「名前が足りない」
通信を開いて早々に開口一番、神妙な顔つきだったから何事かと身構えれば重い口調で放たれたのはそんな他愛もないことだった。
「……どうしたの時兄、藪から棒に」
「名前が足りないんだ」
「うん、今も聞いたよ?」
「兄さんは! 深刻な!! 名前不足なんだよ!!! 平門ばっかり狡いじゃないか!! 僕は滅多に! ごく稀にしか名前に会いに行けないのに!! 抜け駆け反対!! 断固認めん!!」
「……お兄ちゃんも聞いたら間違いなく呆れかえるよ。時兄はこんなんだけど仮にも!! 腐っても!! 天と地がひっくり返っても絶対に信じられないけど!! 一応輪の統括指揮官なんだから仕事が忙しいのはしょうがないでしょー」
「名前冷たいっっ!! 氷よりも真冬の海よりも遥かに冷たい!!!」
知ったことか。
画面の向こうで如何にも嘘くさい芝居、もとい泣き真似を演じる長男の姿に、わたしは真に受けるのも馬鹿馬鹿しいとけんもほろろに受け流した。
そもそもお兄ちゃんが良く顔を見せに足を運んでくれるのは、中々来れない時兄の代わりにわたしが寂しがらないようにと細やかな配慮をしてくれているからであって、決してお兄ちゃんも暇なわけじゃない。
むしろ此処に来るより少しでも休んでほしいと案じるほどだ。なのに抜け駆けだの狡いだの散々謂われの無いブーイングをお兄ちゃんが受けるのは不条理だろう。
だからお兄ちゃんの代わりにちょっとした意趣返しとして時兄に素っ気なく当たれば、なおも時兄は落ち込んだように机に突っ伏す。ほんと何でこの人トップになれたんだろうと疑問に思いつつ、いざという時は頭も切れるしすごく力になることは妹のわたしが最も知っているので本人に直接言うのは伏せておく。しかしあんた何歳だ。
うっうっと聞こえよがしに向こう側から届く声。
このまま放置したらいい加減膠着状態から抜け出せないと想定したわたしは深々とため息を吐いて「……で?」と渋々話を切り出した。
「わたしにどうしろと?」
「ナース服着た写真を兄さんに送ってほしい。解像度は最高で」
「分かった、看護士さんに相談して着替えてくるね」
「ごめん!! 嘘!! 嘘だから行かないで!!」
うん、本気だったらわたし一生時兄のこと軽蔑してた。
にっこり満面の笑顔で脅し紛いの言葉を口にすれば瞬く間に時兄の顔は血の気が失せていく。
タチの悪い冗談なんか後先考えず言っちゃうからだよ。いつ部下の人にも後ろから刺されても恨み言吐けないよ?
とは言えどそろそろ真剣に兄が可哀想になってきたので重箱の隅をつついて弄るのはこれくらいにしておく。わたしって優しい。超情け深い。
「そういえばこの前組み立ててるって言ってたロボットのプラモデル完成したの?」
「ん? もう少しだぞ。見事に仕上がったら名前に送ってやるからな」
「うん、その気持ちだけ受け取っておくよありがとう」
「目が全く笑ってない!!」
次第に面倒臭くなってきた。
わたしの投げ遣りな対応についに心折れたのか、時兄は嘆かわしいとばかりに頭を抱えた。
仕舞いには「昔は時兄と結婚するーって言って僕の後ろをちょこちょこ着いて歩いてたのに……」なんて遠い過去に想いを馳せる始末。
それ違うよ。お兄ちゃんには言った覚えあるけど時兄には言ってない。妄想による改竄も程ほどにしてほしい。
わたしが時兄に言った言葉は「時兄がどんな怪獣になっても、名前は時兄のこと大好きだからね」だ。確か何かのヒーローショーで出てた悪役が時兄そっくりで、その帰りにそんな理解不能なことを口走った気がする。時兄は単純だから感動してたけど、お兄ちゃんは口を押さえて必死に笑い堪えてた。我ながらこの兄達の扱いの差は一体。
うーんと項垂れる時兄の姿を見ながら感慨深くも思惟に沈んでいると、画面の向こう側から「時辰様、そろそろ…」と終了を勧める声が耳に入る。
ああ、もう通信を始めてから結構な時間が経過していたのか。楽しくて夢中になってたから分からなかった。じゃあ仕方ないな、とわたしが納得すれば、けれど時兄は申し訳なさそうに眉を下げて悪いなと謝った。即座にかぶりを振れば、強張った兄の表情は僅かに綻ぶ。
「お前の元気そうな顔を見て安心した。頼むから次会うときまでその調子で居てくれよ」
「ふふ、頑張るー」
「何か辛いことがあったら直ぐに電話してくるんだぞ。燭に苛められたりとか燭に酷いことされたりとか燭に──」
「あり得ないから早く仕事に戻ってください」
「うっ……じゃあ、な」
「うん、またね」
「……」
「……」
「……ダメだ、兄さんからは名残惜しくてとても自分からは切れそうにない……!!」
「名前さんと遠距離恋愛してる恋人ですかあなたは」
部下さんナイスツッコミ。
おお、と上司である時兄相手に物怖じしない態度に感心しつつ、「勝手に切って良いですよー」と投げ掛ければ頷かれたあとやがて画面が真っ暗になった。やれやれ本当に世話の焼ける兄だ。部下さんも兄のあしらい方をすっかり心得ているようでなんとも頼もしい限り。
ふっ、と笑みを零してベッドに横になると、控えめに扉がノックされる音がした。燭先生は二回、でも今のノックは三回だから恐らく別の人。
誰だろう?
首を捻りながらゆっくりと起き上がって入室を許可すれば、顔を覗かせたのはまさかのお兄ちゃんだった。
「なんだ、今日はまた検査でもあったのか? 前来た時よりも疲れた顔をしているが」
「ああ、それなら確実に時兄のせいだと思う」
「……成る程、通信か」
「時兄が仕事の合間を縫ってくれたみたいで久しぶりに、ね。顔合わせた途端に名前が足りない、とか言って」
まったくあの人は……。
と、案の定呆れかえった表情を浮かべるお兄ちゃんに、わたしはクスクスと肩を揺らして笑った。
確かにちょっと疲れたけど好い気分転換になったよ、と言えばそうか、とお兄ちゃんも優しく笑ってわたしの頭を撫でる。先生とは違う、少し体温の低い大きな手のひら。昔からこの手がわたしは大好きだった。
能力者殲滅のために数多の命を奪ってきた手。されど同時に、能力者となってしまった人の尊厳とか命の重みとか、そういったものを一様に背負って守ってきた手。
何かを守るためには、何かを犠牲にしなければならない。そう矛盾と不合理で固められた世界の理を教えてくれた、兄たちの背中、生き様。それでもなお、しかと現実と向き合って戦う兄たちの姿を見て育ったわたしも、負けられないなとか烏滸がましくも思っちゃう訳で。
戦うものは違うけれど、一歩でも二人に近づけたら。遠い遠い憧れだけど、いつか。
でもそのいつかは、────いつ?
「何か言ってたか?」
「……え、あ、あぁ。お兄ちゃんに狡い、抜け駆け反対! って」
「……何だそれは」
「僕は滅多に名前に会いにいけないのに!! って、怒って……というより嘆いてた?」
「今度また通信したら言っておけ。悔しかったらサボってばかり居ないで自分もさっさと仕事終わらせろ、と」
プラモデルのことだろうか、もしくはこの前の夜貳號艇に忍び込んだとかいうことだろうか。多分お兄ちゃんの口振りからして両方だろう。「分かった釘差しておくね」と素直に頷いて、しかしお兄ちゃんの顔から笑みが消えたのを見てわたしもまた息が詰まった。
「それで? 一体何を憂いているのかなお姫様は」
「…うわあ恐いなぁ、お兄ちゃんの目は誤魔化せないか」
「残念だったな、百年早い」
「ふふ、参りました」
ようやく和らいだ空気に、だけど次には再び凍えてしまうんだろうなと懸念する。
お兄ちゃんから顔を外して窓から漠然と広がる青い空を見つめ、そのまま白を切り通せば良かったのにわたしは──
不用意にも、無意識に、言ってはいけない禁句を言ってしまったんだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「わたし、後どれくらい生きられるのかなあ」
降りた沈黙。
そこでわたしは愚かにも、やっと自分が発した言葉の重みを理解した。微かに歪んだお兄ちゃんの表情を一瞥して、深い後悔に襲われる。
──今日の朝、
今まで仲の良かった小さな女の子が突然心臓発作を起こして亡くなりました。
昨日の夕方までは元気よくはしゃいでて、一緒に折り鶴を作って、「よし、じゃあ二人で千羽鶴に挑戦してみよう」っていつ達成出来るかも分からない無謀な約束して。
まずは「朝までにお互い十羽折ってくること!」って言って別れたんです。
でも今朝、わたしが女の子の病室に訪れたとき、女の子はもう既に息を引き取っていて。ちっちゃくて暖かかった手も、固く冷たくなっていた。
後は羽根を伸ばすだけの作成途中だっただろう折り鶴は、ぐしゃぐしゃにひしゃげていました。
いつかわたしも、あんな風に冷たくなってしまうのだろうか。動かなくなってしまうのだろうか。
真っ白な部屋に、一人で。
身近の死を感じて、今さらひたひたと迫る恐怖に縮こまるわたしの臆病な心。
しわくちゃに歪んだ折り鶴は、今も完成することはなく、わたしの手のひらの中にある。
「……名前、」
「……ごめんごめん、失言だったね! 忘れて」
自分が原因で招いてしまった暗い雰囲気を吹き飛ばすように、さも何事も無かったかのようあっけらかんと笑った。
お兄ちゃんの表情はなかなか緩むことは無かったけれど、言及したところでわたしが口を割ることは無いと察したのだろう。腑に落ちない様子で、けれど程なくして、苦笑混じりに頭を撫でてくれた。
お兄ちゃんはあたたかい、ね。
安らいで穏やかな気持ちのまま委ねるように瞳を閉じれば
そう感じることが出来るのは、お前が今を生きてるからだ。
そう、言葉を噛み締めるように返ってきた。
「もう体に障るから少し休め。俺は暫くここに居るから」
「ん。……勝手に帰らないでね。絶対、絶対よ」
「ああ、約束する」
そうだね
生きてるんだよね
わたしはまだ
ここにいても、──いいんだよね?
恐いような、
切ないような、
幸せなような、
複雑な心情に身を焦がしながら、わたしはもう一度ベッドに横になって瞳を伏せた。
目の前が暗くなる前、ふと視界を掠めた時計はこの間電池を変えたから動いている筈なのに──何故かわたしには、秒針が止まっているかのように映ったのです。
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