影はまだ微妙に重い目蓋を小さな手で擦り、ゆっくりと気だるげに上体を起こす。
その拍子に今まで自分の身体を包み込んでいた温かい腕は下にずり落ち、眠る女の眉間には微かな渓谷が刻まれた。
まずい、起こした? そう子供は思いがけない起床の前兆に強張ったものの彼女が目を開ける様子は無く。
ほっと胸を撫で下ろした後ふわりと穏やかに微笑んで、少年は「おはよう、まま」とおもむろに眠りこけている女へ顔を近付けた────。
「……ったく、朝っぱらから油断も隙もあったモンじゃねえなテメェは……!!」
「むぐっ」
──が、大変惜しいことに子供の思惑は叶う手前で妨害された。お互いの唇がくっつく寸でのところで、いきなり前触れもなしに割り込んできた手のひら。そのまま後ろに手繰り寄せられ、子供の後頭部に当たった引き締まった筋肉。
耳許で囁かれた声はドスが利いていて、口を塞いでいた手も、現在は子供の頬を両側から指で潰し、唇を尖らせるような格好を取っている。
「コイツの寝込みを襲おうなんざイイ度胸してんじゃねーか……ええ?」子供を凄む男の姿は全くもって大人げない。
相手が自分の息子だろうが誰だろうがなりふり構わずムキになって牽制する彼は、基本的に許容範囲というものが徹底して狭く、そして母親と子供の些細な戯れを微笑ましい眼差しでただ見守ることも出来ない程の重度なヤキモチ焼きだった。息子もそれにはすっかり慣れたようで、背後から剥き出しにされる殺気には怯むことなく果敢に立ち向かう。
かろうじてかぶりを振って抵抗すれば案外あっさりと離れていく手。不満を隠そうともせず後ろに寝返りを打って父親を睨めば、向こうも引けを取らず対抗心を示して鋭く睨み返してきた。火花が散っている。
「なんでジャマするの」
「なんでもクソもあるか。お前こそコイツに何しようとしてんだよ」
「おはようのちゅー」
「寝言は寝て言えこのマセガキ」
「だってまいにちしてるもん」
「 ハァッ!?」
聞き捨てならない衝撃発言に男の唇からはつい思わず素っ頓狂な声が飛び出た。
しー、と息子に窘められてぐっと口を噤む。
今度こそ起こしてしまったかと二人は息をこらして女を一瞥したが、彼女は何食わぬ顔ですやすやと寝ている。一瞬の緊張から解放されて脱力した。
布団を被り、引き続き小声での論争を継続する。
「毎日ってどういうことだよ」
「ぱぱはいつも寝てるからわからないもんね。ままは朝おきたら必ずおはよーって言ってちゅーしてくれるんだよ」
「聞いてねーぞ……!」
「だってぱぱ、ままのおはなしあんまり聞かないじゃん」
図星だった。
語弊を招くようだが夫婦仲が悪い、というワケでは決して無い。単純に彼が聞き流しているだけで、相槌などは小まめに打つようにはしている。
もちろん聞き流していることが殆どなので内容は半々くらいしか覚えていないが。
「しっかりままのおはなし聞いてあげないぱぱがわるいんだよー」プイッと顔を背けた息子は正しく正論を述べていた。
しかしながら自身が幼い頃の目鼻立ちそっくりな顔でそんなことをされると理不尽だとは分かっていてもイラッとする。半ば八つ当たりのように膨れっ面を見せる子供の頬を抓ねり、むっと顔を顰めた子供も負けず劣らず反撃に出て男の二の腕を抓ねっていた。
起き抜け早々だというのに二人とも元気である。
お互いもはや脇目も振らず威嚇の応酬。
その内取っ組み合いにでも発展しそうな不穏な空気となってきた時、ようやくどことなく息苦しい空間を煩わしく感じたのか女がゆるりと目蓋を開けた。
「……なにやってるの二人とも……」
「まま!」
「っ名前……、」
億劫そうに発された声と呆れ返った眼差し。
その二つは白熱していた二人の争いを抑止するには抜群の威力を発揮したようで、彼女の目覚めに気付いた親子は一様に素早い反応を見せた。
男は苦虫を噛み潰したかのように渋い表情を浮かべ、子供はパアッと輝いた面持ちで父親から離れ女に抱き着く。
甘えてくるように自分の胸に頬をすり寄せる子供を恨めしそうに見つめる夫の姿に彼女は苦笑いしていたが、ふいに唇に触れた感触に瞳を丸くした。
「おはよ、まま」
「ん。おはよう、梛」
「〜〜っんな、」
「……花礫くん?」
「…………寝るっ、起こすなよ!」
慣れたようにおはようのちゅーとやらを甘受する女の姿に男は暫し硬直した後、耐えきれないとばかりにそっぽを向いて寝返りを打った。
どうやら母と子の自然に身に付いた習慣が彼にはお気に召さなかったようだ。確実に一人ヘソを曲げている。
息子はほくそ笑み、母はこれからどう旦那の機嫌を直そうか葛藤中。
頻繁では無いが、この父子の果ての見えないいがみ合いはどうにかならないものかと間に挟まれた女──名前は辟易とした溜め息を溢したのだった。
▽
「……ってことがあって、」
「ハハッ、そりゃ大変だったなー」
「もうっ、他人事だからって……!」
大変、なんて一言では簡単に片付けられないほど厄介なんですよー……と項垂れる名前の髪を、隣に腰掛ける朔は悪い悪いと軽く謝りながらくしゃくしゃに乱した。
彼女の頭を痛める苦労の種、憂い事。
それは旦那(籍は無いが)である花礫と自分達の愛しい息子、梛の仲が主な元凶であった。
確執のような軋轢がある訳じゃない、ましてや不和が生じているという訳でも。普段の二人は極々普通で、この前だって一緒にお風呂も入っていたくらいだから親子仲も一般からすれば良好な方だと思う。
但し言わずもがな名前の事に関して以外は、の話だ。そこに彼女の存在が絡んでくると何故か男二人は途端に顔色を変えて互いを睥睨し威圧する。
名前の隣に座るのでさえ俺が、いやボクがと言い争うことなんてしょっちゅう。さながら欲しい玩具を取り合うように。
否、取り合うなんて可愛らしい単語一つで済ませられるのならどんなに良かったか。
モテモテで良いことじゃねーか。と楽観的に物事を捉えて笑い飛ばす朔に、名前は心中複雑な気持ちで苦笑した。
二人から愛されてる証拠、と言えば悪い気はしないのだが、如何せん度が過ぎることが多い。いつ取っ組み合いが始まるのかと窺っていると中々落ち着いてもいられない。
名前が諌めればきちんと言うことを聞いてくれるのが唯一の救いか、後には不服そうな顔が二つ並んでいるが。
「んで、肝心の旦那は?」
「ふて寝してるー」
「ぶはっ、ふて寝……!!」
これまでの話題に干渉することもせず、我関せずと朔からお土産として貰ったマフィンを食していた梛が告げた現状に、想像して堪えきれなかったのか朔はとうとう吹き出した。
それもそうだ。大の男、しかもあの花礫が分かりやすくふて寝など昔だったらあり得ない。拗ねても皮肉や言葉の節々に含まれる棘がいっそう険しくなるだけで、そういった表立つ行動には出なかったからだ。
らしくもない幼稚な行動を取ってしまうほど名前が梛とおはようのキスを交わしていたという日課を知って、あまつさえその光景を直接目の当たりにしてしまってショックが大きかったのか。名前が粘り強く声を掛けても花礫が布団の中から出てくる気配は全く無かった。
「梛ダメだろー? 父親を蔑ろにしたら」
「んぐ、だってぱぱばっかりズルいんだもん。ボクだっていい思いしたい!」
「少なくとも四歳児が言うことじゃねえなオイ……」
「喰が会う度に色々なこと吹き込んでるみたいで……変な入れ知恵ばかり増えて、私も困ってるんです」
「ヘンじゃないよっ」
ただぱぱを超えるには、ぱぱよりも多くままとちゅーすればいいよって教えられただけだもん!
ふんぞり返った息子の言葉に、それでか……と突然おはようのキスなどと理由を付けてスキンシップするようになってきた謎の行動に合点がいって、名前はガクリと肩を落とした。
あのタチの悪い幼馴染みのことだ、絶対に面白半分で梛に悪知恵を与えたに決まってる。恐らくちょくちょくと意中の人との事でからかっているのを根に持っているのだろう、間違いなく名前を困らせてやろうと謀った意趣返しだ。
千里のみちもいっぽから!
難しい言葉さえ巧みに唱える梛は朔も言う通りとても四歳児とは思えない。ズル賢く利発的。
名前の前では一見純真無垢を気取ってはいるが、花礫や他の人物の前では臆面なくその一面を晒し出す。外見だけで無く中身まで父親にそっくりだった。
だからなのか、二人が同族嫌悪のように決着の無い堂々巡りの衝突を繰り返すのは。
「……どうしましょう朔さん……」
「……深刻だなぁ……んー、とりあえず花礫のご機嫌取っておかねぇと、のちのち余計拗れんじゃないか?」
「ですよねえ……」
言外に梛は自分に任せて速く花礫の元へ行け、と朔は語っていた。息子は二人の無言の意思疏通には気付かず目の前に広がるマフィンやお菓子に釘付けになっている、またとない絶好のチャンスを無駄にはするなと相手は苦笑していた。
彼の気遣いに感謝してそーっと名前が食堂から抜けようとすれば、だがしかし梛には鋭い観察眼で「あっ。まま、ぱぱのとこに行くの!?」とあっさり魂胆を見抜かれる。
慌ててマフィンを喉の奥に押し込んで着いてこようとした子供を、朔が後ろから羽交い締めにして「まーまー梛、俺の話し相手にでもなってくれよ」と暴れる体躯を説き伏せた。
今のうちだ。
朔に手でひらりと促され「ままぁー……!」とまるで今生の別れのような悲痛な声を背後に自室へと向かう。
ごめんね、後でたっぷり抱き締めて甘やかしてあげるから。
後ろ髪を引かれながら部屋へと急ぐ名前も、今この時ばかりは母親としての役割よりも夜のことを考えて自分の身の保身に走ることを選んだのだった。
「……花礫くーん……?」
「………」
恐る恐る訊ねるように布団を揺らしても返ってくるのは重い沈黙。けれど布団越しからでも伝わってくる禍々しい空気から察するに起きては居る、と思う。
こうなったら意地でも頑固を貫く気か。ビクリともしない丸まった布団に名前は深々と嘆息を吐き、覗く黒髪を撫でながらおもむろに唇を近付けた。
「────花礫」
「、っ」
「梛なら朔さんが構ってくれてるから。そろそろ機嫌直して顔見せ……った!」
予期もせずに腕を引っ張られて、咄嗟に受け身を取ることも出来ずしこたま強く鼻を打った。文句を言おうと口を開いてもすかさずぎゅう、と抱擁で黙殺される。
子供以上に子供っぽい男の様相に名前はやれやれと肩を竦め、仕方無いと観念した笑みで花礫の広い背中を撫でた。
チクショウ、梛のヤツ……と言いながら耳にかかる彼の吐息がくすぐったい。僅かに逃げるように身を捩れば離さないとばかりに名前を抱く腕に力が増した。
「梛は子供だよ? キスくらい……」
「そうやってお前が甘やかすからアイツも調子に乗んだろ。もう四歳にもなんだからさっさと親離れの準備させろ」
「したらしたで寂しいクセに」
「…………別に」
尻すぼみ気味にポツリと言葉を落とした花礫は寂しくない、とは言い切れないのだろう、言及する名前から目線を逸らし、きまりが悪そうに眉を顰めていた。
いつまで経っても簡単に素直にはなれない彼の姿に名前はクスクスと笑みを溢し、されど次の瞬間には容赦なしに頭突きを浴びせられる。視界に星が散った。
とは言え、花礫も梛も悪態吐きつつお互いのことを大事にしているのは一番近くで見ている名前も当然知っていた。
梛は花礫のことを父親として尊敬し、花礫も梛のことを息子として可愛がっている。
梛が一歳にも満たない頃、寝顔やちょっとした仕草なんかも録画するほどに。
「つかそれとこれとは話が別だろ。何で母親と毎朝キスする必要があるんだよ」
「ぱぱを超える為には先ずちゅーの回数から、ってことらしいよ」
「……ハァ? なんだそれ」
「さあ。喰の悪ふざけみたいだけど」
名前の口から出た名前に全てを悟ったようで、花礫は名前の身体を抱きながら全身から力を抜いて寄りかかった。予想通りの反応に「あははー……」と名前も乾いた笑いを浮かべる。トラブルメーカーもとい幼馴染みがすみません……とも。
「キスの回数だぁ?」
誰に問い掛けるでもなく不満たっぷりに呟いた花礫の声は地を這うような低いものだった。明確な色を孕んだ艶っぽさに名前の腰が引ける。
「……俺を超えようとか百年早ェ」
「……、が、花礫くん?」
「花礫って呼べよ。さっきもそう呼んだだろ」
「いや、あの……目! 目が恐い!」
「名前」
だったら超えさせねーように、もっとキスすりゃ良いだけだよな。
目には目を、歯には歯を。キスにはキスで対抗を? なんて馬鹿馬鹿しい張り合いだ。
とは思ってもこの状況で口に出せるほど名前は命知らずでは無く。近付いてくる花礫の明眸に心臓を高鳴らせながら、頬を掠めた彼の息に目蓋を閉ざした。
──でも、お約束というもので。
「なぎキーック!!」
「、てえっ!!」
「ままのくちびるはボクがまもる! せいぎのひーろーなぎ、さんじょう!」
「〜〜っざけんなクソガキッ!!」
「……名前、わり。俺でも食い止めらんなかったわ」
「……はは……」
イヤある意味助かったかも?
案の定じゃれあいを始めた親子二人の姿を尻目に捉えつつ、名前はほんの少し乱れた衣服を整え苦笑いを見せる朔に礼を言った。
けんけんごうごう。
二人揃って勝手な言い分を連ねては名前の唇に関する所有権だの何だのを争っている。
家族三人だけならともかく、今この場には朔も居るのだ。羞恥心のボルテージが沸々と名前にも募っていって。
「──いい加減にっ、しなさい!!」
業を煮やした女の怒声が、貳號艇に響き渡った。
火蓋は切って落とされた
(いやー、アイツら見てるとホント飽きねえわ)
(だからといってあんまり花礫の癪のツボを突っついてくれるなよ。……見ていてこっちが痛々しくなる)
(なにが?)
(名前への被害が、な)
(ああ……)