あの子にはいつだって今だけの我慢だ辛抱だと、
根気強く幾度も言い聞かせて苛酷な忍耐を強いてきた。


「名前、海に行きたい!」


他の仲の良い患者から外界の色んな話を訊いたのだろう。
何の穢れも知らない、無邪気な満面の笑顔を浮かべてかつてそう言ってきた幼い名前に、されど俺は無言で首を振ってその純粋な、なんてこと無い小さな願いを無碍に振り払った。

「お前は他の人間と違って身体が丈夫では無いんだから、海なんて無理に決まってるだろ?」

実際、名前の身体は弱かった。運動をすれば心臓に多大なる負荷が掛かるから出来ないし、ちょっと離れた距離を歩くだけでも直ぐに息が切れる。
呼吸が乱れれば必然的に血中に含まれる酸素濃度は低くなって、それでも全身に酸素を運ぼうと神経が過敏になり脈も速くなるから心臓への負担が増えるのは同じこと。
ちょくちょくとこまめに休憩を挟めば長い間歩くことは可能だと言われていたが、少し休んだだけで消費した体力が一気に回復する訳でも無い。最大限の注意は必要で、僅かな楽観だって赦されないのだ。

もしも遠出をしている時に発作でも起きて名前の身に万が一の事でもあったら。そう最悪の事態を想定すればするほど難渋して、此方としては針の筵に晒されているかのように気が気では無かった。


好奇心は猫をも殺す。
大事だから、心配だからこそ俺は敢えて曖昧に口を濁さず、期待もさせず、残酷な事実を突きつけて名前を諭した。

──けれど、その選択は果たして正しかったのだろうか。

名前はその日を境に、
ぱったりと「自分の願い」を口に出すことは無くなった。


「……お兄ちゃん……?」

「……ああ。大丈夫か?」

「薬の副作用でちょこっと微熱が出ただけだから……へーき。吐き気も無いし、ご飯もきちんと食べられるから」

「そう、か」


ある日仕事の合間を縫って病室へ訪れれば、寝台の上で熱に浮かされた妹の姿があった。
微熱だなんて嘘を吐いているのは明らかに一目瞭然で、本当は喋るのさえ億劫で辛いのだろう。外の空気を吸いながら日光を浴びることも儘ならず、病的なまでに白い頬は紅潮し、繰り返す呼吸音もひどく荒れていた。

しかし名前は焦熱を持て余す苦悶の表情などおくびにも出さず、あたかもこれくらいへっちゃらだとばかりに平然を装って笑う。微笑う。


────その刹那、俺の中に渦巻いたのは自分への失望、だった。


まるでつけこむ隙を与えない、完璧なまでの綺麗な笑顔。けれどそれは咄嗟に繕われたもので、偽りでしかない上っ面だけの鉄の仮面。
時を経て成長し、少女から女性として羽ばたいた名前は大人としての身の振り方を覚えただけでなく、いつの間にか自分の作り方も習熟していた。


周りが思い描く良い子の虚像。
名前が何気ない一言を、我が儘を言えば俺たち兄弟も含めた周囲が困ってしまうから、だから。


どこかに行きたい。
──心臓に負担が及ぶから駄目だ。

あれを食べたい。
──あれは身体に悪い、それよりこっちの方が栄養分も豊富だからこれを食べなさい。

みんなと会いたい。
──疲れるだろう? 体調が万全な時にでも、な。


あれも駄目、これも駄目。
じゃあわたしはいったい何をしたら良いの? ただ治療だけに専念していろということ?


いつだって有耶無耶に流しあまつさえ窘める俺たちに、そんな不満は名前の中に鬱積していったのだろう。
でも言えない、言える筈も無い。自分は結局周りによって生かされていて、調子が良くなければまともに一人で歩くことも出来ないのだから。
名前の性格からしてそんな差し出がましく図々しいこと、身の程も弁えず言えるわけが無かった。


なら至極簡単なこと。
本音を殺しちゃえばいいんだ。

お兄ちゃん達には気付かれないように、これ以上もう迷惑も面倒も掛けないように。

命が在るだけで十分だから。


そうやって、
……きっと名前は望むことをあきらめた。

すまない、俺はお前の悲痛な心に気付いてやれなかった。いや、見て見ぬフリをしてジッとやり過ごしていたんだ。

聡い名前ならば分かってくれる。
根拠も無いのにそう勝手に決め付けて此方の都合を押し付けて、俺たちは愚かにも無意識に、優しいあの子に俺たちにとっての理想の妹像を演じさせることを強要させてしまっていた。


だから、安心したんだ。
名前が懸想を堪えた眼差しで燭さんを見ていると感づいた時、この子も普通の健康な人間と何一つ変わらないことを体験する事が出来たんだと。

同時に不安だった。
燭さんには、とうに大切に想う女性が居たから。
けどそれでも構わないのだと、想うだけならタダだと、名前は屈託なく笑った。


「わたしはあの二人が好きなの。想いが報われないからってそれでわたしが傷付いてあの二人を、ましてや恍さんを恨むなんてお門違いも良いとこだよ」


だから二人にはしあわせになってほしいなあ。

何も知らない人間からすれば、偽善的な奇麗事にしか聞こえなかったかもしれない。
だけど名前は真面目だった。真剣に、二人の幸せを祈っていた。願うことを、望むことを放棄したこの妹が。一心に、ありのまま。

(───お前も幸せになっていいんだよ)

とは、口が裂けても言えなかった。
言ったところで、名前はまた薄っぺらい仮面を張り付けてかわすだけだろうから。

今までさんざん名前の言葉を流してきたのは自分なのに、いざ自分の言葉が流されると途端に虚しくなるなんて馬鹿馬鹿しい。ふと自嘲を落とした。


「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「わたし、後どれくらい生きられるのかなあ」


だがこの言葉だけは、どうしても流す事は出来なかった。

なんの感慨も無く、淡々と冷静を保って呟かれた言葉に心臓が鷲掴まれたようだった。
いつも燭さんからは邪険に扱われるほど憎たらしく回る口も、今この時ばかりは動かなくて、瞬く間に凍りついたようで。話そうとしても、音にはならなかった。

かろうじて発することが出来たのは名前の名前。

……不甲斐ない兄だな。
忘れて、と慌てて取り繕うお前に、何の励ましの言葉も掛けてやれない。ただ、小さな頭をそっと撫でるだけで俺には精一杯だった。

あの時どうすれば、なんて言ってやれば良かったのか。
その答えは、未だ見つからない。




「………、……」


やがて夢の狭間から、徐々に意識が浮上した。

腰掛けたままうたた寝をしていたから首が痛い。
凝りをほぐすように一度回せば微かな痺れが後頭部まで伝って顔を顰める。ふっとおもむろに視線を逸らせば、浮かない顔をしたツクモが「ごめんなさい、起こした……?」と恐る恐る窺ってきた。

ツクモの気配すら気付かないほど感覚が鈍っていたのか。
寝起きの頭はやけに重く、眉間を揉みほぐしながらいや、とツクモの問いにかぶりを振る。
彼女の手には幾つかの文献が握られているから、恐らく報告に必要な書類を集めに来たのだろう。

暫く根を詰めすぎたか……。

ろくに睡眠も食事も疎かにしたまま仕事に没頭していたから、あらゆる機能が低下しているのだと思い至ってため息を吐く。自分がこんなボロボロの状態じゃあ名前にも厳しく言えないじゃないか全く。

面目も立たないな、と頭を抱えた俺を見てツクモが心配そうに眉根を寄せた。
どうやら俺がここ最近自分が休む為の時間を取っていないことは周知の事実となっているようだ、部下に無用の心配を掛けさせたことに己の落ち度を実感する。
とは言えど今やっている仕事が一段落着くまではゆっくり休む気はさらさら無いが。ツクモも頑なな俺に何を言っても無駄だと既に観念しているのだろう、案じている面持ちだが我を貫こうとはしてこなかった。


「……名前さん……意識は、まだ?」

「峠はひとまず越えたが、目はまだ覚まさないそうだ」

「……大丈夫よ、名前さんなら。だってあの名前さんだもの、平門の想いを裏切るようなことはしないわ」

「……ああ、そうだな。ありがとう、ツクモ」


……やっぱりバレていたか。
俺が名前のことを考える余り、思わず「もしも」の仮定まで想像してしまうからやむを得ず考えないように無心で仕事に打ち込んでいること。

燭さんから珍しく通信が入って峠を越えたと聞いた時は、未だかつて無いくらい安堵で全身の力が抜けた。
胸のつかえがスッと取れたような解放感。どれだけ意識しないように専心していてもやはり密かにはそれなりの重圧は感じていたのだ。

「非情なお前にも人間味あふれる一面があったんだな。意外だった」。

俄かに信じがたいといった表情で告げた燭さんに心外ですね、と苦笑で返した。そりゃあ俺だって人間ですから。


心から笑うことだってあれば、
心を痛めることもある。


(ただ、大切なんだ)


お兄ちゃんたちとあったかいご飯たべたいなあ、と少し物憂いげに呟いてたあの子が、
いつか元気になってお兄ちゃんたちをギャフンと言わせるの!と意気込んでいたあの子が、
お兄ちゃんとけっこんする!とはしゃいでいたあの子が、

どうしようもなく愛しくて、決して何物にも代えがたい、かけがえのない宝物。


「勝手に帰らないでね。絶対、絶対よ」

「ああ、約束する」


なあ名前。
お前がそう望んでくれるなら、俺はいつまでもお前の側に居てお前を近くで見守っているよ。それこそ絶対、お兄ちゃんとの約束だ。なんなら針千本飲んで誓ったって良い。

だから、どうか。
最後まで生きることを諦めないでほしい。
求めることを、願うことを止めないでほしい。

お前が生きてくれることを懸命に祈る人間は、ここにも側にもたくさん居るから。


「──死ぬな、名前」


悲願を口から絞り出すように、呟いた。


その時たまたま艇の窓から視界に映った大樹の花は、確かに俺にも白く霞んで朧気に見えた。
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