あの花礫くんの口からまさか夢にも思っていなかった衝撃的発言を聞いて、妙に畏まりながら私も自分の本心を包み隠さずさらけ出した日からおよそ一ヶ月半、早いものでもう間もなく二ヶ月が経過しようとしていた。
あれ以降、私たちの間にどういった変化が訪れたかというとさほど大した様変わりも無く、今まで通りに自分たちの業務をこなして仕事に明け暮れ、休みの日は二人でのんびり過ごし……夜もまあ、花礫くんの底意地の悪さが多少悪化したくらいで。
関係も円滑、全く非の打ち所も無い充実した日々を送っていた。
しかしそんな風に一見、順風満帆と見せかけて、安定していたとある日から私の体調は崩れていった。……いや、何も実際に倒れたとか大仰なほどでは無い。
ただ熱っぽかったり気怠かったり、風邪の兆候かな? と疑うような症状に見舞われることがたびたび増えて、でも日によって調子が好いとか悪いとかムラがあったから単純に疲れてるだけなのかなーと安易に自己解決して暫く様子見を決め込んだ。
けれど一向に気怠さが解消されることは無く、放置して却って拗らせてしまった気がする。
だから今日は花礫くんも「仕事で夜遅くなる」と言っていたから風邪薬を飲んで一足先に休もうと思っていたのに、イヴァ姐さんに有無を言わさず例の飲み会に付き合いなさいと強制的に引きずられてしまって。
現在もその宴は続いており、私はひたすらお酌係りに徹してた訳だけども。
「名前も俺らの酌ばっかしてないで酒飲めよー」
「朔さんは飲み過ぎですよ……ちゃんと一人で帰れます?」
「無理だったら平門んとこに世話になるから心配すんな!」
「却下だ。あいにく俺の部屋には男に貸すスペースなんて無い」
「ひっでぇのー。じゃあ名前と一緒に寝るわ」
「アラ、私が許すとでも?」
「……もっとも、イヴァが許したところで帰ってきた花礫に速攻で寝首を掻かれるだろうがな」
お前ら俺のこと何だと思ってんだよ。とお酒を呷りながらぶつくさ文句を垂れる朔さんに苦笑いを浮かべた。平門さんやイヴァ姐さんから踏んだり蹴ったりな扱いの朔さんだが、これも二人なりの親愛の証だと分かっているから本気で怒る事は無いのだろう。
大概ひねくれ者だからなぁ、姐さんも平門さんも。
なんて私が言ったら間違いなく泣きっ面に蜂、笑顔で嵩をかけながら二の矢三の矢とたちまち畳みかけられるだけだと予想が付くので胸の内だけに留めておく。
なんとも言い難い心境を堪えつつ朔さんの誘いを丁重に断り平門さんのお酌をしていると、突然横に居た姐さんから発泡酒を渡された。
あんたもせっかくの席なんだから飲みなさい、と促され、やり過ごした筈の朔さんや平門さんからもそうだ遠慮するなと同様にせっつかれる。
一度ならず二度までも無碍に断るというのは流石に失礼に値するか。ましてや平門さんや朔さんは上司なのだし……。っていうか平門さんの笑みが恐い。
「俺の酒が飲めないのか?」って目が語ってる気がする。私の思い込みが激しいのかな、はたまたそう錯覚するほど疲れてるのかな。
三人の勢いに圧倒されて、私は発泡酒が入ったコップを受け取り恐る恐る口元に近付けた。
刹那、鼻が曲がるって言ったらそれこそ大袈裟な言い方なのだけど、あながち過言でもない匂いが今日は何故かやけに喉に突っかかって飲むのを躊躇う。
私のそんな動作が気になったのだろう、平門さんが「発泡酒苦手だったか?」と小首を捻って。咄嗟にかぶりを振って否定したものの、私自身良く分からなかった。
苦手では無い筈だが、得意でも無い。
だけど飲む前からこんなに拒否反応を示すことなんて無かったのに……。
疲弊が蓄積されていると匂いや味が極端に強いものは受け付けないのだろうか、でも酸っぱい柑橘類とかはよく進んで食べるし。
うーん、と近頃の自分の理解不能な一連の行動に頭を悩ませていると、イヴァ姐さんが暫し思案するような仕草を取った後おもむろに私の額に手のひらを当てた。
火照った肌に冷たい手が気持ち良くてされるがまま目蓋を閉じれば、ふっと姐さんが息を飲む気配がする。怪訝に思って目を開けば、彼女は険しい表情をしてやにわに私の両肩を鷲掴んできた。綺麗な顔立ちが歪んで間近に接近すると恐ろしい。
姐さんの鬼気迫る雰囲気に、私だけでなく平門さんや朔さんまで一様に瞳を見開いた。
「ちょっ、と、あんた熱あるんじゃないの!?」
「あ、あぁ……大丈夫、微熱だよ。ここ最近体温が上がってて体調にも波があるだけだから。今日はいつもよりほんの少し高いくらいで」
「体調に波……ん、名前待て。それは具体的にいつからだ?」
「えーと……二、三週間くらい前からだったと思いますけど」
「月のものが最後に来たのは?」
「それも言わなきゃ駄目ですか!?」
思ってもいなかった質問に意表を突かれつつ、戸惑って正直に言おうか逡巡していれば平門さんから「これは大事なことなんだ、恥ずかしがらないでちゃんと答えなさい」とこれまた厳しい面持ちで諭される。
狼狽える私を取り囲む朔さん、イヴァ姐さんもいつになく真剣な表情をしていて……。
無用な誤魔化しは逆に彼らの怒りを買うだけだと判断した私は、込み上げる羞恥を押し殺して一ヶ月と一週間前だという事を明かした。
つまり月経は一週間ほど遅れている、ということになる。ますます深く考え込むような顔つきになった三人に冷や汗が流れた。
「……名前は滅多に不順にならなかったわよね」
「そうだね……遅れてもせいぜい一日とか二日くらいで大幅にずれたりはしないかな」
「吐き気とかはねーの?」
「胸焼け程度なら……え、まさかみんな妊娠とか疑ってる?」
「その線が濃厚じゃないのか? 生理不順に著しい体調の変化、発泡酒を咄嗟に避けたのを見ると嗅覚も敏感になっているようだし……」
「まっさかぁ! だってそんな……あ」
確かに花礫くんに子供が欲しいかと問い掛けられて、私は頷いた。肯定した。だからそういう行為の際も避妊は特にしていなかった。
待望の子供が出来ても何ら問題は無いし、私にとってはこれ以上ないことだから。多分花礫くんもそれを望んでくれている……とは、思うし。けどこんなに早く実を結ぶとは思っていなくて。
平門さんの言葉だって、サラッと笑って流そうと思った。しかしそう言えば、と起床時の身体チェックで羊に言われた意味深な発言を思い出す。と同時に意味を理解して、私の顔面からはサァッと血の気が引いていき、自然と全身が強張った。
あ、……あ、まずいかも。
「名前?」
「……なんだか朝に羊が、心拍がおかしいとか言ってたような……」
「聞き取れないってことか?」
「いつもより少し頻脈なのと、ちょっと雑音が入り混じってるって……」
「……ともかく善は急げと言うし、名前は明日、朝一番で燭さんか療師の所へ行って診てもらえ。良いか、くれぐれも仕事するんじゃないぞ」
「なんなら私付き添うわよ」
「やっ、そんな心配しなくて良いよ! 一人で行ける! それより……花礫くんにはこの事、内密にしててもらえないかな」
あくまで憶測の段階でまだ決まったわけじゃ無いし、と所在無く視線を床に下ろした。
心音はひょっとしたら羊の聞き間違いで、体調だってただ単に一過性なだけなのかもしれない。期待させるだけさせておいて異常も何もありませんでしたーなんて、無駄にぬか喜びはさせたくないから。
……まあ先ず第一に、あの花礫くんが素直に喜びを表現してくれるのかさえ微妙な所なんだけども。
内心複雑な私の心情を汲み取ってくれたのか、三人は固く約束してくれた。
今日はひとまずお開きにしようと片付けを羊に頼み、私は早々に寝台に入る。
言わずもがな、結局その日は悶々と色んなことが頭の中を駆け巡ってあまり熟睡出来なかった。
そして翌日。
仕事を終えてどうやら朝方に帰ってきていたらしい花礫くんが眠る傍ら、こっそり部屋を抜け出てきた私は姐さんの見送りを受け、事前に燭先生に連絡を入れて研案塔へ訪れていた。
心臓の音が、うるさい。らしくもなく緊張している。診察室の前で深呼吸する私の姿は端から見れば異様なものだろうが、周りの人達は気にかける素振りを見せつつも話しかけては来ない。
そりゃそうだ、やぶさかに厄介事に自ら首を突っ込もうとは思わない。なんせ私が立ち尽くしてるのは燭先生がいる部屋の前だし。
とは言えいつまでもこうして立ち往生していても通行の妨害になるだけなので、意を決して私は診察室の中へ足を踏み入れた。先生安定の居丈高な態度に若干物怖じしつつ、様々な検査を受けて結果を待つ。
生きた心地がしないまま、固唾を飲んで燭先生の言葉を待てば──。
「ちょうど五週目だな」
「……、……て、ことは」
「懐妊だ」
「…………」
やはり平門さんの予想は外れていなかった。
だけど事実、改めて先生の口から言われるとたったそれだけで肩の荷が降りたような、安心したような。ほっと胸を撫で下ろす私を見て燭先生が胡乱げな顔を見せる。
「違和感を感じてはいなかったのか?」
「いや、風邪なのかなぁ……と」
「……まぁ、妊娠初体験者が良く勘違いするパターンだな。薬を飲んだりはしていないな?」
「飲む前にイヴァ姐さんに止められたので」
「飲んでも胎児に実害は無いが、これからはもし熱を出したようなら直ぐに私の所へ来い。その方がお前も安心だろう」
心なしか前より優しい先生に私の表情も綻んで、「ありがとうございます」と頭を下げた。
緊張の糸が緩やかにほどけて、心からの笑みが不意にこぼれる。
まだいまいち実感は湧かないけれど、ここに、このお腹の中に新しい小さな命が宿ってる。
──花礫くんと、私の子が。
そっと下腹部を指先で撫でて、感慨に耽るように瞳を閉じた。
発覚のちの安堵
(でも、あなたは喜んでくれるのでしょうか)
(それだけが、……ちょっぴり不安で)
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