「…………生きたい、なぁ」
それは期待などではない、
彼女の一つの願望でした。
──ちょっとした、昔話をしましょうか。
初めて目と鼻の先、
間近で二人が揃ってる場面と遭遇したのは、わたしが検査帰りで病室に戻る帰路の途中でのことでした。
桜の樹の下で仲睦まじく寄り添っていた男女。それはわたしの主治医でもある燭先生と、以前から先生と恋仲なんじゃないかと患者の間で噂されていた恍さん。
恍さんは研究員の中でも抜きん出て名のある人で、頭脳も才覚に溢れ優秀な人物だと周りからも持て囃されていた。
あ、ぴったりだなぁ。
非凡な才厚く手腕も確か。エリート中のエリートである二人は釣り合いが取れていて、パズルのピースがかっちり嵌まるかのように違和感もなく。つまりは非の打ち所もなくお似合いで、互いが互いに相応しかった。
ちなみに当時のわたしはまだ燭先生のことをなんとも思ってなかった。強いて言うならちょっと一線引かれてるみたいで近付きがたいとか、取っ付きにくい雰囲気の先生で苦手だなぁとか、却って萎縮してたくらい。
だからこの時も先生を見かけた時は(げっ)と内心思いっきり怯んでしまって、でも二人の側を通らないと病室にはたどり着けないからどうしようか二の足を踏んでいた時だった。
タイミング悪く、二人が火花を散らして激しい論争を始めてしまったのは。
「〜〜……ああもう! なんっで燭はそう頭が堅いのよ!! 上とすこーしばかり仲介してくれれば良いだけ、それ以上の支援は何も求めないって言ってんのに何でダメなの!!」
「そんな死亡率伴うリスクが高いものに易々と許可が下せるわけが無いだろう! お前こそ少し頭を冷やせ、身を慎めっ。興味を惹きつけられれば見境なく何でもかんでも手をつけて、挙げ句の果てには実験も失敗続きだと!? そういったのは応分の成果を出してから言え! いつまで経っても改めなければ命がいくつあっても足りないぞ!」
「私は研究に命懸けてんの! そもそも研究者から好奇心なんて言葉が失われた日には、すなわち私達にとって死を意味するのよ!」
「屁理屈をこねるな!」
「燭こそ!」
ああ言えばこう言う。両者一歩も頑なに譲らない主張に白熱していく丁々発止のやり取り。
わー修羅場だー。なんて呑気にも遠目から見守っていたわたしは、けれど喧嘩するならこんな道のド真ん中ではなく別の所でやってほしいなーと途方に暮れていた。このまま立ち往生してるのも楽じゃないし、久しぶりに検査が立て続けに組まれたから疲れて早く休みたいし。
もういっそ何食わぬ顔で横を通り過ぎてしまおうか。そうだ、それが賢明だ。
恐らく過熱した今の二人はお互い以外眼中に入ってないだろうから声を掛けられることもあるまい。
そう意を決して影から一歩踏み出した。……ら、
「っっこの、唐変木! 朴念仁! 頑固オヤジ!!」
「なっ……!」
「ぶふっ」
一生の不覚だった。よもやあの燭先生相手に真っ向から頑固オヤジなどとのたまう人がこの世に存在するとは。
するとわたしの吹き出す音が聞こえてしまったのか、二人が意表を突かれたかのようにしてこちらを振り向く。やっぱり気付いてなかったんだ。
バレちゃったものはしょうがないし笑っちゃってすみません、と肩身狭く出ていけば、彼らは「いや……」ときまりが悪そうに目線を背けた。
横槍が入ってひとまず冷静になったのだろう、それならそれで良かったと胸を撫で下ろす。
ふと恍さんが「あれ?」とわたしの顔をまじまじ見て小首を傾げた。足早に駆けてきて、鼻先がくっつきそうなくらい近付いた明眸にドキリとする。
「あなた、燭の担当患者さんの一人よね? 名前はええーと……そう、名前さん!」
心なしかうきうきと弾んだ声色に、今度はわたしが小首を傾げる番だった。
なんでわたしの名前を…?
怪訝げに眉を寄せて少しばかり高い目線と視線を交わせば、彼女は屈託ない満面の笑顔を浮かべて。
「燭がね、ここ最近あなたの事をよく話すの。どんな辛い治療にも懸命に励む患者がいるーって。危なかっかしくて目が離せないけど、その精神力は凄まじいって。でも脆いところもあるから、毎日話し相手にでもなって僅かでも気を晴らしてやれたらって」
「え……?」
「っ恍!」
「なによ、本当のことじゃない。滅多に人を褒めることしないあの燭が珍しくそんなこと言ったのよ。しかも怖いくらいに優しい! 天変地異の前触れかと暫く疑ったくらいだわ」
「〜〜っ」
もうちょっと丁重に言葉を選べないのかお前は!
なに、オブラートにでも包めっての? やぁよ回りくどいしめんどくさい。
だからといって……!
再び懲りもせず火蓋を切って落とされた口舌戦。けれど今のわたしには二人の間に割って入り仲裁しようと気転を利かせるほど、ろくに思考回路が働いていなかった。
だって、まさか燭先生がそんな風にわたしのことを思ってくれていたなんて。
じゃあ、毎日夕方検診のとき他の人よりわたしの病室に留まる時間が長かったのはわたしを気遣ってのこと?
廊下ですれ違う度、欠かさず声を掛けてくれるのは。
顔を出せない日でも、例え取るに足らないことでも他の看護士さんに伝言を残してくれるのは。
不器用な、やさしさ。
気付いた途端わたしの顔には瞬く間に仄かな熱が集中した。
……っなんて、わたし……!
あらゆる誤解が解けて、今の今まで燭先生のことを苦手だ恐いだとか思って敬遠してたこととか色々申し訳なくなって。
「ごめんなさい!」なりふり構わず頭を下げれば、二人はピタッと言い合いを止めて目を丸くした。
「わ、わたし、燭先生の事とんだ思い違いを……」
「……ああ、別に構わない」
「またまた強がっちゃって〜ホントは傷付いてたクセに」
「恍……そうかそんなに研究費を削られたいか」
「げっ、それは勘弁!」
軽口で場の空気を盛り上げようとしてくれる恍さんだけど、わたしはいまいち納得出来なかった。
そんな不満げなわたしを見て燭先生がため息を吐き、おもむろに腕を動かす。
ポン、と頭の上に乗せられた大きな手のひら。俯いていた顔を上げれば仕方ないなと言わんばかりの苦笑を湛えた先生がわたしを見下ろしていて。
「お前が気に病む必要はない。気にするな」
慎重な手つきでぎこちなく撫でられる温もりに、心臓に微かな痛みが走った。
──きっとそれが、
この胸に芽吹く感情の淡い始まりだったのです。
それから、ねえ。
わたし達の狭間に燻ぶっていた微妙な距離感も見る見るうちに縮まって。
燭先生は変わらず今まで通り毎日わたしの病室へ訪れた。
ある時は嫌そうにお兄ちゃんを連れて、ある時は何かしらの手土産を持って、またある時は恍さんと一緒に。
すごく、楽しかったんです。
空っぽに過ごすしかなかった一日一日が、とてつもなくキラキラとして眩く輝いて。
先生もこの頃から頻繁にわたしの頭を撫でてくださるようになって、辛い投薬に耐えれば耐えるほど
「偉いぞ」「よく頑張ったな」と言って触れられる温もりが、たまらなく嬉しかった。
燭先生の些細な言動に一喜一憂して、でもその感覚がいま自分は生きてるんだって、
此処に居るんだって実感させてくれて。
しあわせ、だった。
恍さんの気持ちなんて、この時のわたしはちっとも汲み取らずに。身の程も弁えず、のぼせ上がって、浮き足立ってしまっていたの。
「────名前ちゃんは、凄いね」
「……え?」
まるで独り言のように呟かれた言葉は、されどわたしにも聞こえてしまって、意図が読めず咄嗟に聞き返した。
恍さん自身も無意識に落としてしまった発言だったのか、瞳を見張るわたしの顔を一瞥するとハッと我に返ったように口を噤んで、狼狽えたように視線を彷徨わせる。いつも一人の時のように耳が痛くなるほどの静寂が病室を包んで。間を置いてから、恍さんは恐る恐ると声を発した。
「どんな苦しい治療にも耐えて、痛みと戦って。常に死と隣り合わせなのに、凛として、強く在ろうとしてて……私だったら間違いなく挫けてたな」
「そんな……わたしだって、一人で乗り越えてるわけじゃないんです。お兄ちゃんや燭先生、恍さん達がこうしてしょっちゅうお見舞いに来てくれるから、次も元気に笑って話せるために頑張ろうって、その一心で……」
「そう前向きに考えて行動を果たせることが凄いんだよ。ただ安易に意気込むことなら誰でも出来るじゃない? ……だけど実際は、上手くいかないのが現実だ。人の心は、思ったよりも脆弱だから」
「……」
「…………私も、病気だったら名前ちゃんみたいに燭に優しくしてもらえたのかな……」
消え入るような声で紡がれた恍さんの本心に、わたしは時が止まったようだった。
固まったわたしを見て、恍さんはばつが悪そうに顔を歪め慌てて「ごめん!」と謝ってくる。かろうじて動いた首を振れば、恍さんは泣きそうな目をしていて。
ひどく、辛そうだった。
ああ、斟酌に欠けていた。
至極当然じゃないか。
いくら患者だからといえど大切な恋人が他の異性と毎日顔を合わせていれば、話していれば、どんな意図があったにせよ……触れて、いれば。
恍さんは不安だったんだ。
燭先生が自分のそばから離れていくんじゃないかと。いつか飽きられてしまうんじゃないかと。自分なんて、そのうち見向きもされなくなってしまうんじゃないかと。見えない苛まれる恐怖に、足をからめ取られていた。
ごめん、ごめんね、名前ちゃん。ごめん。
何度も何度も壊れたように謝罪の言葉を口にする恍さんに、わたしはもう一度ゆっくりとかぶりを振った。堪えきれず涙が溢れた綺麗な瞳に、そっと微笑みかけて。
「わたし、燭先生のことが好きです。でもそれは恍さんと一緒に、恍さん達が二人で並んで楽しそうに笑ってる姿が好きなんです。だから、」
笑ってください、
燭先生のためにも。
泣かないで、
わたしのためにも。
折角の美人さんも顔が曇ってたら台無しです。
だから、ね、
────ほら笑って。
言った後、勢いよくわたしに抱きついてきた恍さんの背中に腕を回して、
……ほんのちょびっとだけ、わたしも恍さんの肩に顔を隠して泣きました。
想いをあの人に告げることは永遠にないと悟ったこの日。
もう決して恍さんを悲しませることのないようにと、馳せた夢に頑丈に蓋をしたこの日。
わたしはわたしと、約束をした。
死ぬ前に想いだけでも、なんて図々しかったね。
そんなの所詮わたしの独り善がり、はた迷惑な自己満足でしかない。一方的に告げられて残された人がどんな思いに駆られるかなんて、考えてもみなかったね。
ごめんね、はこちらの台詞。
だけどわたしは敢えてこう言おう。
ありがとう、
しあわせのかたちを見せてくれて、と。
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