「名前、……心臓移植の適合者が見つかった」
あの滅多に余裕の表情を崩すことの無いお兄ちゃんが険しく眉を顰めて、浅く息を切らして、
でも決して取り乱すことは無く冷静さを保って放った言葉に、わたしは頭が真っ白になった。
諦めた筈の期待。
潰えた筈の希望。
まさか、こんなタイミングで一条の光が射し込んでくるなんて夢にも思わなくて。
病にどれほど八方に途を塞がれても、待てど暮らせど好転の兆しが見えなくても、結局は往生際も悪く将来への一縷の望みを棄て切れなかったわたしにとって喜ばしい吉報。
未来へ繋がる、新たな息吹。
とてつもなく嬉しい筈なのに、お兄ちゃんの話は思った以上に衝撃が凄まじかったようで直ぐにはリアクション出来なくて。雁字搦めにされたかのように固まって、言葉すら紡げなかったわたしに、泣きそうな與儀くんが抱き着いてきてハッと我に返った。
「名前さん、よかっ、よかったね、ホントに、ホントによかっ、……!!」
堰が切れたようにしゃっくりを上げながらボロボロと泣きじゃくる與儀くんの背中を宥めつつ、その時わたしもようやく彼のお陰でこれは夢じゃないのだと、紛れもない現実なのだと腑に落ちることが出来た。お兄ちゃんが與儀くんの後ろで仕方無いなと言わんばかりの呆れた顔をして、けどその表情には微かに安堵も含まれていて。
とても俄かには信じがたい、鵜呑みして傷つきたくは無いっていう防衛本能と。
嘘なわけが無い、ぬか喜びじゃないという期待感のせめぎ合いに苛まれながら、震える唇を懸命に動かした。
……ね、本当に、
これからも、生きていられるの?
おっかなびっくりで絞り出した声に、二人は瞳を見開いたあと一様に柔らかく微笑んで。
微笑みの意味を咀嚼して理解出来たわたしもやっと、安心して心から笑えたのだった。
▽
「名前ーっっ!!」
「うるさい」
またもや瞬殺だった。画面をデカデカと埋めた泣きっ面にいらっとして暫くの間、通信拒否に設定しておく。興奮したほとぼりが冷めればきっと向こうも落ち着くだろうと、わたしはうっかり止めてしまった手の作業を再びせっせと始めた。
しかし懲りもせず同じ人から今度は別の通信機で通知が入ってきて、ジト目でその番号と暫しにらめっこした後わたしは渋々通信を許可する。刹那バッと映った見慣れた顔。
「なんで切るんだ兄さんは悲しいっ!」と年甲斐も無く泣き真似を仕出かす長男の姿に、わたしは最初から居留守を使えば良かったと今更ながら後悔した。
ふと居住まいを正した拍子に手元にあった桜の花弁が布団に散らばる。
「だって通信開いた瞬間泣かれながら名前叫ばれて、しかも涙と鼻水でぐしゃぐしゃなその顔見たら誰だって切るって」
「僕は!! 心底ほっとしたんだよ……! 名前の手術が無事成功して、経過も今のところ良好でっ! ああ、これで色んなお守りを随所から買い集めた甲斐があった……!」
「時兄ヒマなの? 仕事無いの?」
「たんまりあるさ!」
「なら仕事しなさい」
でもありがとう時辰お兄ちゃん。
何事もなく、手術終わったよ。わたしがそう報告すれば、画面越しに時兄も満足げに頷いた。
お兄ちゃんに手術を受けたいと意思を告げてから速やかに事は進み、急遽リスクの説明や術後の注意、諸々の話を訊いてから翌日に緊急オペが行われた。
心臓移植には時間制限がある。
脳死判定をされた人から動いている内に臓器を取り出すわけだから、迷っている暇は無い。一刻を争うのだ。
それにわたしの心臓もとうに限界を迎えつつあった。
軽い発作を起こす間隔が徐々に短くなり、圧迫感や違和感に見舞われ、いつまた生死の淵を彷徨う羽目になっても何らおかしくは無い程に。
だからドナーが見付かったというこの話も偶然ながらかなり奇跡に近いことで、まさしく九死に一生を得た、という感じだろうか。
但しわたしには他の人より基礎体力が無いから、長時間の手術は大きな消耗と負担が掛かる。常に一分一秒と時間との戦いで、先生達も非常に多大なる重圧と責任を感じながらわたしの手術に臨んでくれたようだった。
結果として、手術は大成功。
一週間経った今の時点では拒絶反応もなく、通常の生活に戻る為にリハビリに励んでいる毎日。
たびたび様子を見に足を運んでくれる先生達は順調だね、とほっとしたように胸を撫で下ろしてわたしも大丈夫です、なんて笑うのだけれど、──その先生達の輪の中に、わたしの大好きな彼の姿は無かった。
一番に、見せたかったんだけどな。
もっとも「どうですか、この通りわたしもグングン回復してますよ!」なんてふんぞり返ったところで、高飛車な燭先生には「しぶとさだけはピカイチだからな」とか鼻で笑われるんだろうけど。
だけどそんな軽口すら、今のわたしには限りなく恋しいものだった。
「今の名前、凄く生き生きしているよ」
「え? ……そうかな」
「ああ。前のお前は足掻くことはしても生きようとはしなかったから、……いや、生きたくてもそんなに長くは生きられないと断念していたようだったから、安心した」
と言っても、正直僕や平門より燭の方がずっと名前のことを良く見ていたからこの憶測は当てずっぽうだが。
いやはや参った、と少し物寂しげに呟いた時兄にわたしは咄嗟に二の句を告げなかった。
当てずっぽうなんかじゃない、間違いなく図星だ。しっかり的を射ている。
確かに仕事があってすれ違いも多いお兄ちゃん達よりも主治医である燭先生の方が過ごした時間はうんと長いが、お兄ちゃん達も鋭い観察眼でわたしの心境を見抜いていた。
期待は、好い結果や状態を予期してその実現を待ち望むこと。
願望は、こうなってほしいと願い望むこと。
この二つは似ているようで全く異なる、とわたしは思う。期待は実現の可能性がほぼ確定されている、されど願望は五分五分で、なったら良いなとあくまで抽象的な程度。
あの時は実現してほしかったけれど、そうそう叶うものでは無いと分かりきっていたから期待を寄せることは諦めていた。ただほんの僅かでも生きる時間を伸ばせたらなって、…燭先生の近くに居れれば良いなぁって思っていただけなの。
その為だけに足掻いて、残り少ない時間に執着して。死は遅かれ早かれいずれ来るものだと割り切って受け入れて、他の人ほど永くを生きようとはしなかった。だから淡い期待ではなく、わたしが抱いていたのは儚い願望。
これから先も、願望が現実と化すことは無いのだろうと思っていた。
幼い子供が素敵なお伽噺に憧憬を馳せるように、所詮は夢物語で生涯を終えるのだと。
「……リハビリ中ね、簡単なストレッチとかしただけで直ぐ息が切れちゃって、心臓もバクバクいうんだけど、でも幾らやっても発作の前触れみたいな苦しさは全然ならなくて、」
「うん、」
「これからもっと頑張れば他の人と同じくらい走れるようにもなるかなぁって思うとつい必要以上に力んじゃって、それで看護師さん達にも無茶しないの! って怒られちゃってね。だけど薬の副作用の倦怠感とはまた違う疲れも心地好くて、嬉しくてはしゃいじゃって」
「そうか」
「……その度生きてるんだなぁって、しみじみ」
「ははっ。……うん、名前は生きてる。僕と今話している可愛い妹は、正真正銘、息をしている」
「…………なんかその言い方ヤダ」
あたかもわたしが前は息してなかったみたいに。ゾンビとでも思われていたなら心外だ。
じろりと胡乱げに睨み付ければ、わたしの降下気味の機嫌を感じ取って慌てた時兄はトイレに行ってくるなんて適当な言い訳を繕って通信を一旦中断した。それにしては下手な芝居過ぎる。
…致し方ない、誤魔化されてやるかと溜め息を吐いて、わたしは話しながらも器用に折っていた折り鶴を一羽完成させた。途中時兄に何で折り鶴なんか造っているのか訊ねられなかったのは、恐らく死角で時兄には見えていなかったから。
まあ改まって説明する程のものじゃないし、と散らばった花弁を一枚取ってまた新しい折り紙の中に包むように折り始めると、三回ノックされて扉が開かれる。
……やっぱり燭先生では、無いんだね。
なんてお兄ちゃんに聞かれたら小突かれそうなことを内心ぼやきながら、いつもと変わらない微笑を携えた平門お兄ちゃんを一瞥した。
「今、残念そうな顔をしたな」
「……そんなことないよ?」
「俺の目を誤魔化すのは?」
「百年早……っああぁ忘れてた……!」
嘆かわしく頭を抱えたわたしを見てお兄ちゃんはクスクスと笑う。お兄ちゃんの目は流石にかわすことは適わなかった。
「燭さんか?」と目敏く厳しいところを突いてきた意地の悪い兄に、些細な反抗として「言わなくても分かってるんでしょ」と口を尖らせる。
手術を終えてから一回きりしか顔を見ていない燭先生。
その時もわたし達の距離は離れていて、表情の無い仏頂面しか見れなかった。
感謝の言葉を伝えたいのに、な。
自分から会いに行っても行き違いばかりで、顔を合わすどころか影を見ることも無い。早く早くと気持ちだけが急いて、ジリジリと胸の内が焦げていくよう。
燭先生のことを思い浮かべる度に心臓はドクン、と強く脈打って、こんなにも会いたいと気持ちが募っていくのに。
やり場の無い想いを持て余して視線を折り鶴に下ろすわたしに、お兄ちゃんは口を噤んだ後ふと微笑んでわたしの頭を優しく撫でた。
そう焦らなくとも、燭さんにはいつでも会えるさ。と。
「にしても、また折り鶴を造っているのか?」
「うん。千羽鶴を造ろうって約束した女の子は……もう居ないけど。女の子が亡くなった翌日に恍さんがね、言ってくれたの。せっかく造ったんだから勿体無い、どうせだったら最後までやり遂げて天国に居るその子を驚かせてあげたら? って」
「……そう、か……恍さんが」
「うんっ、恍さんも手伝ってくれるって言うからまた始めてみたの。けど恍さん忙しいじゃない? だからその分もわたしが頑張らないと。約束した女の子は中庭の桜が好きだったから、天国でも桜を見れるように折り鶴の中に入れたらもっと喜んでくれるかなあって」
「……そうだな。名前が約束を守ってくれたと知ればきっと、凄く喜んでくれるだろう」
「ふふ……だと良いな」
まだまだ千羽に達するには程遠い鶴達。
けれどそれだけの量を一人、いや、たった二人で折ったんだよって教えたらあの子はびっくりするだろう。そして満面の笑顔でこう言ってくれる筈だ、お姉ちゃん達スゴいねってキラキラした目で。
そしたらわたしと恍さんは顔を見合わせて頑張った甲斐があったね、なんて笑って。
これこそ叶うことは無いって分かってる。でもあの小さな女の子に、大きな感謝を届けたい。
こんなことでしかもう、伝えられないけど。
名前ちゃんの想い、その子にもちゃんと届くよと背中を押してくれた恍さんの温かい笑顔が脳裏を過ぎった。
「これを全部折り終わって、わたしの体調も万全になったら恍さんと一緒に買い物に行こうねって約束したの。燭先生にはナイショねって笑ってたから、楽しみだなー」
「……、名前、彼女は」
「あ、でも恍さんも最近見ないな……お兄ちゃんは会議とかで会った?」
「……いや。恍さんにも、そのうち会えるだろう。千羽鶴に専念するのも良いが、その時までにきちんと自分の体調を管理して、より元気な姿を恍さんにも見せられるようにリハビリにも努めるんだ」
「うん、分かってる」
早く、何処にでも歩けるようにも走れるようにもなりたいな。そしたらお兄ちゃんや燭先生のように自分のやりたいことも見つけて、その道を志して、永く、生きて。
とにかく人の役に立てることが出来れば。
以前は遠く、及ばない夢だったけれど。今は。
「…………お兄ちゃん」
「ん?」
「わたし、……すっごく、すごくしあわせ」
「……ああ。俺も、お前が幸せならこれ以上嬉しいことは無いよ」
(それが例え残酷だったとしても)
お兄ちゃんの心情は、この時呑気にも感慨に耽っていたわたしには推し量れなかった。
────ねえ、恍さん。
あなたは、…こんなわたしを恨みますか?