ハウ・トゥー・ダッシュ

膝丈ほどある長めの髪を靡かせ、月に照らされた湖面のように曇りのない白銀の瞳を窄めながら、少女は寂とした庭園に甘やかな鎮魂歌を響かせる。

天寿を全うした生命いのちに届くように、
又はかけがえのない存在を失くし、惆悵たる面持ちで座する聴者の心を解きほぐすように。
「導かれし魂に神の御加護があらんことを」。

敬虔な祈りを乗せた花の欠片は空に舞い、歌に合わせてはらり、ひらり、踊る。
風が止んで花弁が落ちると、続けざまに白い鳥が庭園の真上を羽ばたいていった。
その背中はまるで少女の歌声を彼方まで運びゆく天の使徒にも思えて、たった1人の聴者であった媼は胸を突き上げてくる悲しい感銘に涙を流した。
目を閉じれば、瞼の裏に終生の伴侶と過ごした時間が光景が次々と甦る。出逢った時のこと。告白された時のこと。プロポーズされた時のこと。一緒に喜んだこと、笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと。
一顰一笑する無二の存在の顔を偲んで、いっそう輝きを増す思い出の数々に荒れた寂しさが爪を立てて心を引っ掻く。共に過ごした時間がこの上なく幸せだったからこそ、切ない。苦しい。やりきれない。
しかし別れは等しく平等に訪れるもの。自分たちの子供や孫に看取られて長生を遂げた彼は。彼も、普段眠る布団の中で安らかに息を引き取った。
きっとそれは、彼が望んだ最高の大往生だ。
真心のこもった歌声に言い知れない愛しさが咽び上がり、媼は顔をくしゃくしゃに歪めて泣き沈む。
ありがとう、ありがとう。
私がそちらへ行ったらば、また眩い笑顔で出迎えてくださいね。必ずよ。
彼が灰となり露と消えた今も、根付く恋心は枯れやしない。おそらくずっと、永劫に。

歌い切り、鎮魂歌が空に吸い込まれる。
媼が涙に溺れた瞳を開けると、霞んだ視界の中1番に見えたのはこちらへ歩み寄ってくる少女の足先。
彼女は花壇の縁に腰掛けていた媼の前まで行き着くと膝を折り、ロザリオが握られた両手の上から被せるように己の手を重ねた。微笑を湛えた可憐な少女を前にして、媼はひと呼吸置いて頭を下げる。

「おお……アリシア様。この老いぼれの急な申し出を叶えてくださり、ありがとうございます。これであの人も無事に天へ辿り着けることでしょう」
「お爺さんが生前願われた事とあっては、わたしもその願いを無碍に扱うわけにはまいりません。にささやかなものですが……弔いとなれば光栄です」
「彼はアリシア様の歌がとても好きでしたから……きっとあの世で喜んでくれていると思いますわ。なんとお礼を申せば良いのやら……」
「お礼など良いのです」

涙ぐむ媼の言葉に少女は首を振った。
自身が歌ったのは、肉体が滅びた魂の安寧を願うという意想だけでなく。夫に先立たれ悲嘆に暮れる媼の悲しみを、少しでも融かしたかったからである。
誰かはこれを慈善と唱え、誰かはこれを親切ごかしだと皮肉るだろう。だが少女が「この人のために歌いたい」と発起したのは紛れもない事実。例えほんの一時の気休めにしかならないのだとしても、それがほかの人の視点からどう映ろうと、目の前のお婆さんが喜んでくれたのもまた疑う余地のない事実なのだから、ひとえに良かった、と思う。
とはいえ少女が口にしない気持ちが相手に伝わるわけもなく。待ったをかけられて首を捻った媼に、丁重に「お気持ちだけ頂いておきます」と当たり障りのない言葉を選んだ。それでもなお「寛大な御心に感謝します」と律儀に謝辞を述べた媼に苦笑して、少女は隣に腰掛けそっと寄り添う。
媼は、本当に嬉しそうに微笑ってくれた。この屈託ない笑顔こそ、少女にとって無上の賜り物だ。

心地の良い静寂が降りた頃、慌ただしく外を奔る足音が幾つも疎らに聞こえた。教会の中枢から一画を外れた庭園は手入れこそしっかりされているものの、普段は人も立ち寄らず閑散としている。人が近くにいたとしてもやたらめったら騒がしくする者は殆ど居らず、珍しさも相まって耳目の的を見えぬ足音へ寄せた。
なにか緊急を要することでもあったのだろうか?
少女が予測しうる事態といえば使い魔に取り憑かれた患者が運び込まれたか、教会に慈悲を求めてやってきた元・犯罪者かのどちらかだ。だけど聞こえる足音は1人2人という数ではないし、前科者については門番による査問が敷かれているから此処に足を運ぶことはまず無いだろう。
はて何事やら。数人の行く先を気にしつつちょっぴり身構えていると、足音はやがて立ち止まり、たちどころに庭園の扉が蹴破られた。いきなりの暴挙に呆気に取られる少女と媼。
庭園の扉を遠慮なくぶち壊し、息を弾ませた男は少女の姿を見つけるなり一言。

「────アリシア! お前の出番だ!」
「……えっ」

生憎アリシアという名前の人間はこの場には1人しかいない。にも拘わらず、少女……アリシアは目を丸くして「わたし?」と自分を指差して言問いた。
何が何だか分からない。状況が把握出来ないよ、と戸惑いつつ訴えると、手前にいるブロンドの男の影となっていた2人の男性が両傍から顔を覗かせ、手前の男の肩口をちょいちょいと意味深に指し示した。
おもむろに目線を横にずらす。するとそこには顔こそ隠れているものの、意識を失いぐったりとした人間の頭部が見えて。息を飲んでそのまま下へ目を滑らせると、細い両腕には重々しい鎖が繋がれていた。

「来て、くれますね?」

あくまで少女の是認を確認しているが、その声色と微笑には有無を言わせない圧がある。
なにやら背筋に薄ら寒いものを感じたアリシアは否が応でも頷くほかなく、素直に下ろしたばかりの腰をそろりそろりと上げる羽目になった。

思いもよらない出来事。
まるで天が示し合わせたような出逢い。
青天の霹靂のような鮮烈な初対面を果たした2人の少女と少年は、これから大きな運命の渦と歯車に翻弄されることとなる。

kapitel.01 終わりの始まり



「……うん。これで出血は治まったかな」
「助かりました。ありがとうございます、アリシア」
「誰かさんの重圧が怖かったからね……」

いささかげっそりとした面持ちのアリシアは応急処置が大事なく終わったことに胸を撫で下ろし、だいぶ顔色が良くなった少年が眠る寝台の端に腰掛ける。
「すみません、緊急事態だったもので。」しゃあしゃあと笑顔を浮かべながら吐かすカストルに悪びれた様子は無い。そりゃあ彼の言い分も分かるし、こちらの仔細を知らなかったのだからやむを得ないとは思う。
……やむを得ない、が。あんなド派手な登場の仕方は媼の心臓に悪いだろう。お婆さんの寿命が縮まったらどうしてくれるのと内心悪態づいたが、そもそも扉を吹っ飛ばしたのは壁際で欠伸しているフラウだし、とっくに過ぎたことを追及したところで埒が明かないため、視線の先をカストルから少年へ戻す。

──傷だらけの矮躯。ボロボロな服装。四肢を拘束する重厚な鎖。腰に烙印されていた奴隷の証。これだけでも懸念すべき要項が揃っているのに、着ているシャツは帝国軍御用達の物ときた。どう考えても“ワケあり”な少年だ。見た目だけだとアリシアと同い年くらいだが、彼は此処に辿り着くまでどんな波瀾な人生を送ってきたのだろうと思量する。
(彼の躯には、わたしの力では消せない傷もあった。たぶん戦闘用奴隷として軍に使役されていたのだろうけど……彼は何歳から戦い続けていたの……?)
途方もない思惟に沈みながら少年の寝顔を凝視していると、突然ふっと影が差した。近くに感じる気配につられて顔を上げれば眉間に触れる相手の人差し指。影も指も、アリシアのそばに寄ったラブラドールによるものだった。目が合えば彼は眉を下げて微笑う。

「眉間にシワ寄ってるよ、アリシア」
「あ、……うん。つい。」
「もう血は止まったんだろ? なら少しくらい肩の力抜きゃあ良いじゃねえか」
「アナタが抜きすぎなだけです」

カストルの毒に「あ゛?」と青筋を浮かべるフラウ。いくらなんでも病室で取っ組み合いを始めたりはしないだろうとアリシアとラブラドールの2人はスルーを貫いたが、フラウの言葉に表情を和ませないところを見ると何か引っ掛かりを抱いているのだろう。
無理もない。自分と同年代くらいの人間が満身創痍の様相で教会に運び込まれたと知ってはアリシアだって心配するに決まってる。まして複雑な経緯と内情を小さな身に背負い込んでいる、と推し量ることも容易な材料が揃い踏みだとすれば──。
心配性というのも時には難儀な性格だ。
難しい顔をして口を噤むアリシアの姿にフラウはため息を吐き、「考えすぎてパンクすんなよ」と釘を刺して低い位置にある少女の髪をくしゃくしゃに撫でた。しかし彼は彼で「女の子の髪をそんな乱暴に扱っちゃダメだよフラウ」「だからモテないんですよ」とラブラドールやカストルから茶々を入れられ、手厳しい意見に「なぁにー!?」と偉く憤慨したが。

「……ん、ッ……」
「ん?」

フラウの大声で自我が浮上してきたのか、少年が煩わしそうに眉を顰めた。けれど瞼は未だ閉ざされたまま。アリシアが瞳にかかる前髪を横に退けてやり暫し様子を窺うと、ベッドヘッド側に回り込んだフラウも同じようにして覗き込んだ。そんな風に見つめたら少年が目を開けた時かなり驚くと思うのだが……。
もう少しで起きそうな少年に声をかけるフラウに注意しまいか悩んでいると、突然アリシアの躯がふわりと浮いた。後ろに引き寄せられて振り向くと、視界に入ったのは薄紫色の髪と花の蔓。

「ラブ? どうし、」
「しっ」

遮られて首を傾げる暇もなく、アリシア達の正面からもの凄い音が響いた。
(言ってないが)言わんこっちゃない。起きて早々フラウのドアップを目にして驚いたのか、はたまた条件反射で敵として認識されたかは判別し難いが、アリシアが目の当たりにしたのは完全に意識を取り戻した少年にフラウが思いっきり蹴られていた場面だった。
ラブラドールに退避させられてなければ今頃自分も巻き添えを食らっていたかもしれない。さぁー……とみるみる少女の顔から血の気が引いていく間にも、少年は身軽な動作で彼らの横をかい潜り、窓を開けて飛び降りようとしていた。
が、そこはタフさの有り余るフラウ。渾身の一撃をその身に受けても屈することなく少年の背中を追い、落ちる躯を寸での所で捕まえて落下を阻止した。

「……クソガキ……ここは4階だ……。こんなに生命力溢れた自殺志願者は初めてだぜ」
「は…、放しやがれ!!」

口からボタボタと血を垂れ流しながらも首根っこを掴んで放さないフラウに、宙ぶらりんのまま暴れて反抗する少年。フラウが先に言った通り此処は4階なわけだが、聞いた上で「放せ!」と言えるのは少年の肝が据わっているのか。もしくは起き抜けでまだ混乱しているだけか。どちらにせよ危険である。
依然として利かん気の強い少年の素振りにやれやれと呆れつつ手に力を込めると、されど自ら引き上げる前にフラウの脳天に重石が落ちてきたような痛みが襲った。その衝撃につるっと手が滑り、少年の躯が空に浮く。だが下に落下するのではなく、なぜか重力に逆らって躯は上に持ち上げられた。

「こんな小さな子をイジめて楽しいですか?」
「誤解だ」

フラウが手を滑らせたのも少年が室内に逆戻りしたのも、すべては不良司教に天誅という名の踵落としをお見舞いしたカストルが原因だった。なんだか今日のフラウは踏んだり蹴ったりだな、と後ろで静観していたアリシアは心底同情するが、カストル達の応酬はいつもあんな感じなので深く突っ込まないことにして。
急激に躯を動かしたから節々が痛むのか、床に膝をつく少年に一も二もなく駆け寄る。ただでさえ警戒の構えが抜けていない彼はアリシアが接近したことでさらに肩を強張らせたが、相手が“女の子”だと気付くと狼狽したような雰囲気が見て取れた。

「それ以上無理を重ねたらせっかく塞がった傷口が開いちゃう。手を出して?」
「……」
「……大丈夫。傷を癒やす以外に何もしないよ」

彼がこれまで置かれてきた環境のことを踏まえると疑われてもしょうがないと眉を下げつつ、アリシアは半ば強引に血の滲んだ少年の右手を取る。勢いに任せて掴んだゆえ彼の躯は大きく揺れたが、振り払おうとはしない様子を見ると治療はさせてくれるみたいだ。それでもお互いに居心地が悪いことは確か。痛くもない腹を探るような眼差しから背くようにアリシアは瞳を閉じて、精神を研ぎ澄ませた。
少年と少女の繋がれた手のひらの合間から淡い光が奔流のように溢れ出す。文字が羅列された術──ザイフォンは座り込む少年の周りをくるくると囲み、ひときわ強く輝きを放ったかと思うと彼の皮膚に浸透していった。同時に潮のように痛みが引いていったことに目を見開く。今までにも癒し系ザイフォンを受ける機会はあったが、彼女の能力はまた特殊なようだ。

「……きみは……」
「ああ、まだ自己紹介してなかったよね。わたしはアリシア。それからこっちは……」
「ボクはラブラドールだよ」
「フラウだ」
「私はカストルといいます。あの目つきの悪い人は気にしなくて良いですよ」

茫然と少年が発した言葉を拾って、彼らは順に自己紹介をしていった。
薄紫の柔らかそうな髪色で、比較的小柄なラブラドール。眼鏡をかけ、理知的な印象を持つカストル。「お前とはいつかケリをつけねーとな」と、にこやかなカストルに向けてボヤいてるのがフラウ。そして今、不思議なザイフォンを使っていた目の前の少女がアリシアだ。そのアリシアに「治療は済んだから一旦ベッドに戻ろうか」と促され、少年は先ほどまで痛んでいた腕を摩りながら言われた通りに従う。
どうやら彼女には、というより異性には強硬な姿勢で出られないようだ。今や借りてきた猫のようにおとなしくなった少年に、フラウは横柄な物言いで言った。

「オレが教会の病院まで運んでやったんだ。感謝しろクソガキ!」
「手当てしたのはアリシアですけどね」
「……教会?」

なんでそんな所に?とでも言いたげな声音だった。意識が朦朧としてるなか長いことホークザイルを運転していたからか、正直どこをどう走っていたのか記憶は無い。途中で力が尽きて鳥から落ちたのはなんとなく覚えているが、それも自信を持って言えたものではないのだ。かろうじて思い出せるのは、脳裡に過ぎった朧気に霞む故郷の雪。あとは躯の至る所に出来た生傷が墜落した事実を証明している。
となるとフラウ達に拾われたのはダウンした矢先になるわけだが……なぜ得体の知れない自分を?といまいち助けられた理由がピンと来ない少年に、フラウはニヤリと笑って自慢げに宣った。

「ま! オレ達、聖職者だからな」
「……」

少なくともエロ本片手に言うことでは無い。あいつは本当に司教なのかと真偽を問われるのは致し方ないことだが、自分たちまで疑われるのは心外だ。
……悲しきかな。こんなことに慣れてしまった自分に虚しさを堪えながら、油断しているフラウの背後に素早く回ったアリシアは一瞬の隙を狙って卑猥物を腕から抜き取る。いっさい無駄のない洗練された動きだった。奪い取ったエロ本をフラウが気付いて騒ぎ出す前にカストルがいる方向へ投げ、キャッチしたカストルは「でかした」と言わんばかりに親指を立てる。
自分の聖書、とまで豪語する大事なそれがいつの間にか片手からすっぱ抜かれてたことにフラウが気付いたのはカストルの手によって焼却処分が下された後で、塵芥同然となった聖書に膝から崩れ落ちていた。正反対にカストルとアリシアは清々しい笑顔である。
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