「花礫くんって目玉焼きにはソース派? それとも無難に手堅く醤油派?」
「醤油」
「えー、ソースも美味しいのにー」
「信じらんねえ」
そんな何処にでもありふれたような日常の会話。
くだらない内容でもちゃんと耳を傾けながらこまめに相槌を打ってくれて、時にはズバッと臆面なく返ってくる返事に自然と笑みが零れる。片想いの時だったら間違いなく適当に流されていただろう、花礫くんの柔らかくなった物腰に私は常に満たされた気持ちで居た。
開き直ったんだか諦めたんだか。
花礫くんに近付くと暴れだす心臓の爆音を無視して、なんでも笑顔で言えるようになっちゃったり、無言で寄っても撫でてもらえるくらいの距離を手にいれたりした頃には、そういうかつてのアレソレを今の幸福の中で愛しくも懐かしくも感慨に耽りつつ、あの立ち位置にはもう戻れないのだということが時の速さを実感して少し寂しくもなるワケで、それでも私達も進歩して成長していってるのだと思えばこの適度な距離感も心地好かった。
笑って小突きあって、ケンカして仲直りしてまた二人で壁に当たって躓いて。どんなにみっともなく消耗して擦り減った赤い糸が途切れてしまったって、私の右手と花礫くんの左手で何度だって結び直して、ちょっと不恰好になるかもしれないけれど例えどうにもならないくらい絡まってしまったって離れることはないのだから、それはそれで。
だから、ね。
千切れてしまいそうになるのなら、気を取り直して一から結べば良いんだよ。
糸がボロボロになって修復不可能になってしまっても、なら私は糸が残ってる限り目一杯かき集めて手繰り寄せるから。
結ぶのは、あなた自身の手で。
もしも飽きてしまったら、どうか結ぶことはせずに棄てていってね。
「…………が、れき、」
「! 名前っ!?」
ぽつり、揺り籠の中で揺蕩っているような感覚に微睡みながら愛しい名前を口ずさめば、奇しくも驚いたような声音が私を呼んだ。重い頭を動かして億劫な動作で横を見やると、様々な色を宿した黒曜石の双眸と視線がぶつかる。
懸念、安堵、恐怖。
好悪の混じった複雑な情動が滲み不安定に揺らいでいた瞳は、目覚めた私を見て険しさを無くした。
ふにゃりと笑って、気だるい腕を上げて花礫くんの柔らかい頬っぺたをなぞる。
「……お仕事、お疲れさま……おかえり」
「……、んなの、今言うことかよ……」
「大事なことだもん……ほら、花礫くんも、きちんと言って……?」
「っ……ただいま、」
期待して待ち望んだ言葉に、私はもう一度
「おかえりなさい」と言って笑った。
途端に花礫くんはくしゃりと泣きそうに顔を歪めて、ほっぺに触れていた私の手をとって加減も無しに強く両手で握り締める。
いたい、なあ。
でも花礫くんは、もっと痛いのかな。
だったら良いや、陣痛が来た時の痛みと比べたらこれくらいなんてへっちゃらだもの。花礫くんの辛さが紛れるんなら良いよ、うんと握って。私はここにいるから。
どこにも行かない、そばにいるよ。
たくさんの言葉にならない想いを込めて、私は項垂れて震える彼の頭を優しく撫でた。
私が負傷して喰に運ばれて帰ってきた時も、花礫くんはこうやって私の手を握って目覚めを待っててくれたのかな。
触れ合う肌から伝わる熱が篭って、じんわりと蒸した二人の手汗が交わる。普段の冷静沈着な花礫くんだったなら確実に「あっちぃ」とか言って無碍に振り払うだろうに、今はむしろ花礫くんの方から積極的に肌を擦り合わせていて。
「さっきまでお前の手、ホントに冷たかったんだぜ」なんて掠れた声で衝撃的なことをカミングアウトされて、ああまたやらかしちゃったかぁと苦笑した。
順調に子供が産まれて痛みから解放されたのまではハッキリと覚えてるんだけど、それからは徐々に意識が混濁してって呆気なく落ちちゃったんだよね。
まさかそこまで大事になっていたとは知らず、だからこんなに身体が重いのかと呑気にもしみじみ納得した。
はー、と疲れきった様相の花礫くんが顔を上げて深いため息を吐いたと同時に、控えめに病室の扉がノックされる。
おずおずとやや遠慮がちにツクモが顔を覗かせて、私が横たわっていてもしっかり起きてる姿を確認すると沈んでいた面持ちがパァッと明るくなり、弾んだ声色で「名前!」と私の名を呼んだ。
「えっ、名前!? 目覚ましたんだね! 良かった〜!!」
「ごめんねー、心配かけたみたいで。なんとか生還しました。……赤ちゃんは?」
「ええ。やっぱり早産だから少し身体は小さかったけれど、元気な男の子よ。今は他に異常が無いか検査してる」
「何も無ければ明日にでも名前の所に来るって言ってたよ」
「そっか……」
一番に顔、見たかったなあ。
でも出産後は子宮が動くと危ないからってことで一日寝たきりの絶対安静。
つまり自分の足で立って歩いてわざわざ見に行くことも敵わず、明日まで我が子との対面はお預けってことだ。
苦笑しつつも焦れったい気持ちに苛まれて眉間にシワを寄せる私を、花礫くんは何も喋らずじっと窺っていて、私はそんな彼にこれ以上心配かけないように平常心を装った。
多分脆い虚勢も見抜かれてると思うけど。
「イヴァに電話したら今いる闘員みんな集まって連絡を待ち構えてたみたいで、報告したらとても喜んでたわ。名前と赤ちゃんが揃って退院したらまた艇の中はドンチャン騒ぎよ、きっと」
「今ごろ喰くんを通して朔さんとキイチちゃんにもちゃんと報せが届いただろうし、それは確定だねっ」
「ええぇ……私に休まる暇はないのか……」
「引っ張りだこじゃね。子供諸とも」
そんな他人事のように淡々と言わないでくださいな。あなたの息子でもあるのよ花礫くん。
自分のことのように喜んでもらえるのは嬉しいけど、お酒を気兼ねなく飲める口実として利用されるのは実に遺憾である。特に赤髪の大雑把代表。
「まあ細けーことは気にすんなって!」とか言って飄々と笑い飛ばす朔さんの顔が容易く想像出来る。
「無礼講だー!」とか酒瓶持ってはっちゃけてる姿も。
ま、いっか。喜んでくれてることには違いないんだし、お祝いしてもらえたってことで快く甘受しよう。
これで楽しみが一つ増えた。
皆の笑った顔が脳裏を過って微笑めば、珍しくツクモ達が見ている前でも私の手を離すことは無かった花礫くんが
「……あのさ、」とどことなく言いづらそうに口火を切る。
話の腰を折ることを渋るような口調だったから私達三人は小首を傾げたが、次の花礫くんの言葉でツクモと與儀は合点がいったような顔をした。
「悪いけど込み入った話はまた後日にしてくんねえ? 今はとりあえずコイツ休ませねーと」
「そうね。それじゃあ名前、明日また来るから日用品とか必要な物があったら遠慮なく言ってね」
「ありがとうツクモ」
「後動いちゃダメだよ。花礫くんちゃんと見張っててね!」
「分かってるっつの」
釘差すだけに留まらず見張りって……。私は聞き分けの悪いペットか何かか。そして花礫くんも全く反論せずに迷いなく頷いちゃうし……解せん。
ムスッと膨れっ面をした私にツクモと與儀はあからさまに苦笑いして、早々に病室を後にする。ツクモは純粋に体調を気遣ってくれたんだろうけど與儀は確実に私に執拗に絡まれる前に尻尾を巻いて逃げたな。逃げ足の早いヤツめ。
退院したら覚えてろ、と何処ぞの悪投顔負けのことを内心毒づいて全身から力を抜く。
気心の知れた仲間や友人でも人と話す時って無意識に身構えちゃって、緊張するってワケじゃ無いんだけどもついつい肩肘張ってしまう。
すると二人を見送った花礫くんは再びベッドの脇にある椅子に腰掛けて、お腹から息を吐き出した私をまじまじと見てきた。……そんな見られたら恥ずかしくて穴空いちゃう。
キャッ、と照れ臭さを誤魔化すためにふざけたことを言ったら案の定キモいなどと即座に痛烈なお言葉が返ってくる。そりゃ自分でも流石にこの年齢になってまでキャアとか痛々しいとは思うけどさ、せめてもう少しオブラートに……いや花礫くんには無理なお願いか。
すみません……と冷ややかな視線から逃れるように目を逸らせば、花礫くんは何度目かのため息を落としたあと突然立ち上がって私の上に跨がってきた。
予想すらしていなかった行動にギョッとする。
「、なっ、まだ無理だよ!?」
「バカ、違ぇーよ」
襲われる! と思って両腕を突っぱねて花礫くんの肩を拒んだものの、どうやら私の早とちりだったらしい。呆れた表情を浮かべる花礫くんは守りの姿勢に入った私の額に鋭くデコピンを一つかまし、極力私の身体が動かないように配慮しながらゆっくりその身に抱き寄せてくれた。
手だけとは違い身体の隅々まで際限なく彼の温もりが広がっていくようで、これ以上ない安心感に私は瞳を綴じる。
「……よく頑張ったな」俄かには信じられないことに、私の頭を撫でながらあの皮肉屋の花礫くんが耳元でとびっきり甘やかすような声でそんな優しいことを囁くから、安心するどころか胸が苦しくなるほど締め付けられて。
張り詰めた糸は緩んで、いつしか私の目尻からはポロポロと涙が溢れていた。
「……すっごくこわ、かった。急にお腹がいたくなって、破水して。近くには誰もいなくて、痛み、堪えながら急いで先生とツクモに連絡して」
「……ああ」
「時間経つごとにいたみ、強くなってって、呼吸するのもしんどくて、でも点滴とかしたって治まるワケじゃないから、もう移動して産みましょうって、先生たちがバタバタし始めて、も、不安、で……!」
「……傍に居てやれなくて、悪い」
後悔を噛み締めた声音で言った花礫くんに首を振った。
確かに、花礫くんが傍に居てくれたらあれほど不安にはならなかっただろう。
けど花礫くんにも大事な仕事があったから、そっちを放ってまで来てほしかったワケじゃない。今この時だって、火不火はどこかで形を潜めているのだから。
でも、それでも。
「無事に産めて、よかったぁ……!!」子供のように嗚咽を溢して泣く私を、花礫くんは強く抱き締めた。
「明日、子供の名前付けてやろうぜ」
「……んっ。ね。目、とか、どっちに似てた……?」
「あー……多分俺だわ。鼻はお前に似て低かったけど」
「なにそれひどい……っ」
「うるせ鼻ペチャ。早く泣き止んで今の不細工なツラ直せ」
「……うう」
顔も見てないのになんで不細工って分かるんだろう。鼻水やら涙やらで自分でも目が当てられない有り様だってのは重々承知してるけど。
ごもっともな言葉にぐうの音も出せず、二の句を告げない私の頭を途絶えず撫で続けてくれる花礫くん。そっと身体が離されて、コツンと額を合わせられた。
直視した眼差しには、いとおしむような温かな光が灯っていて。
「……おかえり、名前」
「……ただいま、花礫くん」
今回も、あなたの許へ帰ってこれたよ。
私の還る場所はあなたの腕の中。
あなたの還る場所も、どうかずっと私のそばだったら良いな、なんて。
小さな命の誕生は、より一層私たちの絆を強く頑丈に結んでくれたのです。
──梛。
ずっとずっと、あなたに会いたかったの
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