「……図々しいことを承知の上でお願いする。お兄ちゃんに連れて行ってほしい場所があるの」


いつになく凛々しい眼差しで躊躇うことなく言い放った妹の貴重な『お願い』に、兄である平門は秘かに息を飲んで瞳を丸くした。


真実を知った翌日。
廊下で出会した燭の部下である一狼三に少々無理な頼み事をして、急遽主治医を変えてもらった。
もっとも燭にはまだその通知は渡っていないだろう。
名前の暗に孕んだ思惑など知る由も無く、彼は今頃きっと通常通り仕事に精を出している。

それで良い。それで良かった。
このまま最後まで算段を気付かれることは無く、少しずつ少しずつ地道に離れていけば。
お互い必要以上に傷付くことも無く付かず離れずのこの曖昧な関係も、綺麗さっぱり清算される。
その為にやらなければならないこと。自分とのけじめを付ける為、赦されない想いに決着を着ける為、たった一人会わなければならない人が居る。

観念したように失笑する兄の姿を見て、名前も「我が儘を言ってゴメンね」と苦笑した。





「……まさか久し振りの再会が、こんな形での対面になるなんて思いもしてなかったです」


────恍さん。

青い海が一望出来る灯台近くの丘山。波が寄せては引いて、砂と水が奏でる潮騒を耳に挟みながら名前は惜しむように灰色の墓石に刻まれた名を丁寧に指先でなぞった。
途中買ってきた色とりどりの花束を前に置いて、中庭で拾ってきた桜の花弁を墓の周りにぱらぱらと降らす。

ぺんぺん草がいっぱい、と石の傍らに寄り添うように慎ましく咲いているナズナの花に名前はふと微笑を溢して、再び愁いを帯びた目で名を網膜に焼き付けた。
恍(こう)。
紛れもない、あの人にとって唯一無二の名前。
そして名前にとってもかけがえのないことを教えてくれた、尊敬する大切な友人。

──あなたの心臓は、ここに在るのに。

あなたの身体は、こんな冷たい石の下で安らかに眠っているんだね。

ゆっくり目を綴じれば固く、氷のような感触しか肌に伝わってこない。生前彼女は柔らかく、包むようにとても温かったのに。
意思も鼓動も無い石は、ただ、ただ永久に眠る彼女の存在がここにあると記すだけで。名前の胸には置いていかれたような途方もない寂寥感と喪失感がぐるぐると渦巻く。

孤独だけが残るこんな物悲しい場所に、恍はポツンと佇んで。本来なら自分達の立場は真逆だった筈なのに。
(……どうして今、お墓の前に立っているのはわたしなんだろう)そんなの言わずもがな、彼女から命を受け継いだからだと、名前は場違いだと分かっていても自嘲した。


「……ほら、恍さんのお陰でわたしこんなに元気になったんです。前はちょっと歩くだけでも直ぐ疲れちゃったのに、今は走ることだってお手の物なんですよ。信じられないでしょ? この成長にはわたしも自分が一番驚いてて、」

「時兄なんか名前が退院したら快気祝いだー! なんて率先してはしゃいじゃって、お兄ちゃんは呆れて、與儀くんは喜んでくれて、看護師さん達も良かったねなんて笑ってくれて。一歩ずつだけど、ちゃんと前に進歩出来てるの」

「でもほぼ閉鎖された空間に今まで居たわたしが、今更普通の暮らしとか出来るのかなぁって若干不安でもあるんだけど、……まあ、そんな弱音吐いてたらこの先やっていけないよね」

「……恍さん、わたし、わたしね。今、すっごく幸せなんです。あなたのお陰で、もうこれ以上望むことは無いくらい。けど、」


「────あなたが居ないから、すごく、すごくさびしいです……っ!!」


ねえ、なぜしんでしまったの。
なぜ、ドナー登録をしていたの。

事の真相を一狼三から隈無く訊いた。
恍が亡くなる直前、ドナー登録の申請を燭には内密で進めていたこと。これまでそんなものには関心すら向けなかったのに、突然なにか腹を括ったかのように吹っ切れた顔をして自分も登録をしたいと積極的な姿勢になったこと。
調査に出向く前に、一狼三へ自分にもしものことが有ったら直ぐに名前との細胞に一致するか調べてほしいと言伝てを頼んであったこと。

全部、全部が仕組まれていたことのようで、それらの行動全てが今に繋がる為の布石にしか過ぎなかったのだと名前にはそうとしか思えなくて。

元々危険性の高い調査だった。
能力躰の目撃情報が多々あり、能力者が裏に潜んでいた可能性だって棄てきれない。それでも恍が命を落とした理由はそれでなく、視界不明瞭、霧が濃い中足を踏み外し誤って崖から転落した、ということだった。


「名前ちゃんが早く回復してくれればいいなって、そう思っただけだよ。私にとって気休めにしかなんないけど。でももしドナーが見付かって元気になったら、あの子には今まで味わえなかった自由を存分に楽しんでほしいの」


だってこんな美しい世界をまだ見たことないなんて、勿体無いじゃない?
ドナー登録が完了した時、恍はそう一狼三に言っていたという。恍にとって登録は気休め、自分にはこんなことしか出来ないから。
と、もしもの場合を想定した時、この命を無駄にせずとも済むようにとある意味自分への慰めでもあった。

ましてや自分の命のバトンを継いでくれる相手が名前だったならば、これ以上願ったり叶ったりのことは無い。
万感の切実な願いは実を結んで、恍の想いは今、名前の中心で懸命に名前を生かしていた。

(生きて、わらって、名前ちゃん。ほら、)

────折角の美人さんが台無しよ。


「……恍さんは馬鹿です、大馬鹿野郎です」


今までどんな苦痛も耐えてきた。
行きたいところがあっても丈夫では無いからと諭され、食べたいものがあっても身体には悪いからと軽くいなされ、会いたい人がいると言っても無理はするなと制される。

『名前、また明日来るからな』
そんな期待を残すような口振りをしても、翌日お兄ちゃんは来ないことが多くて。
(…………うそつき、)
なんて、兄を罵倒することは出来なかった。忙しさを理解していて、本当は自分に構っている暇も無いということを分かっていながらそんな我が儘を言うことは憚れた。

けれど、
「行かないで」、「一人にしないで」。
喉奥に飲み込んだ言葉はいつだって虚しかった。

真っ白な部屋にひとりぼっち。唯一の癒しは窓から覗いた満開の桜。
いつ死んだっていい、どうせ希望も夢も無い。
二人に会うまでは、そう思っていたのに。二人と関わってからは、変われたのに。


「肝心なかたっぽが欠けちゃったら、意味が無いじゃないですか……っ」


人を憂うと書いて優しさと読むなら、
そんな優しさは残酷だ。


こころがいたい、
むねがはりさけそうだ
いっそ、いっそ────いいえ、

ぽつ、ぽつと小さな雫が上からひっきりなしに落ちてきた。項垂れる名前を嘲笑うように陽は陰り、あっという間に曇天が青空を覆い隠す。

(……おかしいな、)
幼い頃からあんなに見たかった海も、今は霞んでよく見えない。

みるみるうちに身体は冷えて、墓の傍に這えているナズナの花は雨に揺れる。
恍の名すら、ぐらぐらと焦点が定まらなくて。


「……あ、れ……」


途端に重心を崩して、名前は水でぬかるんだ地面に倒れた。
吐息が熱い、目も、指も。
なのに全身の震えは止まらなくて。

───拒絶反応。
過呼吸を起こし、意識も混濁していく彼女の側に在るのは灰色の墓石。そして、


「────美味しそうなの、見ぃっけ」


怪しい一つの、人影。


「 名前が居なくなった……?」


それから珍しく息を切らした平門から燭の許へ報せが届いたのは、およそ数時間後のことだった。
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