彼という人間を端的に説明するならば、狡猾という一語が言い得て妙だろうかとキイチは思う。
 決して、かの貳號艇長や壱號艇の某闘員のように捻くれている訳では無い。確かに頭の回転も早く利口だが、その賢さを悪計等に役立てることは少ないからまだ頼り甲斐もある。
 この場合の狡猾、とは一見軽薄そうな素振りを見せても、実は常に自分の立場や周りとの協調を考えながら行動し、故意にお手軽な人間と見せかけて相手を油断させている、ということだ。つまりキイチを筆頭とする我らが壱號艇リーダーの朔と似たり寄ったりな人種。
 それの何が悪い? と疑問を浮かべる者も多いだろうが、度が過ぎる八方美人は時に周りに被害を及ぼすこともある、と云うのを彼には重々承知して頂きたい。
 正直気が気では無いのだ───彼が自分では無い誰かに笑いかける度、心の奥底に閉じ込めた筈の淡い懸想が疼きだしてしまうから。

「キーイチッ。どした、ご機嫌斜めか?」
「……名前さん…」
「うわ、メチャクチャ嫌そうな顔。そんなに俺と出会したくなかったか、俺が嫌いか」
「ええ、大ッッッ嫌いですう」
「ホント辛辣だなおまえ」

 毒を吐いても相手は全く堪えた様子も無く朗らかに笑って、ソファーで体育座りをするキイチの隣に腰掛ける。彼こそがたった今、キイチが冷静に推察していた人物であり、そして密かな想いを寄せる心強い男性だった。
 その証拠に、キイチの心臓は今にも飛び出そうなくらいに高鳴っていた。「今日は天気が良いなー」なんて世間話を始める名前の傍らで、どぎまぎと固まっているしか少女には為す術が無く、かろうじて喋ることが出来ても「そんなくだらない話なら他所でしてくれますぅ?」などと可愛げのない言葉が口をつく。
 大嫌いなんてウソなのに、何処にも行かないでずっと隣に居て欲しいのに。キイチの本心とは裏腹に、いつも憎らしい口からは反対の言葉ばかりがポロポロと零れて、後の祭りに嘆いたのは数知れず。

 今朝だって今日こそはまともに会話のキャッチボールをしようと自分に檄を飛ばして早朝から任務に出た名前の帰りを此処で待って居たのに、結局このザマだ。
 「お疲れ様」、とさえ素直に言ってあげられないこんな口などきつく縫ってしまいたい。
 両腕で抱え込んでいた膝に口許を埋め瞳を伏せると、頭の上に心地よい重みが乗った。近くには彼以外居ないから、その手も彼のものだと分かってキイチの顔面には熱が集中する。

「顔上げて、キイチ」
「…っい、やですってば」
「俺の目は見なくて良いから、俺にキイチの顔だけでも見せてよ。ホントは長い間ずっと此処で待っててくれたんだろ?」
「〜〜〜っ」

 しかしキイチがどれほど可愛げのない悪態をついても、いつだって彼にはお見通しだった。
 少女がひとり此処で待ち兼ねていたことも、ゆっくり話したかったことも、全部キイチの心情を推し量った上で何処かに行けと冷たくされても、隣に居座っていた。…どこまでも侮れない人だと内心文句を付ける。
 巻き髪を乱さない程度に、優しく慎重に撫でる手に観念して恐る恐る顔を上げれば、手付きと同様に穏やかに微笑んでいる名前と視線がかち合った。途端に恥ずかしさが頂点を達して慌てて目を逸らせばクスリと笑われる。

「真っ赤で可愛いな。」
 揶揄するような口調にぎゅっと目を閉じ、込み上げる羞恥を堪えつつ茶化さないでくださいと窘めれば、なお響く笑い声。
 きっと自分の緊張などとうに見透かされている。名前がキイチを撫でる手は腫れ物に触れるように気を使う動作で、なぜあの時うっかりと言ってしまったのだろうとキイチは自己嫌悪の念に駆られた。

 荒筋は名前の欠点について自分が言及していた事から口が滑ってしまったのだったか。
 「そんなところも好きですけれど」。
 いつもの自分だったら「嫌いじゃ無い」と言っていただろうに、その日に限ってはそんなところ″も″好きだと、ハッキリ告げてしまったのだ。これでは欠点も丸ごと含めて好きだと言外に言ってしまったようである。
 あながち間違いでも無かったが、告白するつもりは毛頭無かったキイチは自分の失言に言ってから気付いて今までに無く慌てふためいた。

 だけれど混乱し過ぎて上手く言葉に出来ず、あたかも肯定しているようにしか見えない失態を晒し、自分で自分の首を絞めるというヘマを犯して涙目になりつつあった。
 そんなキイチを見兼ねて、苦笑した名前はこう言った。
 「そっか、ありがとな」。
 ──ただ、それだけ。
 以降その話題には触れられず、別の話にすり替えられ事なきを得たが、キイチは悟った。ああ、自分の想いは流されてしまったんだと。
 この恋心は実ることが無いのだと、察した。

 これもキイチが彼のことを狡猾だと思う一因だった。分かっている癖に分かっていないフリをする。本人はそれも優しさだとして調和を乱さないようにやっていることだろうが、キイチにとっては生殺しも同然だった。見抜いている癖に、まだこうして半端な優しさを分けて期待を持たせるような事をするんだ。
 狡い、けれど、そんな名前も好きだから諦められなかった。報われなかった。
 一体どうすればこの消化不良のまま蟠っている気持ちは晴れるのだろうか。
 思い切って当たって砕ければ? そのような勇気があれば既に試みているだろうに、とキイチは名前に気付かれないよう嘲笑を漏らす。
 常から與儀にはヘタレや意気地なしだの散々言っているが、なんてことは無い。自分も詰めが甘かったのだと認識せざるを得なかった。

「ただいま、キイチ」
「………おかえり、なさい」

 ──嗚呼、やっぱり彼の声は落ち着く。
 頭を撫でていた手がそのままキイチの頭を名前に引き寄せ、キイチの顔が名前の胸元に埋まる。鼻腔を擽る仄かなシトラスの香りは名前が好んで着ける男性用の香水だ。
 甘過ぎず、控えめな香りが彼らしいとキイチは無意識に頬をすり寄せる。
 今、打ち明けてしまおうか。
 嘘偽り無く、誤魔化すこともせず、ありのままの自分の気持ちを。お互い顔の見えない今ならば、と極度の緊張で異様に乾燥している口の中を気にしつつ、キイチは薄氷の上に乗るような心構えで口を開く。
 願わくば、一抹の不安と微かな希望を抱きながら。

「…っ名前さん、この前のお話なんですが、あれは嘘などでは…」
「キイチ。……キイチには、もっと良い男が居るよ。无とか花礫とか、同年代の男は他に居るだろう?」

 しかし一世一代の決心は、他でも無い名前自身に阻まれた。
 最も残酷な形で、拒まれた。
 ひゅっと息を飲んで固まったキイチに、名前は神妙な面持ちで彼女の背中を撫でながらもそれに、と窓を見る。
 遠く、どこか遠くを眺めるように。

「他人や本人にバレて恥ずかしいと思うような気持ちなら、それは本気じゃない。いずれ冷めて興味も失せる。一時だけのまやかしだよ」
「………そ、んなの、どうして貴方に分かるんですかぁ!? っ私は、」
「分かるさ。…分かるんだ、俺には」

 ごめんな、と一言告げて名前は引き寄せていたキイチの肩を離し、おもむろに席を立って去って行った。
 振り向きもせず、後ろ髪を引かれるようにというわけでも無く、颯爽として。そんな彼の凛とした背中も好きだったのに、キイチは一人取り残されて漠然とした喪失感が胸に刺さった。

 誰のモノにもならない彼だからこそ、強く惹かれたのだろうか。
 周りに愛されていても尚、孤独な彼の隣に居たいなどと烏滸がましいことを考えたのが運の尽きだったか。どちらにせよ、不毛だった。
 ──本気じゃない? そんな馬鹿な。
 こんなにも息が苦しいのに、胸が張り裂けそうなのに。

「………あなたが良いのに…っ、あなたが本気に、させたんじゃないですかぁっ…!」

 惚れさせた責任をとれと、大声で泣き叫んでその後ろ姿に縋ってしまいたかった。
 暖かいあの両腕に包まれて、あの唇に口付けされてみたかった。とびきり甘やかされて、甘えてみたかった。
 どれだけ切なる想いを馳せても、頑なな彼の心には一ミリたりとも入れない。

 どうせなら、頬を伝う涙と一緒にこの苦しみも流れ落ちてしまえば良いのに。
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