いつだって優しさは傷つきやすく、
強さは人を傷つけやすかった。
「私、いつか絶対叶えるわ。不可抗力で能力者の細胞を組み込まれた被害者達を、また元に戻す方法を必ず見つけ出してみせる」
はらはらと満開の桜が散る中、女は決然とした眼差しでそう力強く宣言した。
逞しく、剛直で、曲がったことが大嫌い。
女性であるのに気概も男には負けず劣らず、一度こうと決めたことは頑として譲らない。何としてでも有言実行を成し遂げようとする凄まじい根性と意地の持ち主。
だが幾ら女が不屈の精神を有しているからと云えど、そんなもの簡単に見つかる訳が無い。日々彼女を含め様々な研究員達がデータを採集し奮闘している中でも一向に希望の光は差してこない。むしろ絶望的で、火不火の関係者を捕らえることが出来なければ至難の業だと、そんなこと他でもない彼女が一番理解している筈なのに。
「人の夢と書いて儚いと読むが」
「あら、でも人は堯(たか)いと書いて僥倖の僥と読むわ。思いがけない幸いのことよ」
「……こじつけがましい」
「いーの。最初から出来ない、無理だなんて結論付けて諦め半分なんて意欲が無いようじゃ成就出来るものも出来ないわ。それこそ儚い夢で容易く片付けられてしまう。幸運なんて待つものじゃない、自ら掴むものなのよ。根気よく続けていればきっといつかは実を結ぶ。そう信じて私達研究員は日々たゆまぬ努力と試行錯誤を欠かさないの」
それに、と彼女は言葉を繋いだ。
「果報は寝て待て、なんて、私だったら確実にそのまま寝過ごしちゃうし」
「……一理ある。君は愚鈍だからな」
「うわせっかく人が真面目に話してるのに失礼な男。だから敵も多いのよ」
「ふん、私には関係ない」
……そもそも、それは夢じゃない。たかが理想で終わらせるつもりも毛頭ない。
例え雲を掴むような話だとしても、誇大妄想に等しい奇麗事だったとしても。
それは、夢では無い。
──我々の折り返し点となるべく、目標だ。
男は言った。女は笑った。
名のある二人が掲げた気高い共通の志。一研究者として飽くなき最大限の挑戦。
希望の道しるべはまだ見えなくても、彼らにとってお互いの存在こそが、──『光』だった。
「…………、……っ?」
不思議な感覚だった。
まるで自分がその場に居たような奇妙な既視感。先行き不透明な未来に一抹の不安を感じることはあっても、それよりも胸が膨らむ期待感のようなものが遥かに脳を支配していた。夢の内容に出てきた登場人物、主に女性側の心情と名前の情動は紛れもなくリンクしていたのだ。
見覚えがある、どころか自分も良く知っている男女二人。
名前はあたかも恍そのものかのように彼女の中から『外』を見ていて、隣で同じく桜を見上げる燭に果敢な抱負を打ち明けていた。
……夢である、筈なのに。
現実味を帯びた会話に、どこかで見た風景に心臓はイヤに高鳴っていて、悪夢を見た後のように身体のそこかしこには冷や汗が滲んでいた。夢にしてはリアル過ぎる。
しかも似たようなものを見るのは今回に限ったことでは無く手術を受けてから一週間、つまり時辰や平門と話してから更に二日ほど経ってから毎日の事だった。
一体、よりにもよって何故二人の夢を突然見るようになったのか。ジワジワと侵食されていくような襲い掛かる得体の知れない恐怖に、名前は自分の身を守るように膝を抱えて縮こまった。
いま無性に、誰かに会いたい。誰かに自分は此処にいるのだと証明してほしい。
あんな夢を立て続けに視るようになって、名前は自分の存在が次第に薄れていくような感覚をひしひしと感じていた。一生懸命描いたものを消しゴムで掻き消されて、微かに残った線をその上から自分ではなく別の人間によって上書き、刷り込みされていくような喪失感。
だから朝起きると虚しさだけが渦巻いて、訳もなく苦しくて。何かを求め焦がれるかのように、涙だけが止め処なく名前の目尻から零れていた。
あなたは、だぁれ?
(わたしの中にいるあなたは、)
目頭の熱さを堪えて静かに問い掛けても当然返事が返ってくることは無く、鼓膜を打つのは高らかに鼓動を上げる心音だけ。──途端に、真相がものすごく恐くなった。
この心臓は誰のものなんだろう。ドナーの名前を患者に教えられることは無い。それは万が一、ということも想定された上で規定されている。
名前は名前も顔も知らない、これからも生きる希望を、未来を、心臓を与えてくれた『誰か』に対して感謝なんてたった一言では伝えきれない程の想いを抱いていた。
出来るものならばドナーの家族や身辺の人に直接会ってお礼を告げたいとも。但しもしかしたらそんな行為は相手側の傷を抉ることになりかねない、なので実際会いたいと言わず胸の内に留めるだけにしておいた。
代わりに、何としてでもこの命を大切にして人生を全うしてみせる、と固い決意と共に。
…………でも。
耳を塞いだ。目を閉じた。それでも目蓋の裏にこびりついた恍の笑顔は消えなかった。
「……っ、い、おい名前!」
「っ……!? あか、りせんせ……、やだ、びっくりしたじゃないですか……」
「それは此方の台詞だ馬鹿者。まさか具合が悪いんじゃないだろうな」
肩を揺さぶられて我に返った名前は、見上げると同時に額に当てられた体温の低い手のひらの感触に目を細めた。
聴覚を閉ざしていたから燭が入ってきたことにも気付かなかった。名前がぼぅっとしながら暫し彼のされるがままにしていれば、多少険しい面持ちになっていた燭は平熱だと判ると安堵したように溜め息を落として手を離す。
「他に息苦しさや気になる症状は無いな?」と探る視線と問いに「大丈夫です、」とかぶりを振ってかろうじてだが口角を上げる。けれどそんな名前の虚勢すら彼は鋭く見抜いてみせて、痩せ我慢だけはするなよと主治医として抜かりなく釘を差した。
「……、燭先生ほんと侮れない」
「暫くは絶対注意が必要だからな。そそっかしいお前は少し目を離すとどんな無茶を仕出かすか予測が付かない」
「リハビリのことですか? それなら自分の体調と相談しながら適度にやってますから、そんな身構えなくても…」
「言っただろう、絶対注意だと」
用心するに越したことは無い。ときっぱり断言した居丈高な男の姿に名前は苦笑した。
確かにごもっともだ、今ここで無茶を重ねてガタが来れば再度一からやり直しになる。否、危うくやり直しどころか取り返しの付かないことになってしまうかもしれない。それは重々承知していますと名前が苦笑いは崩さず肩を竦めれば、しかし燭は引き下がらず本当かと詰め寄った。
彼もまた、名前が度々夢を見るようになってから以前と同様頻繁に病室に訪れるようになった。
そして、名前の異変についてやけに敏感になった、慎重になった。過保護にだって、なった。
待てど来なくて、居場所を訊けば上手く躱されはぐらかされる。痺れを切らす名前の前には一向に現れようとしない待ち人。ちょくちょく見るようになった、夢。それら全て自分が燭の庇護を受ける理由と関連性があるんじゃないかと疑って、おぞましい想像に名前の全身の毛が逆立った。
(まさか、っいや、そんな、)
研究員である恍が研案塔から外に出ることは滅多に無い。危険がある実験はいつしか二人が喧嘩してた時のように燭が説得して身を張ってでも止めるだろうし、少なくとも憶測しているような最悪な事態にはなっていない筈だと名前は懸命に己に言い聞かせる。
それでもブワリと再び冷や汗は吹き出して、俯いた彼女の違和感を察した燭は眉間に皺を寄せて覗き込もうとした。
────ら、それよりも早く、小さな白い塊が小刻みに震える名前に向かって走っていった。
ぺろ、と白くなるほど頑なに握り絞められた手を舐めて「チィッ」と鳴く。さながら元気を出せ、と覇気の無い名前を励ますかのように。
「ハーティーちゃん……? なんで……」
「また抜け出して来たのか……それより、コレは確か名前には威嚇していたと記憶しているが…手懐けたのか?」
「いえ……そんなことは。この前だってかなり警戒されちゃいましたし」
手のひらを返したように今やスリスリと名前の手に頬をすり寄せるハーティーの姿に、名前と燭は一様に揃って目を丸くした。
名前とハーティーの仲が悪い、というより名前の一方的な片想い状態はもはや周知の事実だった。
どれほど名前が懐いてもらおうと尽力してみてもハーティーの好物を持って行っても距離が近付くことはなく、いつだって鋭利な牙を向けられて僅かな接触も牽制されるばかりだった。油断も隙も無い、厳重警戒の体勢に幾度となく諦めて。
なのに今日は機嫌が良いのか。
何度も何度も名前の手のひらを舐めて、ふわふわの毛並みを撫でろと言わんばかりに押し付ける。
単なる気まぐれか偶然か。
戸惑いながらも柔らかな背中を撫で、名前がふと窓の外に視線を外せば、空は晴れているというのにポツポツと雨が落ちてきていた。
「今日は珍しいこと続きだな。天気雨なんて久しく目にしていなかったが」
「……狐の嫁入り、ですね」
「────……、」
『──見て、燭。狐の嫁入りよ』
「……恍、」
「…………え?」
燭が思いがけず呟いた名は、されど外に意識を向けていた名前にもしっかりと洩れることは無く届いていた。
呆然としながらハーティーを撫でる手が止まった名前を見て、燭もハッとして口を噤む。滑ってしまった今となっては、既に手遅れだったが。
おずおずと引け腰になりながらも、複雑な表情のまま名前が意を決して燭を見上げる。怯えつつも毅然とした眼差しは、男にとっていつかの彼女と重なって見えた。
「燭先生……先生なら、恍さんのこと知っていますよね? 恍さんは今どこに?」
「……答えられない」
「先生っ!」
「彼女も常に多忙の身だ。……ここにはもう、来られない。それだけだ」
「……本当に?」
「くどい。それ以外に何がある?」
「…………、すみません」
これ以上は詮索するなと突き放すような燭の物言いに、名前は今一つ納得が出来ずとも深追いはしなかった。結局は自分も恐ろしいのだ。この心臓の前の持ち主は誰だったのか知ることを、燭に、嫌われることを。
嫌われたって、生きられない訳じゃない。けれどとてつもなく恐かった、微細な震えが止まらなかった。
彼に、恍を含めた彼らに。
避けられるのだけは、我慢ならなかった。
「チィッ?」と手の震えに気付いてハーティーが顔を上げる。動物の目に映った彼女の表情は、酷く悲しそうな顔をしていた。
以前ならいとおしく感じていた筈の耳が痛くなる程の沈黙が、今はただ、……ただ。
くるし、かっ、た。
────
補足@堯(ぎょう)→堯(たか)いとも読む。気高い、崇高という意。
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