あのね、知ってる?

正常な時計の針が止まっているように見える人はね、いずれ自分の中の時間が止まることを感知したから、自分の死期が近いってことを無意識にも理解したから、


そう、錯覚で映るんだって。


「──気道確保! バイタル、ルート急げ!」


ねえ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんはわたしがお兄ちゃんのことをあたたかいって言った時、そう感じることが出来るのはわたしが今を生きてるからだって言ったよね。

でも、あれ? おかしいな。


全然分からないの。
胸が重くて、苦しくて。

看護師さんや顔の知らない先生達が忙しなくわたしの周りを右往左往としているけれどそれどころじゃなくて、ろくに会話も耳に入らなくて、注射針を刺される痛痒すら感じない。
意識は朦朧とし、思考も巡らず、視界は生理的な涙が膜を張って歪んで見えない。なのに自分の籠もった荒い呼吸音だけははっきりと聞こえるの。

後ね、なんでだろう。
愛しい彼の声も、鮮明に。


「名前、気をしっかり保つんだ。苦しみに負けるな、こんなところで簡単に挫けるようなお前じゃないだろう」


ぎゅ、とわたしの手を握りながら懸命に燭先生が訴えかけてくれているのに、今のわたしはそれにすら返事を返せる余力は無い。
ただ、ただ、胸部に圧しかかる重圧を耐え忍ぶことにしゃかりきになって、必死で。
冷や汗流して大きな不安や苦痛と闘いながらも、燭先生の言うとおり心だけは気丈を貫いて。

負けたくない、負けられないよ。だって、せっかくあの燭先生がわたしの手を握ってまで鼓舞してくれてるんだよ。寄せられた信頼に背いて失望なんて、されたくないもの。

だけど、……だけどね。
すっごくすっごく悔しいけど、歯がゆいけど、やるせないけど、

燭先生の手の温もりも感触も、もう全然分からないんだぁ


わたしの手も、身体も、本当に血が通ってるのかなって疑うくらいに芯から冷え切っていって、感覚すら危うくて。
それは、そう。
先日亡くなった女の子のように、氷みたいに冷たくて。

普通ならば、なら尚更に他人の温度が身に沁みるんじゃないかと思うでしょう。いいえ、違うの。
それでも、どんどん刻一刻と、無情にもわたしの身体から温もりは消えていくの。
燭先生はそんなわたしの悪くなっていく一方の容態を見て、いつも刻まれている眉間の皺をより一層濃く深めた。


「……名前、負けるな。決して諦めるんじゃない。必ず助ける、助かる。だから、」


うん、──うん。
燭先生が言うならきっと、確実に、今回も大丈夫だよね。

だって、燭先生だから。
わたしの大好きな人だから。
口にしたことは守る、嘘は言わない、実直なひとだから。

力強く言われた言葉に安堵して、自然と強張りは解けて、わたしは彼に全てを委ねるようそっと瞳を綴じた。
次にこの目を開いたとき、願わくば、先生の顔が一番真っ先に見られますように。

切に、祈りながら。




「────かろうじて危機は免れた。しかし予断を許さない状況だ。いつまた発作が起きるかも分からない、当分は集中治療室にて厳重な注意を必要とするだろうな」

「…そうですか、了解しました。お手数おかけしますが俺がそちらに伺えない間、名前の事を宜しくお願いします」

「わざわざお前になど言われなくとも分かっている。私の患者だ、最後まで責任を持って私が預かる。当然のことを」


すげない口振りでそう言えば、画面越しの平門は珍しく弱々しい笑みを浮かべた。

時辰含めこの兄弟達にとっての掌中の珠、手塩にかけて育てた大事な妹が現在も生死の淵を彷徨っているのだ、無理もない。
仕事では非道な顔を覗かせるこいつにも意外と人間らしい一面があったのかと感慨を覚えつつ、燭は分厚い硝子一枚に隔てられた部屋の向こうを一瞥した。

それは、
誰も予想すらしていなかったことだった。

いや、あらかじめ予測はしていたかもしれない。相応の覚悟も。だけど実際に現実となる日が今日だったとは思わなかっただけ。
他の患者のカルテに目を通していた燭に報せが届いたのは、今朝一番でのことだった。

「名前さんが……!」

妙な胸騒ぎ、虫の知らせは昨夜から燭を蝕んでいた。
しかし翌日、つまりは今日血相を変えて飛び込んできた看護師の口から放たれた名前に、ようやくその胸騒ぎの原因が判明した。
連続の急患続きで疲労困憊した身体など、よもや歯牙にも掛けなかった。なりふり構わず早々に場を後にして、慣れ親しんだ病室に足を踏み入れれば既に名前は様々な機械や針に繋がれた後で、看護師や医師など沢山の人間に囲まれていた。

双眸は虚ろで、息を繰り返すのだけで精一杯という様相で、されどもただ一心に、躍起になって生にすがりついて。
反射的に、彼女の魂をここに引き留めるよう冷たい手を頑なに握っていた。


いつもの笑顔が見れなくなるのを、
いつもの声が聴けなくなるのを、

燭はどうしようもなく畏れた、おののいた。


負けるな、と。諦めるな、と。
名前が意識を飛ばした後も、何度も何度も粘り強く彼女の名を呼びかけて。


「…………名前は、こう言っていました。お兄ちゃんは生きて、と」

「……何だ唐突に。あいつは将来を諦めている、とでも言いたいのか」

「俺ももちろん納得はしていませんよ。する訳が無い。…けれど名前は、」

「私が生かす。何としてでも。例え名前が諦めていたとしても、ならば私は尻を叩いてでもどんな手段を用いてでもその考えを改めさせる。ドナーだって見つける、絶対に」


あいつを死なせはしない。

毅然と頼もしく言い放った燭の姿に、平門は意表を突かれたかのように瞠目した。
彼は一度言った主張は中々譲らない、こうなったら本当に名前の尻を叩いてでも自分の意地を押し切るつもりだろうと想像して、観念したように男が笑う。

名前の主治医が貴方で良かった。……燭さん。

満腔の思いを込めて告げられた礼に、何を今ごろと鼻を鳴らした。
「殊勝な態度など貴様らしくもない、気色悪いから止めろ」神妙に漂う雰囲気を煙たがり、ぶっきらぼうに一蹴して。
「もう切るぞ」と一言断って平門との通信を遮断する。
重いため息を吐き、名前が安静にしている治療室に入ろうと踵を返した刹那──やにわに後ろから呼び止められる声が掛かった。


「……恍」

「名前ちゃんが、倒れたって訊いて……っ容態はどうなの」

「見ての通りだ。峠を越えるまで安心出来ない」

「……そ、う」


走ってきたせいで乱れた呼吸を整えた後、硝子越しに名前の有様を一目収めた恍は絶句したように口を開いた。
悲愴に表情を顰める彼女を見て、燭もまた掛ける言葉を失くしたように黙り込む。

水を打ったかのごとく静まり返る空間。
果たして息をすることはこんなにも億劫だっただろうか、酸素を肺に送るための気道は息苦しさに狭まって。まるで真綿に緩やかに首を絞められているかのようだ。あながち間違ってはいない比喩表現に燭は辟易としながら、どうしようかまごつく恍へ「……で」と話を切り出した。


「お前は途中の実験を放り出してまでわざわざ来たのか」

「放り出してはいないわ! ……ちょっと、いやかなり無理を言っちゃったことは否めないけど……」

「なら直ぐに戻れ。名前には私がつくから心配は無用だ」

「……ねえ、燭」


──名前ちゃん、後どれくらい保つの?

恐る恐る投げかけられた問いに、燭の眼差しは剣呑とした光を宿して恍を射抜いた。
びくり、咄嗟に反応して竦められる肩。
彼のこんな敵意を剥き出しにした険しい表情は未だかつて見たことがない、あたかも蛇に睨まれた蛙のように狼狽える女は愕然と立ち尽くすしか為す術がなかった。


「どれくらいも何もない。あいつはこれから先もずっと生きる。自分の人生を歩んで、全うして、それから幸せな生涯を終えるんだ。まだ潰えていい命じゃない、そうはさせない。誰がなんと言おうと私が名前を助けてみせる。どう足掻こうとも名前がここで果てることが天命だというのならそんなもの、────糞喰らえだ」

「……燭、あなた……」

「……語りすぎたな。すまない」


燭の言葉に、されど恍は何かを悟ったように物静かに笑ってかぶりを振った。

垣間見えた、名前に対する彼のひたむきな思い。

どこまでもお高く留まって気位も高くて、自尊心の強い男の、しかし滾るような熱い意志。
それを真っ正面から受けた恍は肩を落として、おもむろに身を翻し背を向けた。

「名前ちゃん死なせたら許さないから。」

強気に言い残して、元居た仕事場へ戻った。
小さな背中を見送った燭も留まっていた足を動かし、今度こそ再び集中治療室に入る。


「……名前、」


慎重に透き通るような白い手に触れる。脈は依然弱いまま。温もりも、無いに等しくて。

いつの日か、「お兄ちゃん達に恩返し出来るよう頑張って元気になるんです」とあどけなく笑いながら胸を張っていた名前の姿をふと思い出す。
けれど今はそんな輝かしい過去とは一転、彼女の表情から血の気は失せて、さながら密やかに呼吸を繰り返す人形みたいで。

今までに幾度も、自分の患者が同じような状況に陥った場面には直面してきた。
だが名前は、名前の場合だけは何故か特別な意味もなく無性に焦って、らしくもなく動揺して。
どの患者も平等でなくてはならないのに長年の情にでも絆されたか、彼女が幼い頃より付き合いのある燭はやや自嘲気味に口角を上げた。

恩返し、するんだろう。

こんな所でへばるな、いつも私に軽口で楯突いてくる根性を見せてみろ。
死んだように眠る名前の髪を、優しく撫でて。


「────生きろ、名前」


懇願するように、呟いた。


この時、去り際に泣きそうに微笑んでいた恍の気持ちを少しでも汲み取ってやれていれば、震えていた脚に気付いてやれていれば、固く握りしめられた拳を指摘してやれば、何か一つでも違う結末を迎えることが出来たのだろうか。

なんて、
所詮、転ばぬ先の杖。

後になって後悔しても、遅かった。
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