俺があの人にいの一番に抱いた印象は、平門サンとは違って儚げな女の子だなぁ、だった。
だってあの平門さん達の妹さんだよ?
もっと何かこう、どっしり腰を構えた逞しい女性とか、もしくはお兄さん同様胡散臭さが滲み出ているような女性というか、言葉ではとても形容し難いけど勝手なイメージを膨らませて勝手に緊張していたんだ。
だけど実際会ってみたら、想像していたような人物像とは全く異なって。
思わず扉の前で呆然と立ち尽くして、息を飲んだ。
なんの生活感も温かさも無い真っ白な四角い部屋にただ一人、ポツンと佇んでいた影。
細い肩はものすごく頼りなくて、危うげで。ちょっとでも迂闊に触れたら砂上の楼閣みたいに呆気なく崩れ落ちちゃいそうで、もちろんそんな筈あるワケ無いって理解はしていたけど、無闇に話しかけることすら躊躇った。
でもね、面と向かって話してみたらスッゴく良い子だったんだ。あ、いや、俺の方が年下なのに良い子、っていう表現は失礼なのかな。
けど名前さんは年上って感じがしなくて、名前さん本人からも砕けた話し方で良いよって言われてるからつい。
……って言ったら、それこそ名前さんがむくれて臍曲げちゃうかな。でも最後は結局イタズラっぽく笑って許してくれるんだろうなあ。そんな人だから。
──だから名前さんが峠を越えて無事に危篤状態から脱したって話をツクモちゃんから訊いて、心の底からホッとしたんだ。よかった、またあの笑顔を見ることが出来る、また名前さんとふざけて笑い合うことが出来るんだって。
弾んだ胸の内を抑えられないまま、俺は今日平門さんの代理として名前さんの経過と様子を見るため研案塔に訪れることになった。
正直ここ最近の検診サボってたから燭先生とうっかり遭遇したらって考えると尋常じゃなくコワいけど、名前さんに面会する為には勇気を奮い立たせて行くしか無い。行け、挑戦するんだオトコ與儀! お前なら成し遂げられる!
と、まあ自分を鼓舞しつつ出来る限り神経を尖らせて、周囲にも余す所なく入念に警戒を配る。
花礫くんが今この場に居たら間違いなくキモいとか言われちゃうんだろうけど、俺には死活問題だからある程度挙動不審なのは目を瞑ってほしい。
……燭先生は居ないみたい。鬼の居ぬ間になんとやら、だ。この隙に一気に病棟に駆け込む。
用心を怠らないように自然と抜き足差し足になりながらも、俺はなんとか命からがら名前さんの病室に足を踏み入れることが出来た。
いったい何事かときょとんと小首を傾げる当の名前さんを尻目に、俺はようやく肝を冷やすような身の細る思いから解放されたことによってズルズルと地面に座り込む。
ミッション達成だ。ほら見て俺ってやっぱりやれば出来る子なんだよと痛々しくも自画自賛。
けれど俺は最も大切なことを失念していた。
どんなに優しくて物腰穏やかでも、名前さんは紛れもなく平門さんの妹なんだということを。
「…………あ。成る程。燭先生ー! 與儀くんここに居ますよー!」
「のわあああっ! 名前さんダメ止めてーっ!!」
肝を潰すどころか意表を突かれて心臓が口から飛び出てくるかと思った。危なかった。
くすくすと悪びれもなく笑いを零す名前さんに、
「ヒドいよー!」と涙ながらの文句を口にしながらよたよたと近付く。ごめんごめんと名前さんは謝ってくれたけど、それにしたって洒落にならない冗談だ。
うう、もし今の声が燭先生に届いてたらと思うと胃が痛い。穴が開いちゃいそうだとお腹を撫で擦る俺に、しかし名前さんは「安心して」と微笑んだ。
「先生なら今日はZの円卓に行ってて今は居ない筈だから。お兄ちゃんもでしょ?」
「……あ。そっか……」
という事は全部俺の取り越し苦労だったのか……。
少し考えれば分かることに言われるまで気付かなかった。途端に頑として身構えていた体勢から脱力して、名前さんが腰掛ける寝台の脇に上半身を突っ伏す。
視界は布団に覆われてるから真っ暗で何も見えないけど、多分名前さんは優しく微笑んでるんだと思う。頭を撫でてくれる手は、温かかった。
次第に心地よくなってうつらうつら微睡んできたその時、俺の背中を何かが這いずり回る感覚がした。
……な、なに? 悪寒? いやでも肌に直接触れる感触あるし……気のせい?
ううん勘違いなんかじゃない。これは……毛?
───虫!?
刹那、空調の音のみが響いて静かだった病室には「キャーッ!!」という俺の金切り声に近い悲鳴が木霊した。今度こそ名前さんが何事だと瞳を見開く。
でも俺はそれどころじゃなくて、服の中で蠢くそれを早く取ろうと必死だった。暫しそうやって悪戦苦闘していると、ポロッと問題のブツが背中から落ちていく。
やっ、やっと取れたー…! と俺が束の間、胸を撫で下ろせば、されど「ハーティーちゃん!?」という名前さんの驚愕に染まった声で我に返った。
……え、ハーティーちゃん?
「チィッ?」
「えええ何でここに! というかいつ俺の服の中に忍び込んだの!? 燭センセの部屋に居たんじゃないの!?」
「與儀くん落ち着いて」
不測の事態に遭うと直ぐ狼狽えるのが俺の悪いクセだ。
混乱してあたふたとハーティーちゃんと名前さんの顔を交互に見やれば、他でもない名前さんに窘められた。
そうだ、ひとまず俺が落ち着き払わないと。深呼吸して、床に座り込んで無垢な瞳で見上げてくるハーティーちゃんを見つめる。
ど、どうしよう……このまま放っておいちゃったら燭先生が戻ってきたとき探すよね。だけど今行っても誰も居ないし、看護師さんに言って預かっててもらった方が……? でもそれも無責任だしなぁ。
今後の対処に頭を悩ませる俺を余所に、名前さんは大して動揺もせず平然とした佇まいで床に居るハーティーちゃんに手を伸ばした。
──だけど、ハーティーちゃんはいきなり全身の毛を逆立てて名前さんの手を噛みつかんばかりの勢いで牙を剥き出しにして拒んだ。初めて見たハーティーちゃんの頑なな拒否反応に、次は俺が瞠目する番。
「……うーん……やっぱりまだ懐いてくれないか……」
「……いつもこうなの?」
「うん、何でか私だけこうやって威嚇されるの。部屋にはわりかし頻繁に遊びに来てくれるんだけど…燭先生がよく出入りするからなのかなぁ」
「……んー、ハーティーちゃんどうして……?」
少し寂しげに表情を曇らせて手を引っ込めた名前さんの代わりに、俺がハーティーちゃんを抱き上げて頭を撫でる。
ハーティーちゃんは名前さんに牙を向けたときの刺々しい雰囲気とは打って変わって、俺に頭を撫でられると嬉しそうな声を上げて瞳を綴じた。
扱いの差に名前さんが腑に落ちないような顔をしてじゃれる俺たちを無言で見守る。若干怖い。
「……もしかしてわたしが燭先生が目の敵にしてるお兄ちゃんの妹だから……!?」
いやソレは無いと思う……。
ハッと合点が行ったかのように頷いた名前さんには残念ながらそう突っ込めなかった。そのままにしておいた方が名前さんの傷は浅いかなって思って……すみません平門さん。名前さんは遺伝子レベルでハーティーちゃんに嫌われてるって事でまかり通してください。
だけどホントにどうして……?
名前さん優しいよ? ハーティーちゃんにヒドいことしないよ? 顎の下を撫でふわふわの毛並みを堪能しながら問い掛ければ、ハーティーちゃんはフイッと素っ気なく顔を逸らす。名前さんがそばでショックを受けた顔をした。……うーん、ひょっとしてこれ以上は名前さんの傷を抉るだけかな。
そうと判断したら意を決して、ハーティーちゃん抱えたまま扉に向かって歩き出す。たまたま廊下を通りがかった燭先生の部下の人にとりあえず事情を一から話して、燭先生が帰ってくるまでハーティーちゃんを保護してもらうことになった。踵を返して俺がもう一度椅子に腰掛ければ名前さんは依然と浮かない面持ち。
「、あ、えーっと……名前さん元気出して! きっとハーティーちゃんも直ぐ名前さんに懐いてくれるよ!」
「わたしの何が駄目なのハーティーちゃん……」
「もーう!! 名前さんは笑顔が似合うんだから! ほら笑って! 俺名前さんの笑った顔見に来たんだから!」
「うっうっ」
「名前さんってば〜!」
「ううっ……、ぷっ」
「……え。今笑っ……、まさかからかったの!?」
顔面を両手で覆い隠して泣いたような声を上げる名前さんを懸命に慰めていれば、だけど隠された手のひらの中から吹き出すような音が聞こえた。
小刻みにわなわなと震えていた肩は、どんどん大きく揺れていって。明らかに泣いてるんじゃなく笑ってるんだと窺える仕草に、一芝居打たれて騙されたと知った俺は青褪めた表情から一変見る見るうちに紅く染まっていった。
ホント與儀くんはからかい甲斐があるなぁ。
お兄ちゃんからも可愛がられてるでしょ? と笑みを押し殺せずあまつさえ瞳に涙を浮かべながら問うてきた名前さんに反論の余地も無かった。確かに平門さんにもからかわれることが多いけど……。む、と膨れっ面をした俺に名前さんは笑って、ごめんね。とまたゆっくり頭を撫でてくれた。髪に絡む華奢な指先が気持ちいい。
──……すき、だなぁ、
なんて、絶対叶わない想いを胸に閉じ込めて、瞑目した。
その瞬間、無遠慮にガラッと扉が開く音がした。名前さんに身を委ねるようにしてた俺は慌てて起き上がり、姿勢を正す。
驚いた俺達の視線の先に居たのは、Zの円卓で会議に赴いた筈の平門さんだった。
あれ、もうそんな時間?
壁に掛けられた時計を一瞥すればとっくに会議は終わっている時間で、それなら平門さんが此処にいるのも納得出来た。でも何でそんなに急いで? 息も微妙に切れてるし、表情も、ちょこっとだけ厳しいっていうか……。
痺れを切らして俺が平門さんに声を掛けようとした時、それよりも寸分早く平門さんの方から口火を切った。
「名前、……心臓移植の適合者が見つかった」
その言葉に、俺に言われた訳でも無いのにまるで時が止まったかのようだった。
鬼が出るか蛇が出るか。
その結末は、まだ誰にも分からない。
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