本当に伝えたいありのままの言葉は伝えられず、あまつさえ愛想も素っ気も無い態度で突き放して、後に積もるのは止むに止まれぬ後悔ばかり。
 頭を抱えて、自分の意気地の無さにほとほと嫌気が差して、けれど結局素直になれず肝心な恋人には冷ややかな風当たりを仕出かす始末。そのたび幼馴染みの片割れである陽へお約束の如く泣き付いて、愚痴を零して、懺悔を繰り返す堂々巡り。
 最近ではその陽にすら「もうお前の天邪鬼が治らない限り埒が明かねぇな」とお手上げ状態で極論を突き付けられて、名前も打つ手無しだった。

 いつもごめんね、有難う、大好き。
 たったそれらの言葉を並べるだけなのにこの憎らしい口から出て来るのは恋人としても女の子としても可愛げの無いものばかり。
 馬鹿につける薬も無ければ拗らせた天邪鬼につける物も無い。
 性格を見直そうと思っても名前は夜にだけこのような態度を取ってしまうし、何より直そうと心構えて意識は出来ても却って仇となって本人の前ではぎこちなくなってしまい心配され、そして強がるの悪循環が続く。
 それに難なく悪癖を正せるほど名前は残念ながら器用では無い。否、元より器用な人間とて手を焼くことだろう。ましてや名前の場合傷付けたくて故意にやっている訳では無く、あくまでも反射的。つい面映さが邪魔をしてぶっきら棒な言動しか取れないのだから。

(こんなんじゃ、夜に呆れられちゃう)
 幼馴染み兼、恋人である長月夜の優しい微笑みを脳裏に思い浮かべて、名前の胸は更にぎゅうっと苦しくなった。伝えたいのに伝えられない。大切な想いは宙ぶらりんに持て余し、いつまで経っても名前の胸奥に秘められたまま。陽の言う通り、名前の天邪鬼と優柔不断な性格が災いして状況は膠着し進展もしなかった。
 故にいい加減見兼ねて痺れを切らした幼馴染みに「アイツならちゃんと受け止めてくれっから、な?」と背中を押され、勇気を出してみようと名前も一念発起してみた、が。

 行動を期するのならいつ頃が良いか。
 だが突然そんなことを伝えたら熱でもあるのでは無いかと心配されるんじゃ無かろうか。そもそも今まで言えなかった事をそう簡単にすらすらと言えるのか。
 ……否、無理だ。面と向かったらどうせまた自分は憎まれ口を叩くに違いない。そう色々計画を張り巡らせては次々に却下されていく没案達。そうこう葛藤している間にも日数は流れ、名前が夜に対してけんもほろろな素振りを改善する事は儘ならなかった。
 相変わらず陽に泣き付く回数は減らず、寧ろ悪化の一途を辿って増えていく一方。流石に夜も不審に思うのか名前を怪訝そうに窺うことが多くなって、一時凌ぎ誤魔化す為に陽の助け舟を借りて何とかその場を乗り切っていた。
 しかし、そんな二人の煮え切らない態度が、否、態度も恋人の不安を煽る一因と為していたのだろうか。

 学校を終え、夕食後に夜が名前の自宅へ訪ねてきた。
 彼は礼儀正しく、名前の母にも大層気に入られていて、その頃自室で寛いでいた名前の部屋に通されるのも容易な事で───部屋に入っていきなりの来客に瞠目する名前の顔を一目見るなり、夜は彼女に勢い込む形で共にベッドへ沈み込んだ。

「っ、ちょ、夜…!?」
 目一杯強く抱き締められ、息苦しさに名前が身じろいでも解放されるどころか力はますます増していく。
 こんな細身の身体のどこにそんな力が有り余ってるのか不思議でならなかったが、夜が珍しく取り乱している様子にただ事ならない事情を察して名前は取り敢えず無理に引き剥がそうとするのは止めた。

「……よ、よる?」

 恐る恐る呼び掛ける。けれど名前の主から応答は無く、返ってくるのは長い沈黙のみ。
 心なしか震えているような背中を宥めながらどうしようか名前が困惑したまま考えあぐねていれば、やがて名前の肩に顔を埋めていた夜はゆっくりと密着していた身体を離した。その時、今日初めて目にした彼の表情に、名前は意表を突かれて言葉を飲み込む。

 透明な滴が目の淵に沢山溜まって、今にも零れ落ちてしまいそうだった。
 いつも柔和な表情で穏やかに微笑んでいた夜が、今は両親とはぐれた迷子の子供のように不安一色の顔をしている。
 ゆらゆら揺らめいて、涙は零れていないものの逆にその表情が痛々しかった。
 思わず腕を伸ばして、夜の頬に手のひらを滑らせる。ひょっとして来る前に泣いたのだろうか。頬は少し、湿っていた。
 名前が完全に言葉を失って唇を結ぶと、夜はぼうっと虚ろな表情のまま頬に当てられた名前の手のひらに自分の手を重ねる。そして彼女の温もりを噛み締めるように瞑目して頬をすり寄せたが、ふと細々と震えている相手の異変に気付いて薄っすらと目を開け横目で見た。
 その視線にすら名前が緊張で身体を強張らせて、夜が切なそうに眉を寄せる。

「……名前は……」
「……な、なに?」
「……本当は、陽が好きだったの?」
「…………は?」

 理解しようとするより先に間の抜けた声が飛び出ていた。依然と曇った面持ちの夜が放った問い掛けを頭の中で反芻し、意味を咀嚼して緩慢と飲み込む。…つまり、何だ。夜も夜で、近頃よりいっそう親密に見える二人の仲を憂慮して、名前の本当の想い人は陽なのでは無いかと邪推していたのか。
 苦しそうに顔を歪める夜は唖然とする名前をただ見つめていて、自分で言っておきながらどこか否定の言葉を欲しがっているようにも見えた。けれど名前の口から出たのは否定でも肯定でも無く、「どうして、そんな……」という戸惑いが滲んだ生返事。
 どうして、と問い詰めたいのは自分だとささくれ立った思考に夜は冷静を努めようとしつつも、湧き上がる嫉妬心は抑え切れなかった。

「ごめん、っごめん、本当はちゃんと良く分かってるんだ…陽もやましい下心とかがあって名前と接してるわけじゃない…純粋に幼馴染みとして名前と仲が良いんだってことも。でも、」

 たびたび感じる筆舌には尽くし難い密接な二人の距離に不安、だった。
 自分よりも、もう一人の幼馴染みの方が名前には相応しいのでは無いかと、彼女を心から楽しませてあげられるのでは無いかと。夜は劣等感に似たものを陽に抱いていたのだ。
 陽も昔、彼女に淡い懸想を抱いていた同士だからこそ、夜にとっては過去も現在も最も油断ならない相手であった。
 隙を見せれば掻っ攫われてしまうんじゃないか、それこそ自分の手が届かない、取り返しのつかないほど遠い場所へ連れ去られてしまうんじゃないか。そんな懸念は四六時中側を付き纏って、杞憂だと自身に言い聞かせていても憂いはそうそう晴れるものじゃない。
 加えて名前は意地っ張りな性格で、なかなか本心を口にしてはくれないから。

「何で、最近陽とずっと一緒に居たの…? 俺の事はもう飽きちゃった? 嫌いになった? それとも両想いだって自惚れてたのは、最初から俺だけだったのかな…」
「っ、夜、待って……痛……」

 激情は今も腹の底で煮え滾っている。
 直接陽や名前に当たることも出来なくて、不完全燃焼のまま夜の中に燻っていた火は萎縮する名前を前にして再び燃えて黒煙を上げた。
 どす黒い感情に翻弄されるがまま、名前の手を有らん限りの力で握れば当然目の前の顔は痛みに染まったが、歯止めはもう効かなかった。

「……っごめん、ごめんね、ごめん。俺に悪いとこがあったなら直すから、だから、…嫌だ、離れていかないで、名前が離れたら俺…っ苦しくて、息もろくに……っ!」
「っ夜!!」

 混乱に陥って支離滅裂に喋る夜を遮り、ビクリと震えた恋人が漸く押し留まったのを見て名前もつられて泣きそうになる。けれど今ここで自身も泣き崩れてしまったら夜の悲痛に満ちた叫びを遮った意味がない。あくまでも気丈に、毅然とした眼差しで雫を一つ落とした夜の目尻を空いた指でそっと拭う。
 これが何事もない普通だったならば、彼は名前が自ら触れただけでも微かに頬を染めてとても嬉しそうに破顔するのに今はそんな気配は全く無い。
 綺麗な瞳を潤ませて唇を噛み、掴んでいる名前の手をことさら強く握るだけだ。

「……別れ話は、聞かないからね」
「うん。する気も無い、よ」

 ごめんね、と、この時ばかりは名前も素直に謝らざるを得なかった。
 自分に非があったことは百も承知だ。こんなに思い詰めるまで夜を放置してしまった自分に責任があると負い目を感じながら、名前も腹を括って拙いながらも探り探り言葉を選んで鼻を啜る夜に自らの心境を語り始めた。
 夜に素直に想いを伝えられない自分が歯痒くて腹立たしかった事。その件で陽には愚痴や相談を聞いて貰っていただけの事。恋人、という関係の在り方がいまいち分からなくて気恥かしくて、それでも懸命に夜と向き合おうとはしていた事。
 何だか途切れ途切れ言い訳がましくなってしまったが、彼は真剣に耳を傾けて名前の瞳を見据えていた。
 捨てられたくないから、どうしても最悪な展開となる前に自身の根性を叩き直したかったんだとおずおずと名前が白状すれば、これまでの不自然な違和感に合点がいった夜はポカンと呆気に取られたあと、赤くなったり青くなったりと様々な色に顔色を変えた。
 そして慌てて名前の手を離して上から退き、ベッドの上で正座して思いっきり頭を下げる。

「〜〜っごめん!! うわ、ホント…っ俺どうかしてたみたいで…あんな、〜〜!」
「ちょ、そんな、土下座くらいの勢いで謝られても…! 良いよ別に…っ今回はどう考えても誤解を招いた私が悪いでしょ!」
「っでも」
「良いったらいいの!」
「……うん、だけどさ、正直……さっきの重いって思われたんじゃないかなって……」

 今度は名前がキョトンと小首を傾げる番だった。さっき、とは、別れ話は聞かないと言い切った前の話だろうか。名前が居なければ苦しいと、夜は先程そうキッパリ言ったのだ。
 今更になって言われた言葉の恥ずかしさが込み上がって、正座で気まずそうに目を泳がせる恋人につられ名前まで真っ赤になる。そこでやはり咄嗟に口をついて出たのは「べっ、つに」という精一杯の照れ隠し。
 二人揃って身体は向き合い、しかし目線は決してかち合わないというシュールな光景に口を噤みながら、時間だけを浪費する。
 カチリ。目覚まし時計の秒針が進む音を聞きながら、やがて無言に耐え兼ねた名前がのぼせたような面持ちのままポツリと呟いた。

「嬉し、かった」
「……え?」
「なんも言ってない!」
「────そっか」

 勿論、夜も聞き逃しはしなかった。
 気恥かしいけれど、このくすぐったさが心地いい。これが愛しいという事なのだと、誰にも阻まれない安らかな空間に二人は身を持って実感した。
 そんなとこも可愛いんだから。
 一人ごちた夜の言葉は、しかし名前の耳にも届いてしまったようでキッと睨まれた。苦笑しながら何でもないとかぶりを振る。
 どうやら彼女が自分に素直に甘えてくれる日はまだまだ遠い道のりらしい。

「じゃあ、お詫びに名前が好きな食べ物何でも作ってあげる。何が食べたい?」
「……お味噌汁」
「? カップケーキとかじゃなくて?」
「夜が作ったお味噌汁が飲みたいの」
「……うん、分かった」

 ──けど、案外近くもあるかもしれない。
ALICE+