眠れない夜が、続いていた。

リハビリを積んで、ほんの少しだけど走れるようにもなって、先生達も目を見張る程の快復を遂げているわたしは、されど夜の帳が落ちても休めることは敵わなかった。
身体は倦怠感に見舞われ気だるく、途方も無いくらい疲れている筈なのに異様に目は冴え、意味もなく寝返りを打って退屈を持て余す。

解決することの無い消化不良の想いだけがずっと胸の中に燻って、心に鉛が埋められたみたいな重量感が精神を蝕むだけでなく睡眠すら阻んでいることはもう明白だった。
だってそれは四六時中わたしの肩にも伸し掛かっていて、まるで気道を真綿で緩やかに絞められていくような息苦しさが横になった時も纏わりついてるから。

……皆がわたしに何かとてつもなく大事なことを隠してることくらい、とっくに分かっているのに。そしてその理由が、わたしを傷付けないように守る為だということも。
でも、でもね?
わたしは例え傷付くことになったとしても、今知らなければきっといずれ後悔することになると思う。

時間が蟠りを解消してくれる。
そんな保証は、どこにもないから。


「……!」
 
他の患者さんはもう就寝しているだろうに、静寂を保っていた廊下からはコツコツと足音が響いてきた。
わたしの部屋は個室だから余計にその音が聞こえてくる。看護師の巡回はまだ早いのに、と思いつつも人や忙しさによって巡回時間が多少前後することもあるから、わたしは咄嗟に目を瞑って狸寝入りを決めた。

ガラ、と極力物音を立てないように配慮して扉が開かれる。足音はわたしが横になっているベッドの傍らで止まって、暫し謎めいた沈黙が漂った。
殺風景な個室にはわたしと誰かの二人だけで、あまつさえわたしは寝たフリをしているから居心地の悪さが半端無い。
幾ら待てど懐中電灯の光が顔に当てられないことに痺れを切らし、わたしは相手に気付かれないようにうっすらと目蓋を開いた。

────瞬間、息を飲んだ。


なんで、どうして燭先生がこんな時間に。

余程のことが無い限り彼が夜分も深まったこの時間帯に病室を訪れることなんてあり得ない。ましてやわたしの部屋に、なんて。
ここでわたしは薄っすらとじゃなくちゃんと目を開いて「どうしたんですか」と率直に用を訊ねれば良かった。驚いて判断に迷ってしまったわたしは反射的に目を綴じて、佇立したままの燭先生には声を掛けず。
まさか後に余計考えることが増えるようになるとは露と知らず、このままジッとやり過ごすことにして。

頬をなぞる冷たい手に、心臓が跳ねた。


「……っ!?」


直後唇に触れた、柔らかい感触。

指? もしくは別の何か? いいえ、だったら息遣いなんて滅多に側では感じない。
わたしの額を擽る燭先生の前髪、軋んだベッドのスプリング、感触が離れる時にかすめて去った、熱い吐息。それらが全て、確信させた。

わたしが茫然としている間に、彼は静かに部屋を後にして。扉が閉まる音と共にわたしは目蓋を開いて起き上がり、信じられないと混乱する思考の中、微かに戦慄く唇を自分の指で辿った。

……なん、で、うそ、

恍さんが居るのに。
燭先生には、大切な人が居るのに。
どうしてわたしなんかに、キスをしたの。


夢なんかじゃない。先生の唇の感触は、今もわたしの唇に鮮明に焼き付いたまま。
ジリジリと触れ合ったところが焦げていくような痺れているような、そんな感覚がより口付けされてしまったんだという事実をまざまざと突き付けてきて、わたしは目頭に熱が籠っていくのを感じ唇に爪を立てた。

……消えて、きえてしまえばいい。
燭先生とキスしたんだという事実も、芯から深みに嵌まっていく感覚も、なにより、


嬉しいと思ってしまった、わたし自身も。




────結局、あの晩から眠ることは儘ならず、わたしはいよいよ睡眠導入剤を服用して休むようになった。
考えれば考えるほど広がる悪循環。負の無限ループ。病は気から、というように落ち込むことは身体に良くないと分かってはいるけども、規定の消灯時間が来て照明が消えるとどうしても燭先生の感触が脳裏に過ってしまうのだ。

何故、なんて理由を直接本人に問い質したりはしなかった。一時の気の迷い、恍さんと間違っただけ。そう自分の中で何度も反芻して。

………うそ。
本当は間違うわけないって理解してる。

燭先生からお酒の臭いなんてしなかった。ということは酔っ払って誤った、なんてことも無い。ならば徹夜続きで夢現半分だったんだろうか、とも考えたけど身嗜みに気を使う先生ならそんなだらしないと思われるようなこと絶対に無い。意識はお互いはっきり合った。けど、


「……燭先生、あの……」

「悪いが今用事が立て込んでいる。……下らない話なら後にしてくれないか」


あの日から過保護とは一転、取り付く島もなく振り払われるようになったから、真相を確かめることも困難だった。

今まで一度たりとも向けられたことの無い、冷たく凍てついた瞳。伸ばしても触れることは無い、行き場を失ったわたしの手。彼に伝える前に雲散霧消と消失した、想いの満ちた大切な言葉達。

全部、くだらないの一言で一蹴されて。
あからさまに、わたしに対する嫌悪感を剥き出しにされてしまいました。

わたしもそこまで鈍感じゃありません。
嫌悪とか不快感とか敵意とか、そういった感情の類いを察することが出来ない程、頭の巡りは悪く無いつもりです。

……大丈夫、これまでが恵まれてただけ。
きっとバチが当たったんだ。燭先生に口付けられて、嬉しいと少なからず喜んでしまったわたしが居たから、恍さんを裏切った懲らしめとして神様が天罰を下したの。

ああ、当然の報いだなぁ、と納得して。

でもやっぱり辛くて、心臓が苦しくて、
ものすごく泣きたかったけれど、涙腺はもはや機能していないかのように緩まなくて。

ただ、目が無性に熱くなるだけだった。

そもそもわたしには泣く資格なんて無い。
一番泣きたいのは、恍さんの筈だから。
恍さんと燭先生が笑っていれば、それだけでわたしも幸せなんだから。

ねえ、そうでしょ。
絶対絶対、そうなんだよ。
二人が幸せね、って、いつまでもそばに寄り添いあってくれていたなら。

わたしも安心して、すっぱり諦められる。

………だから、だか、ら、
(──はやく抑まって、胸のいたみ)




なのに、現実は非情で。
いとも簡単に、覆ってしまった。


「……ねえ訊いた? 名前ちゃんの心臓適合者の人って燭先生の恋人だった人らしいわよ」

「知ってる知ってる。恍さんでしょう? あのいつも燭先生と口喧嘩ばかりして、態度も大きい人。名前ちゃんとも面識あったんですってね」

「牽制とか? ほら、燭先生って何となく名前ちゃんには甘い節があるし」

「さあ……それにしても災難よねえ。実験に必要な素材を集める為に遠征に出たのに、そこで不慮の事故に遭うなんて」


蹲って、弱る自分に檄を飛ばした矢先に看護師さん達の話を運悪くも、折悪しくわたしはたまたま聞いてしまって。

身体の底から、指先まで血の気が引いて冷えていくような寒さを感じた。
カタカタと歯の根が合わなくて、頭を圧倒的な力で殴られたようで。しかし身体は動揺を露にしていても、思考は妙に冷静だった。

やっぱり、あなただったんだね、恍さん

トクン、と呼応するように、わたしの中心にある心臓が一際大きく脈打った。


────名前ちゃん、
恍さんが涙を流したあと、綺麗に微笑んだ顔が蘇る。
目を閉じればこんなにも明瞭に思い出せるのに、あなたはもう、どこにも居ない。声も聴けない。笑顔も見れない。あたたかな、温もりさえ。

あなたの存在はこんなにも鮮やかに記憶に残っているのに、もう、どこを探しても。


「……名前ちゃん!?」

「……、一狼三、さん」

「っどうした、もしかして具合が悪いのか!? いま燭先生を──」

「、やめてください! だめ、っ大丈夫、わたしは平気ですから……これ、以上、」


燭先生の、傷口を抉るような真似は。

通りがかった一狼三さんは、縋り懇願するようなわたしの言葉に口を噤んだ。大いに困らせてるのは分かってる、でもわたしの存在が燭先生を苦しめていると知った以上、もう傷口に塩を塗るような行為だけは避けたかった。

ごめんなさい、……ごめん、なさい
どれほど謝ったって気が晴れるなんてことはならないけれど、出来れば恍さんにも、燭先生にも今すぐにこの心臓を取り出して返したいけれど到底不可能なことで。
わたしにとっては安らぎの時間でも、先生にとっては術後のわたしと居ることは苦痛でしか無かったのだと。


そう知った時わたしは、
漠然とした空虚感に自分を嘲笑った。


先生からあんなに大切にしていた恍さんを奪うような形になってしまった。

償っても償いきれない。
どうすれば、なんて懺悔しても今更遅いんだ。

だから、わたしは、


「……一狼三さん、お願いが、あるんです」

「……ん?」

「──わたしの担当主治医を、変えてください」


わたしの顔を見るのすら苦痛なら、わたしはあなたの前から消えるから。

もう少し、ほんのもう少しだけ待ってください、

……大好きな、だいすきだった、ひと。
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