──すごく、すごく綺麗だったんです。



一度だけ病室の窓から覗いたことがあるお二人はありふれた恋人の姿で、時折何かを言い争っていたけどでも笑顔で、とても幸せに満ち溢れていました。


まっさらな白い部屋にほとんど隔離されているようなわたしにはその光景は遠くて、眩しくて、



──喉から手が出そうなほど、求めていたものでした。



希望はとっくに潰えた。
期待もとっくに諦めた。



それでも絶望に打ちひしがれることはなく、ただ淡々と、冷静に、現実を受け止めて。


ああ、これもまた一つの天命なんだなと。
残酷だとか無情だとか悲嘆に明け暮れるわけでもなく、無感情にも、そう納得したのです。


だからね、生き生きとして、これから先も未来があると信じて疑わない二人の姿は、諦めてしまったわたしにとって、すごく輝かしいもので。


いいなぁ、なんて。
浅ましくも思ってしまった。


どれだけこの短い腕を伸ばそうと、広い空には届かない。
平らな背中には翼なんて無いから、自在には羽ばたけない。


果たせぬこともあるんだと、
この時、痛いほど思い知った。


その時のわたしには満開に咲き散りゆく桜の花びらが真っ白な雪のように思えて、涙で霞んだ視界の先に居た二人はまるで蜃気楼のように美しかったのです。






「ええっ、名前ちゃんがまた居ない!?」

「そうなのよ。最初はお手洗いかと思って、さっき時間を置いて行ってみたんだけど……まだ戻ってなくて」

「もう、あの子は……! とりあえず早く先生に知らせないと」


そう会話を交わしてバタバタと慌ただしく駆け出していく背中に、ごめんなさいとだけそっと呟く影があった。
死角に隠れて看護士たちの動向を窺っていた名前は、遠ざかっていく足音にほっと胸を撫で下ろしてため息を吐く。

今回で計三度目の脱走。
探す手間を取らせて迷惑を掛けていると思うと大変心苦しいが、たまには寝ているだけじゃなく歩いて気晴らしもしたいのだと、名前は後ろめたい気持ちを振り切って踵を返した。

歩いているとすれ違う人々。
薬品を持って駆けずり回る研究員、談笑に耽る患者同士、颯爽と廊下を闊歩する医師。病室までは届かない喧騒が、ひどく心地好くて心が弾む。
今を生きてる、という感じがするから。
快活とした場の雰囲気に次第に緊張で強張っていた名前の表情は綻んでいって、軽い足取りで中庭へと入り込んだ。

はらはらと舞い散る桃色の花びら。目の前に落ちてきたそれを両手で一枚受け止めて、名前はベンチに腰掛けた。
麗らかな日射しに照らされて中庭の真ん中で咲き誇る大樹を見上げ、眩しさに瞳を細める。光を浴びて散る花びらは、やはり透明な雪のように映った。


「……わたし、目も悪くなっちゃったのかなぁ……」

「なんなら燭さんに調べてもらったらどうだ?」

「っ!」


自分以外に誰も居なかった筈の中庭に声が響いて、されど慣れ親しみのあるトーンに心臓を跳ねさせて振り向いた。視線の先には人受けの良い笑顔を浮かべた──名前にとっては恐怖でしかない──男の姿があって、名前は頬を引き攣らせながら恐る恐る薄氷の上を渡るような気持ちで口を開いた。


「お、お兄ちゃん……ひょっとして怒ってる……?」

「ひょっとしなくても怒っているが」

「……ご、ごめん」


だからその不気味な笑顔止めてコワい、とは言えず、原因は自分にあると分かっているから素直に謝るしかなかった。しょぼんと沈んだ面持ちを浮かべる名前に男がやれやれと肩を竦め、心なしか項垂れた小さな頭を撫でる。
怖じ気づきながらゆっくりと上がっていく顔。
交錯した視線には不安の色が見え隠れしていて、自分が悪いことをしたという自覚はあるんだなと兄────平門はふと笑みを零した。

「また勝手に病室から抜け出したんだってな」

また、を敢えて強調して言えば名前は再び目線を逸らした。その様子からどうやら図星なようだなと平門が察する。暫く顔を合わせない間にこんなにやんちゃになったのか、依然と目を合わせようとしない妹を見て頭を抱えた。


「顔面蒼白で看護士の人たちが俺に泣きついてきたぞ。別に禁止されている訳では無いんだから、病室を出る際はせめて一言置いていくんだ」

「でもそうすると、必ず付き添いの看護士さんが着いてきちゃうの。わたしだって一人で息抜きしたい時はあるわ」

「それはお前のことが心配だからに決まってるだろう? あんまり我が儘言うものじゃない」

「……」


我が儘、というワードに反論の意を飲み込んだ名前の様子を一目見て、平門の胸中には苦々しい思いが広がった。
言い方が悪かった、屈んで目線を合わせながら「すまない」と謝れば同じく苦笑混じりに振られる首。

「お兄ちゃんの言っていることは正しいよ。謝ることなんて何もない。面倒かけてごめんね」

そう屈託なく、微笑んだ。
我が妹ながら、強く逞しい女性に育ってくれたと平門は思う。逞しいとはもちろん肉体的意味では無いが、気持ちの切り替えも早く、滅多に落ち込むことも少なくて。多少融通も利かず頑固なところはあるが、思いやりのある優しい子に成長したと改めて実感する。

兄としては弱いところも支えてやりたいし、甘えてほしいと少し寂しく思うところもある。
しかし一瞬一瞬を笑顔で過ごそうと懸命に振る舞う名前に「泣け」なんて、そんな彼女の努力に水を差すようなこと口が裂けても言えなかった。
蟠る葛藤の渦に蓋をしながら久しぶりに妹の手を握れば、その手は柔らかく温かい。
間違いなく此処に居るんだと、柄にもなく安心した。


「あまり心配させないでくれ……寿命が縮んで俺の方が先に早死にしそうだ」

「やだ、お兄ちゃんは生きて」

「……分かってる。冗談だ」


こんな会話をすることが、ひどく辛かった。

自分にはもう未来が無いと悟っている言い方。
自分は平門よりも先に居なくなってしまうんだと、直に長い眠りに就くのだと、抗うことはせず受け入れたような眼差しを直視することが、悲しかった。

桜の花びらが自身と同じ紫暗色の髪に絡みつく。それを取ってやれば名前の表情はみるみるうちに嬉しそうに輝いた。
「欲しいのか?」と言問えば「うん、」と頷かれる。
何でも彼女は桜の花びらをこうして集めてはお守りの中に入れてるらしく、病室でも暇な時に手のひらに出して眺めているらしい。


「この前抜け出した時に拾った花びらはもう枯れちゃったから……新しいの欲しくて」

「……そうか」


それでこの中庭に足を運ぶようになったのか。

糸が繋がって、平門は桜の花びらを名前に渡したあとおもむろに立ち上がった。
不思議そうに見上げてくる視線に笑い、そろそろ戻るぞと促せば名前も聞き分けよく緩慢と立ち上がる。

もう直ぐ燭の検診の時間だ。
名前にとって唯一の楽しみな時間で、とてつもなく──切なく愛おしい時間。



「────で、また懲りもせず抜け出したらしいな」

「それお兄ちゃんにも言われました」

「……あいつと同じか……」


平門の名前を出した途端、苦虫を噛み潰したような面持ちになる燭を見て、名前はクスクスと鈴を転がすように笑った。相変わらずの犬猿の仲、といっても燭が一方的に平門を目の上のたんこぶとして扱っているだけだが、本当にこの二人の関係性は面白い。
信頼してるのかいないのか。けれど燭がここまで嫌悪感をあからさまに剥き出しにする人物など自分の兄たちくらいしか思い浮かばない。
何だかんだ気は許しているのだろう、否、もしくはただ単純に気遣う価値もないと見做しているのか。どちらにせよ兄たちの自業自得だなと名前は密かにごちたのだった。


「いくら数値も安定していて調子が良いからとは言え、無闇やたらに抜け出したりするな。容態が急変したらどうする」

「ごめんなさい、次からは気をつけます」

「さてはちっとも反省してないな」


言外に含まれた意図を汲んで、性懲りもなく次も抜け出す気満々の名前に、燭がよもやもう掛ける言葉も無いと重々しくため息を吐いた。
「幸せ逃げちゃいますよ?」と揶揄するように小首を傾げれば「そしたら紛れもなく誰かのせいだな」と案の定予想していた答えが返ってくる。
軽口に軽口の応酬。和やかな空気がどうしようもなく嬉しくて、くすぐったい気持ちを堪えながら名前は振り子のように体を揺らした。


「……お前は本当に子供っぽいな」

「あ、さり気なく童顔だって馬鹿にしてます?」

「言動が、だ」


ふ、とカルテを開きながら笑った燭に唇を尖らせた。ほら、そういうところだとすかさず鋭い指摘が走る。
これには流石にぐうの音も出なくて、気まずげに名前が顔を背ければ無線のバイブ音が静かな室内に響き渡る。振動はどうやら燭の胸ポケットから発されているようで、彼は悪いと一言名前に断りを入れてから電話に出た。


「……いや、違うそのデータは……ああ良い、私が」

「……」

「ああ、……分かってる。それじゃそこで待っていろ、直ぐに行く」

「……お仕事ですか?」


通話が終了したのを見て、平坦とした声色で問いかけた。
「ああ、」と首肯した彼を見て、弾んでいた胸が波を引いていく。


「すまない、明日もまた様子を見にくる」

「……はい、お待ちしてます」


気難しい表情で病室を去る燭を笑顔で見送って、扉が隔たれた瞬間、笑顔は消えた。またつまらない時間の始まり。ひとりぼっちの空間に、辟易とした息を落として。


──先生は、きっと知ることは無いのでしょう。


あなたと話す時間を少しでも延ばしたくて、怒られるためにわたしがわざと何も言わず病室を抜け出していること。
一人なんて慣れているのに、あなたが病室を出て行ったあと妙に置いて行かれたような気持ちになること。

布団の中に隠しているこの手が、いつも固く握り締められていること。
だってそうしないと、わたしの方から先生に手を伸ばしてしまいそうだから。


ねえ先生、わたし、わたしね
烏滸がましくも思ってしまうんです


普通に過ごしたいって。
こんな空っぽな部屋じゃない、
もっと温かみのある部屋で、普通に起きて、普通に過ごして、普通に寝て。
お兄ちゃんたちとも、一緒にご飯食べたりしたいなぁ。

あとね、走ったりもしてみたいの。
広い草原を独り占めして、息が苦しくなるほど駆け回ってみたい。
與儀くん達とも、いつか絶対追いかけっこして遊ぼうねって約束したから。

あと、後は。


「…………生きたい、なぁ」


おかしいね、
諦めたはずなのにね

もっとって、ずっとって、
欲が出てきちゃって。

もしかしたらこのまま生きることが出来るんじゃないかなぁってありもしない可能性に縋ってみたくなっちゃって。
そんな可能性、ある筈もないのに。

それもこれも先生のせいだ。

先生と一緒にいるとあったかくて、嬉しくて、満たされて
束の間でも、幸せだなって。


だけど先生の隣はもう埋まっているから、先生には大事な人がいるから、「傍にいて」なんてそんな差し出がましいことは死んでも口には出来ない。

分かっている、…分かって、いた。


(……先生、好きです、大好きです)


だから神様、もう我が儘は言わないから、もうこれ以上のことは何も望まないから、

だからどうか、もう少しだけ


────あの人と過ごせる時間をください。
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