なんだか今日は至る所で二の足を踏んで躓いてばかりだ。研案塔で診察室に足を踏み入れる時よりも遥かに息をこらして身構えている自分に辟易とする。
目前に立ちはだかるのは何の変哲も無い自室の扉。
いつもなら簡単に開けられるその扉も、今の私にとっては山なんか優に超えちゃうほどの高い壁が聳え立っているようにしか思えなくて。
こんな風に怯んで弱気になっちゃうのも、きっとこの扉を開けたら何も知らされてない花礫くんが待っていると分かっているからだ。
昨日の仕事で一区切り付くと言っていたから、今日は多分一日オフで部屋にも居る筈。
朝は一度必ず羊に叩き起こされるから(起きなかった場合はいささか暴力的な手段を行使される事も)、今は昼寝をしているか或いは読書に耽っているか。製作途中のプラモも合ったから、それを組み立ててるかな。
いずれにせよ花礫くんが居ることは間違いない。
……どうしよう、どのタイミングで伝えれば良い? そもそも何て言えば? 「赤ちゃんが出来ました」って率直に、はたまた他愛もない世間話から話題を広げて徐々に本題へ移してく?
考えれば考えるほど色んな選択肢が浮かんでは却下されて、延々と無限ループが繰り返される。
ああ悲しき悪循環。
いつまでもこうしていたって埒が明かないと腹を括って、私は戦地に赴く気持ちで自室のドアノブに手を掛けた。……ら、私が捻るよりも先に向こう側から捻られて、おもむろに扉が開かれる。
やば、と焦った時には間に合わなくて。ゴン! と鈍い音と共に私の視界は一瞬眩んで、打った額と鼻が一足遅れてジンジンと痛んだ。
「っ、名前!?」
「〜〜っ花礫く、」
「おま、こんなとこでなにボサッと突っ立ってんだよ! っほら、早く中入ってデコ見せろ」
衝撃で蹲って悶絶する私を一目見るなり、花礫くんが血相を変えて同じく側にしゃがみ込み額を押さえる私の手を引いて部屋の中に招き入れた。
すっかり慣れ親しんだ空気に触れて、痛みが緩和されるだけでなくあっという間に身体の強張りも解けてゆく。
そのままソファーに二人揃って腰掛けて、向かい合うような形で座りながら前髪を上げられた。
赤くはなってっけど、擦り傷とかは出来てねぇな……。
心なしかホッとした様子の花礫くんに、けれど私はわりかし狭い彼との至近距離にそれどころではなく。心臓は今にも皮膚を突き破りそうな勢いで早鐘を奏でていた。ぐるぐると思考回路が見事にパニックに陥って、無為に時間は過ぎていく。
こんなんじゃダメ、しゃんとしろ。
先ほどの一件で生理的に滲んだ涙を拭って、目の前に居る花礫くんを見上げた。
……けど、思わず拍子抜けしてしまった。
「……ンだよ、人のカオ見た途端あからさまに肩下として」
「や、なんか気を張ってた自分が馬鹿らしくなったというか……ささくれ立ってた神経が和んだというか……」
「は」
ケンカ売ってんのか、と物凄い剣幕で睨み付けてくる花礫くんに緩慢とかぶりを振った。
……いや、あのね? そんなあちこち寝グセで髪が跳ねてる状態で凄まれても全く恐くも何ともないんだけど。
苦笑いしつつ手櫛で髪をゆるりと梳かせばうざったそうに「ガキ扱いすんな」と振り払われた。
相変わらず素っ気ない。
……さて、生憎と手持ち無沙汰になってしまった。花礫くんと対面している以上いよいよ逃げ場は無い。
落ち着いた筈の心臓は再び喧しく騒ぎ出し、手のひらにじわりと浮かんだ汗を握り締める。
まなじりを決して「話があるの、」と深刻に本題を切り出せば、いつになく私の神妙な面持ちを見た花礫くんは薄く開いていた口を結んだ。
喉から重い石を吐くみたいに、恐る恐る言葉を落とす。
「さっき燭先生のところに行って来たんだけど」
「ああ、羊から訊いた」
「懐妊だって」
「……、……は」
本日二度目の「は」だった。二回目はここぞとたっぷり間が合った。
それきり私たちの合間には水を打ったような静寂が降りて、時計の秒針が進む音だけが空しく部屋に響き渡る。
花礫くんは依然と狐に摘まれたような顔をして固まったまま。何かを考え込んでいる、というよりはただ茫然としている。私の言葉はよっぽど衝撃が強かったのだろう、それこそ私が額を打った衝撃なんか比にならないくらいに。
いつもは二人で過ごすなら沈黙さえ愛おしいと感じるのに、今は僅かな静寂でも肩にのし掛かってどうしようもなく息が苦しい、心が沈む。
まるで胸に鉛が埋められたかのようだ。せめて何か一言でも喋ってほしくて、薄氷の上を踏むような心境で怖ず怖ずと花礫くんに声を掛けようとした。
──でも、俯いていた顔を上げた瞬間びっくりして、今度は私までも同様に硬直してしまった。
だって、花礫くんの顔が、……赤い。
呆気に取られながら紅潮したその顔をまじまじと凝視していると、穴が開きそうなほどの視線に我に返ったのか花礫くんが柳眉を顰め舌を打って、私の腕を無遠慮に引っ張った。
とす、と後頭部を固定されて花礫くんの首もとに顔をすり寄せる格好になる。
「っちょ、マジ、……今、こっち見んな」
「花礫くん、」
「…………嘘じゃ、ねぇよな」
「……この期に及んでこんなタチの悪い嘘を言うと思う?」
「お前自体タチ悪ィし」
「ちょ、それどーいう意味」
奇しくも返事は返ってこなかった。殊更ぎゅう、と強く抱擁されて黙殺される。
「──夢でも、ねぇんだよな。」
未だ半信半疑、といった声音で問いかけてきた花礫くんに、私は胸に込み上げてくる万感を堪えるように瞳を閉じて「……ちがうよ」と否定した。
底意地の悪い嘘でも無い、都合の好い夢でも無い。私のお腹に新しい命が芽吹いたのは紛れもない事実で、揺るぎのない歴とした現実。
暫く動かない花礫くんの腕の中で同じくジッとしていると、やがて言葉の意味を咀嚼して状況が理解把握出来たのか花礫くんの身体が小刻みに震えだした。
前の胸から聞こえる鼓動は、私にも届くほど高鳴ってて。ちらりと覗いた耳は、これ以上無いほど真っ赤に染まっていた。
「花礫くん、泣いてる……?」
「…………ッつ、泣いてねーよ」
「……うん」
身体も声も、震えてるよ。
……とは、言わなかった。
強情な花礫くんの沽券の為にも、気付いていたけど敢えて見ないフリをした。昔よりも格段に大きくなった、だけど今はどことなく頼りない背中に腕を回しポンポンとあやすように撫でる。
すると私を抱き締める腕はもっと締め付けが増して、髪が花礫くんの手のひらによって掻き乱される。こんな加減も無しに強く抱き寄せられるのは私達の関係が始まったあの日以来の事で。
肌に染みる体温が、骨が軋む鈍い痛みが。
なによりも、花礫くんの喜びをひしひしと雄弁に伝えてきていた。
言葉で直接嬉しいと言われずとも、態度や仕草だけでこんなにも身に余る幸福を感じるだなんて。末期、だなぁ、とつくづく実感する。
意地っ張りな旦那様に、されど私も人のこと言えた立場じゃないかと苦笑した。嬉しいけど、幸せだけど、幸福の容積があまりにも膨大でどう喜びを体現すれば良いか分からないんだ。
満ちて溢れて止まらない。
お互い代わりに零れたのは、涙。
「……花礫くん」一音一音大切にくるむように、彼の名を呼んだ。
ピクリと反応する私よりもずっとずっと大きな身体。
「この子の、パパになってくれる……?」
「……お前さ、やっぱバカだろ」
「、んな、人が真面目に、」
「バカだな。ぜってぇバカ。今さらどうしようもねえ、度し難い大バカ。さては脳味噌になんか詰まってンじゃねえの。もしくは中身スッカスカ。良いか、だったらその耳の穴かっぽじってよーく聞けよバカ」
「〜〜っバカバカって……!」
「────俺以外に誰がやんだよ、俺しか居ねぇだろ。救いようのねえバカの面倒見てやれんのも、その子供の父親も」
他のヤツに譲るとか、死んでもあり得ねえから。
身体を離して真剣な、ううん、少し不機嫌な表情で頬を抓られて、思いがけない言葉に私は涙腺が刺激されて、……知れず知れず堰を切ったかのようにボロボロと泣いてしまっていた。
ホンットしょうがねー女だな、なんて花礫くんが文句を言いつつ私の涙を拭いてくれたけど、そんな花礫くんの目許も微かに赤くなって涙の痕が残っていた。
ねえ私達、成長したね。
感慨深く呟けば、当たり前だろと逡巡するまでもなく返ってきた。
……そうだね、当たり前だね。
だけどそんな極々当たり前のことが、すごく、有り難みを感じるね。
自然と私の口からは笑みがこぼれ落ちる。花礫くんの口角もふとつり上がって、先ほどの暗さとは打って変わって穏やかな雰囲気が二人を纏った。
額を合わせ、互いに一息つく。
「……で、次の診察は?」
「今回は、胎嚢だけ確認出来たの。七週目になれば心拍も聞こえるようになるだろうって、二週間後に」
「っつーことは今五週目か……その時、俺も着いてくから」
「え、でも花礫くん仕事」
「行くから」
「……、……うん、心強いよ」
こうなったら何を言っても無駄だ。
何が何でも着いてくる気だと諦めて、私も傍に居てくれたら安心出来ると微笑んだ。
これから先どんな苦難が待ち構えているのか。それは私にも分からないけれど、この温もりがあれば乗り切れるかなぁ、なんて。この時の私は充足感に包まれて安易に事を捉えていた。
待望の我が子と相見える為には、想像に絶する苦しみと困難が沢山あるということ。
温もりが有れば大丈夫とか、そういう次元の話じゃないということ。
それでも私は、私達は貴方に会いたかったから。貴方を抱き締めたかったから。つらくても苦しくても、這い蹲る思いで頑張るからね。
だから、花礫くんと二人で待ってるよ。
貴方が元気に、この世に産まれてきてくれる最高の日を。
不安のちの幸福
(はやくおいで)
(私達の腕のなかへ)
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