふりをしたまま目が離せない。
空と自分は今、同じ場所に立っている。違うのは、空の欲しいものが蛍で、自分の欲しいものが――と、そこまで考えてやめた。
手首を掴む空の手が温かくて、それ以上考えるのが申し訳なかった。
博士が足を止めた。
「ふむ、話し足りんが……ここは少々殺風景だな。場所を移そう」
また暗闇が揺れた。
***
空が止まったのは、夜のナシャタウンの幻の中だった。
博士が「お前の冒険の始まりに相応しい場所を考えていただけだ」などと言い出して、空がそれを突っぱねて、いつもの押し問答になりかけていたときのことだ。博士がふと言葉を切った。
「ん?」
「何を……」
「――!?」
空が声を上げた。ナマエには何が起きたのかわからなかったが、空の顔から血の気が引くのと、空間の端がぐにゃりと歪むのが同時だったことだけはわかった。
「何をするつもりだ!」
「動くな」
博士の声は低かった。空に向けたものではなく、もっと遠くの何かに向けた声だとナマエは思った。
「異物がいるようだ……ほう?逃げ足が速い」
博士が片手を上げる。たったそれだけで歪んでいた空間の端が元に戻り、ナシャタウンの幻が消えて、見慣れた暗闇が戻ってきた。
そして空の目が閉じた。眠るようにではなく、落ちるように閉じて、立ち上がりかけた姿勢のまま空は動かなくなった。
倒れもしないので、ナマエは最初、博士が空を石にでも変えたのかと思った。
「空?」
返事はない。駆け寄って肩を掴むと、温かいし、掴んだ肩にはちゃんと力も入っている。
生きているのに動かないのだ。もう一度名前を呼んで揺すったら、揺すった手に返ってきたのは水の中でものを押したときのような妙に粘ついた重さで、ぞっとして手を離した。
「無駄だ。時間の厚みが違う」
背後から声がして振り向くと、博士がいつの間にか斜め後ろに立っていた。
「なに、三つの月の力の制御を誤っただけだ」
博士は空の顔を覗き込み、ふむ、と喉を鳴らした。
「そのせいで、旅人は一ヶ月ほど目を覚まさんだろう」
一ヶ月。あまりにあっさり言われたので、ナマエはすぐには飲み込めなかった。
誤った、とこの男は言った。自分の失敗を失敗と認めるのを初めて聞いた気がするのに、悪びれた様子は欠片もなく、天気の話でもするような調子だった。
博士は空から目を離して、今度はナマエを見た。
「お前は動けるのだな」
当たり前のことを、わざわざ確かめるように言う。
「同じ空間にいて、同じ術の中にいた。お前も止めるつもりではあったのだが」
「なぜ?」
「お前は私との会話を望んでいそうだったからな。旅人と違って、建設的な話ができそうだ」
博士はそれ以上言わずに暗闇の向こうへ消えた。来るときも去るときも足音がしない。
残されたナマエは、立ち上がりかけた姿勢のままの空の隣に座り込んで、そういえば最後に食べたのはいつだったかと考えかけて、やめた。
二日目、と後になってから数えることになる日は、ほとんど何もしなかった。
空の姿勢が少しだけ変わっていた。立ち上がりかけていた膝が落ちて、座り直すような形になっている。
目を離した隙に動いたのではなく、ずっと見ていたのに気づいたら変わっていたのだから、そのくらい遅いということだ。
胸の上下もよくよく見ればわかる。空は眠っているのではなく、ただとても遅く生きているだけだった。
頭上の「三つの月」が暗くなったり明るくなったりしていることに気づいたのも、この日だった。明るくなると博士が来て、暗い間は来ない。
まだ二度しか確かめていないが、この男にも都合というものがあるらしい。
来ても大したことはしなかった。空の前に立って、顎に手を当てて、しばらく眺めて、何事か呟いて、帰る。
この日、博士はナマエに一言もかけなかったし、ナマエも何も言わなかった。この空間には空腹も眠気もほとんど来ないので、何かを求める理由もなかったのだ。少なくとも、ナマエはそう自分に説明した。
三日目に、数え始めた。
理由は単純で、博士が空に向かって独り言のように「三日だ」と言ったからだ。それで初めて、ああ三日経っていたのかと知って、知ってしまったら数えないわけにはいかなくなった。
その日、博士は珍しくナマエのほうを長く見た。
「話さんのだな」
「……何をですか」
「会話を望んでいる、と言ったのは私だが。三日、お前は一言も話さん。見込み違いだったか」
責める口調ではなく、観察結果を読み上げるような声だった。ナマエは少し考えてから首を振った。
「違いません。……何を話せばいいか、わからないだけです」
「ふむ」
博士はしばらくナマエを眺めてから、空に目を戻した。
「では、話せるようになるまで待つとしよう。急ぐことではない」
ナマエは返事をしないで、かわりに仮面の奥を窺うように博士を見た。この男が何を考えているのか少しでも読めないかと思ったのだが、読めなかった。
嘘だとは思わなかった。この男は嘘をつかない。そのくらいはナマエにもわかっているが、本当のことを全部言う男でもないこともわかっている。
会話を望んでいそうだったから。きっとそれは本当で、そしてそれだけではなくて、それだけではない部分を博士は言う気がないし、ナマエも聞く気がなかった。
博士が帰ったあと、ナマエは空の隣に座り直して、座ったままの空の袖をなんとなく掴んだ。掴んだところで空の時間に入れるわけではないことは博士の言い方からしてわかっていたが、それでも袖は温かかったので離さなかった。
あと何日だろう、と初めて思った。思ってしまったので、ナマエはそれから毎日数えることになった。
***
空が目を閉じてから、七日が経った。
もっとも、それはナマエが勝手に数えている日数だ。この場所には太陽がなく、博士が「三つの月」と呼ぶ光が頭上の暗闇に浮かんで明るくなったり暗くなったりするだけなので、数え始めたのも三日目からだった。
それでも博士が口にする日数とは合っているので、たぶん間違ってはいない。
空は座ったまま目を閉じている。倒れているわけではないし寝息もないが、胸はちゃんと上下していて、ただその動きがじっと見ていないとわからないくらいに遅い。
初日には何度も名前を呼んで肩を揺すったが、返ってきたのは水の中でものを押したときのような妙に粘ついた重さだけだった。
「無駄だ。時間の厚みが違う」
あのとき背後からそう言った男は、今日もまた音もなくナマエの斜め後ろに立っていた。気配がないのはいつものことなので、もう驚かなくなった。
慣れというのは恐ろしい。
「七日だ」
博士はナマエにではなく空に向かって言う。
「あと三週間余り、といったところか。ここからは予定通りに進むだろう」
ナマエは返事をしなかった。博士も返事を求めてはいない。
この男は観察の途中で声に出して考える癖があって、言葉がこちらに向いていても問いではないのだと、この七日間でそれだけは覚えた。だから次の言葉が自分に向けられていると気づくのに、少し時間がかかった。
「お前は、何も求めないな」
振り向くと博士はナマエを見ていた。仮面の奥の目は見えないのに、見られていることだけはわかる。
「食事も、灯りも、説明も。私がここへ来るたびお前は何も言わない。旅人の容態を聞くこともしない。実に効率的だ。……あるいは、実に不自然だ」
博士は空の前に回り込んで、閉じたままのまぶたを覗き込んだ。品定めするように顎へ手を伸ばしかけて、やめる。
「旅人は私の言葉を否定するが、私の話を最後まで聞く。聞く耳があるのなら、相互利益について話す余地はある。目を覚ましたら、続きを聞かせてやろう。だがお前は黙る。黙っているだけのお前を観察しても、面白みがない」
それは悪かったですね、と口の中だけで返した。声に出したところで博士の機嫌が変わるわけでもないし、空が起きるわけでもない。
博士がこちらに向き直った。
「欲しいものがあるのだろう?あの時お前は口では否定していたが、何を耐える必要がある。言ってみろ」
あの時、というのは七日前のことだ。空の隣で「別に、何も」と答えたあの時のことを博士は言っているのだし、それで正しい。
なのにナマエの頭に先に浮かんだのは、スメールだった。教令院の外れ、ファデュイが借り上げていた実験棟の軒下。
空が別件で席を外していた午後に急な雨が来て、逃げ込んだ先に先客がいた。仮面の男で、博士の断片の一人だとひと目でわかった。
断片は雨を眺めたまま、旅人の連れだな、と言い、それから唐突に聞いたのだ。対価は何を望む、と。
実験の協力者にならないかという、冗談とも本気ともつかない誘いだった。ナマエは答えられなかった。
欲しいものがなかったわけじゃなく、言葉にする前に自分で引っ込める癖があるだけだ。空に頼まれたことは断らなかったし、頼まれなくても手を出した。
自分が何を欲しいかを考える順番はたいてい後回しになって、そこに辿り着く前に日が暮れる。そういうことが多かった。
――返事すらできんのか。つまらんな。
あの断片はそう言って、雨の中へ出ていった。それきりだった。
空には話していない。話すほどのことでもないと、そのときは思った。
あの人はもういない。神の心と引き換えに処分されたと聞いている。
目の前の博士がそのやりとりを覚えているのかどうかをナマエは知らないし、聞いたこともない。聞いたら何かが決まってしまう気がして、七日間ずっと聞けずにいた。
「……あります」
声は思ったよりも普通に出た。博士は何も言わずに続きを待っている。
「あなたが」
言ってから言い方を間違えたと思ったが、言い直せる類の言葉でもなかった。
「あなたが、欲しい」
沈黙が一拍あった。仮面のせいで博士の顔は読めないはずなのに、ナマエはその一拍をはっきりと見た。この男の時間が、空みたいにほんの少しだけ止まったのだ。
やがて博士はふ、と短く息を吐いて、それが笑ったのだと気づくのに、また少し遅れた。
「ふむ、まさかそんな答えが返ってくるとはな」
声に、珍しく間があった。
「お前は私との親密な関係性を望んでいたのか?恋人か?それとも家族になりたいとでも?」
ナマエは何も言えなかった。恋人か家族か、どちらも自分の中では言葉になっていなくて、欲しい、までしかなかったのだ。
それを博士に先回りして名前をつけられて、顔にじわりと熱が集まる。
「私が何をやってきたかを旅の道中みていたのだろう?それを知ってもなお私を求めるのか」
見ていた。知っている。それでも、だ。
「まったく、私が言うのもなんだが、酔狂にも程がある」
酔狂なのは自分でもわかっていて、わかっていてそれでも言ってしまった。
「が、面白い」
博士が一歩、こちらに近づいた。
「旅人が起きるまでの間お前に付き合ってやろう。旅人が起きたあとに私に便宜を図ってくれるなら、その後もお前との関係を続けようではないか。これはお前の行動への報酬だ。成功すれば、私をくれてやろう」
くれてやろう、って。
七日前、暗闇の中でナマエはこの男の言葉を読み違えた。欲しいものがあるのなら私を頼ればいい、という一言から欲しいものと私の二つだけを勝手に繋げて、勝手に息が止まった。
横で空が「嘘つきの狂人なんかと、取引するわけない」と言ってナマエの手首を引いたから、あれは読み違いだったはずだった。ただの都合のいい聞き間違い。
それが今、本人の口から取引の条件として出てきた。私の勘違いを、この人は契約書に書き写したのだ。
「……便宜、というのは」
「後で話す。急ぐことではない。旅人はまだ三週間は目を開けんよ」
博士は空の肩に目をやって、それからナマエの手に目を移した。空の袖を掴んだまま、離していない手に。
「それは離しておけ。お前の時間はそちら側にはない」
ナマエは手を離さなかった。博士はそれ以上は言わず、仮面の下でまた短く息を吐いた。
咎めるというより面白がっている吐き方だった。
「よろしい。では、明日からだ」
明日。この男の口から出ると、その言葉はやけに普通に聞こえた。
契約も明日も同じ調子で言うのがおかしくて、ナマエは少しだけ笑ってしまったが、博士は笑った理由を聞かなかった。聞かないまま、来たときと同じように音もなく暗闇へ戻っていく。
全部お見通しのくせに、聞きたいことしか聞かない男だ。
空は目を閉じたままだった。まぶたの裏で彼がどこにいるのかナマエは知らないが、蛍のそばだといい、と思った。
それからその考えが「便宜」という言葉と同じ場所から出てきたことに気づいて、空の袖を少しだけ強く握った。
***
八日目。博士は「来い」とだけ言った。
どこへ、とは聞かなかった。聞かなくても、暗闇を数歩進んだところで足元に石畳が現れて、見覚えのある街並みが浮かび上がってきたからだ。
ナシャタウン。空が偽物だと言い切った、あの幻の街だった。
夕方の光の中で人が普通に歩いていて、誰もナマエと博士を気に留めない。
「ここの看板メニューを食べていけ」
連れて来られたのは広場の屋台だった。カーチャがいつもの調子で「今日はなんにする?」と言い、博士が勝手に注文する。
本物のカーチャがこの男に愛想よく笑うところなど想像もつかないが、幻のカーチャは何の屈託もなく笑った。それが一番怖いな、とナマエは思った。
「お腹は空いていないです」
「知っている。この空間では空腹は来ん」
博士は向かいの椅子に腰を下ろした。仮面の男が屋台の椅子に座っているのは、どう見ても絵にならない。
「だが恋人というものは、腹が減っていなくとも共に食事をするものだ」
「……そう、なんですか」
「私とて多少の知識くらいはある」
恋人、と言った。七日目にこの男は恋人か家族かと聞いてきて、ナマエはどちらとも答えなかった。それなのに、博士のほうで恋人のほうを選んだらしい。
どうしてそっちなのか聞きたかったが、聞けるはずもなく、ナマエは返す言葉を失って、出てきたホットドッグを受け取った。
博士は食べない。仮面を外す気がないのか、そもそも食べる必要がないのか、ただ向かいに座ってこちらを見ている。
一口かじると普通においしかった。パンは温かいし、ソーセージはちゃんと肉の味がする。
幻のくせに、と思ってから、この味を誰の記憶から持ってきたのだろうと考えて、少し手が止まった。
「食べる速度は通常の七割といったところか。緊張しているな」
「……見ないでください」
「見ないでどうする。観察のために連れてきたのだ」
食べているところをじろじろ見られて居心地は悪かったが、それでも博士は急かさなかったし、ナマエが食べ終わるまで席を立たなかった。そういうところも知識のうちなのだろうか。
食べ終わる頃に小さな影が椅子の横に寄ってきた。メイジーだった。
本物のナシャタウンにはいない、カーチャの幻の娘だ。
「お姉ちゃんの友達?」
メイジーは博士を見上げて、ナマエを指さしていた。幻の子供は仮面の男を怖がらないらしい。
ナマエが答えに詰まっていると、博士が横から言った。
「恋人だ」
ナマエは咳き込んだ。メイジーは「ふうん」とだけ言って走っていったので、幻の子供にとっては特別な情報ではなかったらしい。
特別に受け取ったのはナマエだけだった。
「……今の、必要でした?」
「事実を述べたまでだ。契約期間中であることに違いはなかろう」
顔が熱い。博士はそれを、顔色の変化、くらいの淡々とした目で見ているに違いなかった。
それでも恋人だと言った声はこの男の声で、他の誰の声でもなかった。博士にとっては事実の確認でも、ナマエにとっては、この男にそう呼ばれた日になった。
十六日目。
幻のナシャタウンは夜だった。博士が夜の街を歩きたがったわけではなく、八日目から何度か昼の街に連れ出されてナマエがそれに慣れてきた頃合いを見て、条件を変えたのだろう。そういう男だ。
夜のナシャタウンは静かで、どの家も戸締りをしていない。博士の言う理想郷とはこういう街らしい。
窓から漏れる灯りの下を二人で歩く。
「この街の人間は、盗まれるということを知らん。知らんから鍵をかけん」
「本物の人は、かけますよ」
「かけるとも。鍵をかけねばならん街というのは、それだけで一つの欠陥だ」
欠陥だらけの断片を切り捨てた人に言われても、と思ったが口にはしなかった。かわりに、ずっと気になっていたことを聞いた。
「恋人って、何をするものなんですか」
「ほう。私に聞くのか」
「私も知らないので」
博士は少し黙って、そのあとで思い出したように片手を差し出してきた。手袋をしたままの黒い手だ。
「手を繋ぐものだ」
さも当然のように言うので、ナマエは笑いそうになるのを堪えてその手を取った。手袋越しでも博士の手は冷たくて、体温が低いのか手袋のせいなのかはわからない。
繋いだまま歩き出すと博士の歩幅がほんの少しだけ狭くなって、合わせているのだとわかった。それも知識のうちなのか、それともこの男が今決めたことなのか、ナマエにはわからなかったが、後者であればいいと思った。
「ひとつ聞いておこう」
橋の上で博士が足を止めた。
「なぜ私なのだ。お前は旅人の隣で、いくらでも見てきたはずだ。私が何をしたか。私が何を壊したか」
「……」
「理由を言え、とは言わん。あるのかどうかを聞いている」
ナマエは考えて、考えて、首を振った。
「ないです。欲しい、までしか、ないんです」
「ふむ」
博士はナマエの手を離さなかった。
「それでいい。理由のある欲望は交渉できる。理由のない欲望は、観察するしかない」
そのとき初めて、ナマエはこの契約の意味を正しく理解した気がした。博士はナマエに付き合っているのではなくて、理由のない欲望というものがどう動くのかを一ヶ月かけて観察しているのだ。
それはそれで構わなかった。観察されている間は、この男はナマエを見ている。
「便宜の話をしておこう」
博士は橋の欄干に、繋いでいないほうの手を置いた。
「旅人が目を覚ましたら、一言添えろ。私の話を聞け、と。それだけだ」
「……それだけ、ですか」
「それだけが難しいのだよ、お前には」
図星だった。ナマエは人に何かを頼むのが得意ではないし、まして空に自分のために何かをしてくれと言うのは慣れていない。
それが博士のための一言ともなれば、頼むというより裏切るに近い。博士はそれを全部わかった上で、それだけ、と言ったのだ。
「二週間ある。考えておけ」
繋いだ手が離れて、ナマエの手のひらには冷たさだけが残った。
二十五日目。
その日は幻の街には行かなかった。博士が来たときナマエは空の隣に座ったままで立ち上がらなかったし、博士も無理には連れ出さず、空を挟んで向かい側に立った。
「聞いてもいいですか」
「珍しいな。言ってみろ」
「あなたは、どの博士ですか」
博士は何も言わなかった。ナマエは続けた。
止まったら二度と聞けない気がしていた。
「スメールで、雨の日に、実験棟の軒下で。あなたの断片の一人に、対価は何を望むって聞かれました。答えられませんでした。返事すらできんのかって言われて、それで終わりでした」
博士は動かない。
「それから少しして、同じ人に、もう一度会いました。処分される少し前だったと思います。その人は、私は消えるが、私は残る、って言いました。意味はわかりませんでした。今も、たぶん、わかっていません」
言い終えて顔を上げると、博士はナマエを見ていた。仮面のせいで何も読めない。
読めないまま、博士は言った。
「知っている」
二文字だった。それだけでナマエの胸がぎゅっと縮んだ。
あの雨の日のことを、この男は覚えていたのだ。
「あれは私だ。軒下で雨宿りをしたのも、お前に対価を聞いたのも、答えられんお前をつまらんと切り捨てたのも、私だ」
「……でも、その人は」
「消えた。消えたが、記憶は私の中にある。断片は私の一部であり、私は断片の総和だ。神の心と引き換えに差し出したのは欠陥であって、記憶ではない」
博士は空の肩越しにナマエを見下ろした。
「お前が欲しいのがあの軒下の男なら、残念だが在庫切れだ。今ここにいるのは、あの男から欠陥を抜いた残りだよ」
在庫切れ、ときた。人のことをよくもまあそんなふうに言えるものだと呆れて、ナマエは少しだけ笑ってしまった。
笑ったついでに、ずっと喉の奥に引っかかっていたことを聞いてみる。
「欠陥を抜いた残りって、まだあなたなんですか」
博士はすぐには答えなかった。七日目にあなたが欲しいと言ったときと同じで、この男の時間がほんの少しだけ止まったのがわかる。
ふむ、と喉を鳴らすまでに、いつもより長くかかった。
「それは、まだ観察の途中だ」
それだけ言って、博士は空を挟んだ向かい側に腰を下ろした。この男がこの暗闇で座るのは初めてのことだった。
「残り五日だ」
「はい」
「何か言うことはないか」
ナマエは少し考えて、この男に初めて頼みごとをした。
「明日も、来てくれますか」
博士は仮面の下で、ふ、と息を吐いた。笑ったのだ。
もう気づくのに遅れなかった。
「初めてだな。お前が私に何かを求めたのは」
「……はい」
「無論だ。契約期間中だからな」
契約期間中。それ以外の理由は言わない。
言わないが、博士はそのあともしばらく立ち上がらず、三つの月が暗くなるまで空を挟んで座っていた。
***
二十九日目。博士は来るなり「明日だ」と言った。
「明日のいつ頃ですか」
「月が一番明るくなる頃だ。それまでに術を解く」
ナマエは、はい、と返した。空の袖を掴んだままの手に少しだけ力が入る。
十六日目に便宜の中身を聞かされてから、ナマエは毎日同じことを考えていた。空が目を覚ましたら、私の話を聞け、と一言添える。
博士はそれだけだと言ったが、それだけで済むはずがないことくらいナマエにもわかっている。
空は博士の話を聞いても受け入れない。受け入れないからこそ空なのだ。
その空に聞けと言うのがどういうことか、ナマエはちゃんとわかっていて、わかっていてたぶん言う。自分の中でとっくに決まっていることを、二週間かけて確かめていただけだった。
「聞いてもいいですか」
「言ってみろ」
「言わなかったら、どうなりますか」
博士はふむと喉を鳴らした。怒った様子はない。
「契約不履行だ。それだけだ。私は怒らん。裕福な者が貧しい者と争わんのと同じでな」
前にも空に向かって似たことを言っていたから、この男は本当に怒らないのだろう。怒らないまま、ただ契約が終わったという事実だけが残って、明日からは来なくなる。
それだけだ。それだけが、ナマエには一番堪えた。
「……言います」
「ほう」
「言いますけど、空のためではないです。あなたのためでもないです」
博士は黙って続きを待った。
「私が、明日からもあなたに来てほしいからです」
言い切ってしまってから、ナマエは自分の言葉に少し驚いた。人と人との間にあるのは相互利益で、モラルも志も美化のための言葉だと、この男は空に言った。
あのときは聞き流したし、聞き流せた。けれど今、ナマエは自分の欲しいもののために空を差し出そうとしている。
これがこの男の言っていた利害というものなのだとしたら、ナマエは今、博士と同じ側に立っていた。
「よろしい」
博士はそれだけ言った。褒めもしないし笑いもしないで、ただ空を挟んで向かい側に腰を下ろし、二十五日目からそうしているようにナマエと向かい合った。
「ひとつ聞いておこう。この一ヶ月に、意味はあったか」
意味。ナマエは少し考えた。
空は何も知らないし、外の誰も知らない。明日、空が目を覚ましたとき、この一ヶ月は博士とナマエのほかには誰の記憶にも残っていない。
「他の人には、何の意味もなかったと思います」
「他の人には、な」
博士はそう繰り返しただけで、否定も肯定もしなかった。それがこの男なりの答えなのだと、ナマエは思うことにした。
「明日、旅人が目を覚ましたら、この一ヶ月の話はせん。お前もするな」
「……はい」
「他人に何の影響も与えず、意味も持たない一ヶ月だ。そういうことにしておけ」
そういうことにしておけ、というのは、嘘をつかない男の精一杯の嘘のつき方だった。
ナマエは空の袖から手を離した。この暗闇にいる間ずっと離さなかった手を膝の上に置いて、博士を見る。
付き合ってやろう、と博士が言ったのは、旅人が起きるまでの間だった。だとすれば、恋人でいられるのは今夜までということになる。
「最後に、聞いてもいいですか。付き合ってくれるのは、空が起きるまでの約束でしたよね。……恋人は、終わる前の夜に何をするんですか」
「終わらん。契約が継続するかは、お前次第だ」
即答だった。終わるかどうかを決めるのは自分だと、この男は言ったのだ。
ナマエは笑った。今度は堪えなかった。
博士は仮面の下で、たぶん少しだけ眉を寄せていた。
***
暗い。
目を開けているはずなのに何も見えない。さっきまでナシャタウンの夜の幻の中にいて、博士が「異物がいるようだ」と言って、空間の端が歪んで、それからどうなった。
瞬きをしてみると、瞬きができている感覚はある。なのに暗い。
「…いったい何が?」
「おっと、すまない」
何かが切り替わって視界が戻った。暗闇の空間と、頭上の三つの月と、博士。
空は座っていた。座った覚えはないし、立ち上がりかけていたはずだ。
何をするつもりだと叫んで、博士に向かって踏み出そうとして、それきり記憶がないのに、今は床に腰を下ろしている。
隣にはナマエがいて、膝の上に両手を置いてまっすぐ博士を見ていた。空が目を覚ましたことにすぐには気づかなかったように見えて、それからゆっくりこちらを向いた。
「空」
「……ナマエ。大丈夫?」
「うん」
短い。いつも通りのはずなのに、空は何かが引っかかった。
髪が伸びたわけでも痩せたわけでもないのに、ナマエの顔が少しだけ知らない顔に見えたのだ。
「気づかなかったかもしれないが、さきほどまでお前の友人が、その脳を覗き見ていたのだよ」
友人、というとネフェルだろうか。でもどうやって。
俺と関係のあるものを使って覗いたんだろうか。
「彼女は、今のお前の状況を知っていると思うか?」
「ふむ、だんまりか。私はただ、お前の時間を遅くすることで侵入を妨害し、盗み見するような不届き者を捕らえようとしただけなのだがな。時間を操る…この能力は実に面白い。お前が目を閉じた瞬間、時間は厚みを増し、最も重い媒質よりも粘性を帯びた。その目を閉じてから開くまでの間に、一ヶ月もの時が過ぎたのだよ。しかしその一ヶ月は、他人に何の影響も与えず、意味も持たない。これは神のみに許される所業だ」
一ヶ月。空は隣を見た。
ナマエは博士を見ていたが、博士がその言葉を言ったときにほんの一瞬だけ博士の視線がナマエに向いたのを、空は見た気がした。ナマエは目を伏せた。
気のせいだ、たぶん。
「また自分の力を見せつけられて、嬉しいの?」
「いや、今回のはただの試運転に過ぎない。私は実践派でね。それに何を隠そう、まだ制御しきれていない。少し眠らせるつもりが、一ヶ月も経ってしまった…時間の権能というのは、実に繊細な操作を必要とするようだ。まさか、怒っているのか?たった一ヶ月だ、大したことではない。一年や十年、ましてや百年だったら…どうなっていたか」
たった一ヶ月。空はもう一度隣を見て、小声で聞いた。
「ナマエも、一ヶ月?」
ナマエは少し間を置いて頷いた。
「うん。……でも、大丈夫」
大丈夫の意味が空にはわからなかった。一ヶ月、この暗闇でこの男と二人で、何が大丈夫なのか。
聞きたいことはいくらでもあったが、ナマエの顔は聞かれたくない顔をしていた。空はナマエのそういう顔を旅の間に何度も見てきたから、聞けなかった。
「俺をここに閉じ込めて、何百万年だって眠らせたらいい。口では協力関係を築きたいとか言ってるけど、どうせこんな“もてなし”しかできないんだろ」
「何百万年?それに何の意味がある?」
そこから博士は長々と喋った。人間は現実的な生き物で、数字が大きくなるほど苦しみは意味を失うこと。
テイワットの神の多くは凡人であること。空の長い寿命と出自は、彼らから見れば異端であること。
空は半分も聞いていなかった。隣のナマエが気になって仕方がなかったからだ。
「世界はお前に、あまりに不公平だ。だから私が、お前に特権を与えよう。降臨者であるお前を本来あるべき地位へ戻すために」
特権。空は口を開いた。
言うことは一ヶ月前と同じで、何を見せられても何を約束されても断る、それだけだ。
その口を開く前に、横から声がした。
「空」
ナマエだった。
「……話だけでも、聞いてみたら」
空はナマエを見た。
「ナマエ?」
二度目だ、と頭のどこかが言った。一ヶ月前――空にとってはほんの少し前――この暗闇で博士が「お前の相方は欲しいものがあるようだな」と言ったとき、あのときも空はナマエ? と言って、ナマエは別に、何も、と答えた。
今は答えている。空に向かって。
「今は、戦っても勝てないでしょ」
ナマエは空から目を離さずに続けた。
「話を聞いてるうちに、三つの月のこととか、ここから出る手がかりが分かるかもしれない。だから……話くらいは」
言い訳だ、とすぐにわかった。筋は通っていて、通っているからこそおかしい。
ナマエはそういう理屈を自分から並べる人ではなく、頼みごとが少ないのと同じくらい言い訳も少ない。その人が空の前で、わざわざ理由を探して並べている。
ナマエが自分のために何かを頼むことはめったにないし、頼むとしてももっと小さなことだ。それがよりによってこの男の話を聞け、と、しかも言い訳つきで。
どうして、で頭の中が埋まった。博士がしてきたことをナマエは全部隣で見てきたはずで、スメールも、ここも、それを知っていてなぜ。
ナマエは目を逸らさなかった。それが一番空には堪えた。
ナマエは頼みごとをするときに目を逸らす人で、誰かのための頼みごとでさえたいてい逸らしたのに、今は逸らさずにまっすぐ空を見て、聞いてみたら、と言っている。
博士は何も言わなかった。
「……聞いてるよ」
空はナマエに言った。
「ずっと聞いてる。一ヶ月前からずっと。嫌になるくらい、こいつの話は聞いてる」
それから博士を見た。
「だから話せよ。聞くだけだ。聞いて、断る。それは変わらない」
「ほう」
博士はふむと喉を鳴らした。
「よろしい」
空に向けた言葉だと思ったが、博士の目は空を見ていなかった。仮面の奥の視線は空の隣に向いていて、それは一瞬だけだったが、人質を数えるにしては長すぎる一瞬だった。
隣でナマエの肩から力が抜けるのがわかった。何かが終わったような、始まったような顔で、空の知らない顔だった。
空はそれを問い質さなかった。問い質せばナマエはまた、別に、何も、と言うだろうとわかっていたからだ。
博士が話し始めた。空は、聞いた。
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