キミと二人の空間は存外居心地が良かった事に、二人で過ごした時間の価値の重さに、玉響に咲いていたキミの命の儚さに、僕は失って初めてようやく気が付いたんだ。



「君がX世の雲の守護者?」
「……キミ、誰?」

 何処からともなく現れて、突如目の前に立ち塞がった見知らぬ女。
 挙句、不本意な呼び名で僕を指したかと思うと、こちらの問いに答えもせず、一人で勝手に納得したような素振りを見せた彼女は何をしたかと言えば、馴れ馴れしく僕の頭を撫でてきた。髪に触れる柔い手のひらに虫酸が走って、その体躯を壁に押し付け首に鈍く光る得物を当てがう。
 腹癒せに草食動物らしく恐怖に震え叫ぼうものならこのまま喉を潰してやろうかとも思ったが、震えるどころか彼女は僕の威嚇にますます笑みを深くして手を伸ばしてきた。そちらの手ももう片方のトンファーで払い除け、有りっ丈の殺気を籠めて変質者を睨み付ける。
 すると遅れてやってきたらしい沢田綱吉が赤くなったり青くなったりと忙しない百面相でこっちを窺っている姿を見つけて、生徒でも教員でも無い部外者が白昼堂々と校内をほっつき歩いているのは彼の仕業かと合点がいった僕は、彼も纏めて咬み殺す事を決めた。

 ならばやる事はひとつ。
 先ずは壁に追い詰めたこの草食動物から駆除してさっさと並中からつまみ出そう。
 そうして彼女に視線を戻したら、相手はこんな状況だというのに未だ怯える風情をおくびにも出さない。むしろ面白がっているようにも見えて、余裕綽々としたその笑みがヤケに癇に障った。
 (……癪の種は直ちに摘んでしまおう)
 この生意気な顔も、一撃で屈伏させる。
 精々良い声で鳴いてほしいなとトンファーを振りかぶれば、端で見ているだけだった沢田が「ヒバリさん!」と非難染みた声を上げた。が、そんなの知ったこっちゃない。一度痛い目を見れば相手も自分が如何に無用心だったか思い知るだろうと加減も無しに振り下ろす。
 彼女の細い身体は呆気なく地に沈み、僕の腕には殴打した反動で微かな痺れが迸り、だが膨らませていた不快感は拭えた。──算段では、そのはず、だった。
 
 確かに、手応えはあった。けれど、僕が予想していた手当たりとは遥かに違った。
 ギチギチと得物同士が鍔迫り合い、更に力で圧せば相手も負けじと力を込める。構わず何度も猛攻を振るうトンファーを受け止めるのは、あの柔い手が操る薙刀の柄。思わず虚を衝かれたけどこれはこれで願っても無い展開だ。

 退屈凌ぎになるなら丁度いい、僕とタイマン張れるだけの力量があるならもっと良い。
 血湧き肉躍る興奮に身を任せ、僕は思いのままにトンファーラッシュを浴びせた。
 しかし期待は大きく外れ、彼女は素早い攻めを柄で流したり、体ごと逸らしたりと防戦一方でつまらない。攻撃を受け止められるだけの動体視力と反射神経は持っているのだから、きっとこの人も戦い慣れしているだろうとスリルのある戦闘が臨める可能性に胸が弾んだのに。
 肩透かし喰らって止むに止まれぬ苛立ちを積もらせながら、トンファーを振るう手は止めず、壁際から抜け出した相手に話しかける。

「なんでやり返さないの?」
「ここで暴れたら彼にも被害が及ぶだろう?」

 チラリと一瞥した先には、開いた口が塞がらずボサッと突っ立ってる沢田が居た。成る程、彼女が退嬰的な防御ばかりするのは彼の為かと納得して、僕は踵を翻し依然と間抜けな顔で立ち尽くしている小動物目掛けて床を蹴った。
 ──邪魔者は消してしまえば良い。
 的が己に絞られたと彼が悟った頃には既に遅し。トンファーの狙いは定まっている。後は顎を割ってでも地に伸すだけだと下段から踏み込めば、されどその思惑も未然に防がれた。
 柄のリーチが長い分、今の攻撃を寸で受け止める事は出来なくても突きで弾いて軌道を逸らすことは出来るのか。
 僕と本気で殺り合う気はない癖に小賢しい知恵ばかり使って本当、ムカつくな。

 僕の殺気に気圧されてへたりと床に座り込んだ沢田に愛想を振りまいてる彼女の姿に苛々だけが増してゆく。
 この腹の虫は暫く収まりそうに無い。なにも不法侵入者に遠慮する事なんて無いんだ、我慢せずに彼女をメチャクチャにして茶番に付き合わされた償いをしてもらおうと再び得物を構えると、頭の上に僅かな重みが乗った。
 いつも僕の頭に乗る黄色い鳥じゃない、これは────赤ん坊だ。

「情けねーな、ダメツナ」
「リボーン! お前今までどこ居たんだよ!」

 行方知れずだった家庭教師の姿を見てハッとしたように身を乗り出す沢田。けどその家庭教師が座っている場所は何処か、という事実に直面すると萎縮したように身を強張らせた。
 その隣に立ち、僕と武器を交えた事なんて無かったかのように平然と欠伸をする女。
 ……ああ、また闘争本能が疼いてきた。
 だけど、それだけでなく。
 家庭教師に軽くいなされ、ぶつくさと文句を垂れる沢田の頭を微笑ましいと言わんばかりの眼差しで撫でるあの人に、腹の底から無性に込み上げる感情があった。人の頭を撫でるのは癖なのだろうか。僕の時と同じ手付きで沢田の頭も撫でるその手が、光景がひどく不愉快で。
 僕の前で群れないでくれる、と険を含ませて戒めれば、穏便に済ませたい沢田は急いであの人から離れて壁際に逃げた。

「……ヒバリ。あいつに興味持ったか?」
「あいつ?」
「名前のことだぞ」
「……ふぅん。あの人、名前っていうんだ」

 出会して早々小競り合いに発展したんだから名前を尋ねる暇なんて無かった。
 名前、赤ん坊から教えられた彼女の名前を舌の上で転がす。胸にしっくりと馴染んだそれは気が向いたら口に出して呼ぶ事にしよう。
 何故か疲れ切っている沢田に彼女の意識が向いているのを良いことに、今の内に彼女が住んでいる住所や身辺を特定しようと赤ん坊に問い掛ける。しかし「それは自分で調べられるだろ」と一蹴され、それもそうかと引き下がった。
 唯ひとつ良いことを教えてやる、そう言ってほくそ笑んだ赤ん坊の話に耳を傾ける。

「名前は明日から並中に通う事になる。今日はその下見でオレが連れて来たんだ」
「……そう」
「まだジャッポーネに来て日も浅いからな。早く此処での生活に慣れるように、お前も可愛がってやってくれると助かるぞ」
「僕は群れるのは嫌いだよ」
「知ってる。だからヒバリ流の方法で、だ」

 言外に武力行使しても良い、と言っているのだ、彼は。
 別に赤ん坊から許可なんてされなくても、彼女が住んでいる家に押し掛けてでも僕はまた勝負を仕掛けるつもりだったけど、喜ばしい事には違いない。
 転入してくるのならわざわざ家になど行かなくても機会は幾らでもあるんだ。殺し合いという意味合いでの構い方なら、僕は歓迎しよう。

 斯くして、彼女と僕の怏々とした関係が始まった。

 草壁に身元を調査させた結果、彼女は日本人でありながらイタリア育ちだという事が判明した。赤ん坊がジャッポーネ、つまり日本に到着してからまだ日が浅い、慣れていないと言っていたから、恐らく並盛には初めて訪れたと推察される。
 イタリア育ちの割りには日本語を流暢に話せるのは日本人である母親の影響か、教育の賜物か。どちらにせよ興味深かった。

 どうして親元を離れ、遠路遥々ここに来たのか。その理由は定かでは無いが、現在は沢田綱吉の家に身を寄せていると書類に記されているから、彼女も赤ん坊と同じくマフィア関係の人間なんだろう。それならあの熟練した身のこなしも納得がいく。
 ──また見たいな。
 鮮やかな薙刀の手捌きを想起する度、僕は彼女の教室まで会いに行った。
 また来たのか、と呆れ顔で迎えられるのは正直気に食わない。気に食わないけど、唯我独尊を貫く僕に何を言っても無駄だと諦念を持っているのか、僕が教室に出向けば彼女は渋々と重い腰を上げて席を立ち屋上へと向かう。
 あの人は僕と戦う時は必ず人気のない場所へ移動する。僕も騒がしいのは嫌だし、群れを見ると一匹残らず咬み殺したくなるから特に反対する事もなく着いてって、階段を登りきったらお互い己の得物を出す。それは二人にとって暗黙の了解と化していた。

 戦う以外に彼女と接した事は──あった。
 僕は許した覚え無いけれど、彼女は自分が退屈な時は決まって応接室に居座るようになった。僕が忙しい時でも構わず、呑気にソファーで寝ていたり本を読んでいたり……「手伝おうか」、なんて気遣いの一言は無い。仕事の邪魔だから出てけと凄んでも効果なんて全く無くて、トンファーを投げても薙刀で弾き返されるから意味はなかった。
 そうしていい加減はち切れそうだと業を煮やしていたら、彼女はどういった了見かある日を境にパッタリと応接室に来なくなった。
 でもまぁ教室に行けば戦ってくれるし、応接室では彼女が居ないから静かに仕事に集中出来る。やっと安らげる時間が戻ってきたし、風紀の仕事も捗るしで好都合か、と僕は現状に満足していたのだ。
 ……満足出来た、つもりでいたんだ。
 瞳を綴じては振り返る、まるであの人との時間を恋しく思っているような仕種を無意識に取っている時点で、作業への支障も現状への不満も現れていたのに。

「君との初対面では虎の尾を踏むとああいう状況に陥る事を教えられたよ」
「それ、普通面と向かって僕に言う?」
「……」
「何その顔」
「……君に普通を説かれるとは思わなかった」
「……」

 ああ言えばこう言う。日本語は流暢に話せても、その諺の意味や使い方までは正しく理解出来ていないらしい彼女はそう宣っていた。
 しかし妙なところで口が達者だから揚げ足も取られる。それに僕がイラついてトンファー投げて、避けられるか弾かれるの日々繰り返し。
 こんな取るに足らない日々を、僕は確かに悪くはないと気に入りつつあったのだ。気付いた頃には、彼女はもう僕から大分遠い所に居た。
 否、違うな。
 最初から僕とあの人の間に存在する距離は、溝は、埋まってなんかいやしなかった。
 彼女は沢田綱吉達と楽しそうに群れていた。僕にも見せた事は無い、満面の笑みで。
 猫のように気紛れなあの人を繋いでいられる程の魅了する何かが、沢田綱吉にはあったのだろうか。そしてそれは、僕には欠落していたのだろうか。

 戻ってきて、などと女々しく自ら腕を伸ばすなんて事は、プライドが許さない。だから僕は胸にぽっかりと空いた穴埋めを、幾らでも替えの利く他の存在で補う事で気を紛らわせた。
 以降僕は彼女に勝負を挑む事も無く、決着が付かないまま中学高校と卒業して。
 そうして僕らは、疎遠な関係になっていた。




「……だからいやだったんだ」
 やっぱり君の代わりなんて、居なかったよ。

 名前。ときちんと呼んでやる事は叶わなかった名前を呼んで立ち尽くす。
 風が吹くとスーツに染み付いた焼香の匂いが鼻腔を掠めて、彼女の尊顔を鮮明に瞼の裏に蘇らせた。

 さっき見てきた彼女の頬は、中学時代の溌剌とした雰囲気など見る影もなく痩けていた。
 ボンゴレとは僕よりも交流のあった哲曰く、一ヶ月ほど前から彼女の体調は芳しくなく、食欲だってとうに失せていたらしい。
 雪の属性を有する一族は代々短命だというから、彼女もまた例に洩れなかったのだろうと察しはつく。
 察しはつくが、そうやって彼女の死を割り切れるのかという問題とはまた別だった。

 感傷に浸れば浸るほど彼女とのやり取りが想起されて、僕の胸を締め付ける。
 苦しさを孕む膨大な熱量が胸奥から込み上げて、溢れては、行き場を失い千々に消える。それは喉を掻き毟りたくなる痛みさえ伴うのに、何年経っても色褪せない思い出を追想する僕は自虐嗜好でもあったのだろうか。
 なんて、あり得ないけど。
 自分でも制御しきれない感情を次々と誤魔化していく内に、先ほど沢田綱吉と顔を合わせた際に告げられたある意味残酷な言葉が再生されて僕の首を絞めた。

「名前さんは、」

 (ヒバリさんの事を愛していたんですよ)

「…………それは、」

 他でもないあの人の口から聞きたかった。
 僕の独り言は、虚しく空に溶けた。

 異様に重い身体を引きずって空を仰げば、ふと右の手のひらに違和感を感じて振り向いた。
 が、周りには誰もおらず咄嗟に握った手のひらは風を掴んだだけ。そこで手を動かしてようやく、僕は肌を突き刺す程の寒さを感じた。
 彼女と出逢う前は、このくらいの冷えなんて造作もなかったのに。
 頭を撫でたあの柔い手のひらの温もりを知ってから、僕は途轍もなく弱くなった。

 ──寒いよ、名前。寒いんだよ。
 この冷え切った手を温めてほしい人は、もうこの世のどこを探しても見つからない。

 遺骨は本人たっての希望で海に散骨した。
 死後も墓石の下なんて暗い所に閉じ込められるのは性に合わないと笑っていたとか。一箇所に縛られる事を疎み、壮大な空の下自由に解き放たれる事を選んだ選択は何ともまぁあの人らしいと思った。
 浮雲は僕だけれど、名前こそ掴みようのない雪そのものだった。触れたら、溶けて。僕の心にひとつの波紋を落として、地に還った。

 この得体の知れない感情に名前を付けることは、おそらく一生叶わないだろう。
 相手が居れば色鮮やかに彩る事も可能なそれは、相手が存在しないなら実を成さない不毛な芽でしか無いのだから。
 かといって長い年月を費やして育てたその芽を無惨に摘み取るなんて事も出来ない。
 僕はこんなに臆病だっただろうか。
 あの人への想いを忘れようとすれば、あの人との思い出も根刮ぎ刈られてしまうんじゃないかと、そう、怖い。僕は怖いのだ。彼女が過去の人になってしまうのが。
 今までだって数多の命をこの手で毟って、過去へ葬ってきた。それならば僕を苛むこの恐怖は、これまで手折ってきた人間達が僕を坩堝に引き摺り込もうとする報復か、宿怨か。

 深呼吸し、心をせせる様な孤独を耐え凌ぐ。
 僕はずっと、この不毛な想いを抱えて最期は惨たらしく死んでいくのだろう。
 そして行く行くは君の元へ、なんて事は言わないけど、せめて一目だけでも会いたいなんて思う僕はもうとっくに彼女を。

「名前、」
 信じた事すら無かった言葉を君に贈る。

 ──本当は、こんな今にも泣きそうな空じゃなくて生きてる君に言いたかった、な。
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