あれから、三年もの月日が流れた。
「……解せない。何故よりにもよって朔のところなんだ。今からでも遅くはないから俺の艇に来い」
「まあまあ、そんなヘソ曲げんなって平門! お前ん所は療師も居るし、新たに花礫っていうこれから伸び代のある研修医も加わったんだから十分だろー? この子はちゃあんと俺が面倒見るからさ」
「それが一番心配なんだ」
「…………おい」
「……お兄ちゃん、大丈夫だから。朔さんには本当に良くして貰ってるし、壱號艇でもこれ以上無い待遇を受けてるの」
「、名前……」
ね、だから邪険にしないで。と納得が行かないという険しい顔付きの兄を宥め、それでも未だ不満そうな空気を醸し出している姿に朔さんと顔を見合わせ共に苦笑する。……三年の月日は、わたしに少し心のゆとりを持たせてくれた。
────わたしは、今も生きています。
三年前のあの日、わたしが熱に浮かされながらもお兄ちゃんに懇願した頼み事。
それは、わたしを貳號艇に居る療師の元へ連れていってほしい、という内容だった。同時に、燭先生には死んだ事にしてわたしの存在を匿ってほしいとも。
これはもちろんお兄ちゃんだけじゃなく主治医の協力もなければならなくて、断固反対と難色を示した先生を説得するのは一筋縄ではいかなかったけれど、最終的には療師の名の力も拝借して、わたしはなんとか自らの意地を貫き通した。
恐らく後にも先にも、一生云うことは無いだろうとんでもない我が儘。
焦熱でフラフラしていても点滴を刺したまま急遽クッピーで迎えに来てくれた與儀くんと貳號艇へ向かって、直ぐ様わたしは療師の所へ連れていかれて治療を受けた。
療師は驚きこそすれ呆れることは無く、事情を明かしたら暫し物思いに耽るような仕草を取った後「……そうか」と何も追及することは無くわたしの頭を撫でてくださって、無性に目頭が熱くなった。
わたしは周りに恵まれている。
しみじみと実感するまでも無く皆の優しさが際限なく肌身に染みて、わたしはその時ようやく、重荷が降りたように泣ける事が出来たのだ。
それから当分投薬での治療に専念してリハビリして、また倒れる前、ううん、それ以上に回復したわたしはお兄ちゃんの後ろ楯を得てクロノメイの医療コースに進学した。同時期に同じくお兄ちゃんを後見人として入学した花礫くんは途中悶着があって輪コースには戻れなくなってしまったが、時兄の提言もあってわたしと同じ医療コースに。
二人揃って首席で無事に卒業して、花礫くんは貳號艇の療師の下で、わたしは壱號艇で研修医として働くことに。
因みにわたしに付いてくれる先生は三年前協力してくれた元主治医の先生である。
彼もまたあの一件以来研案塔に居るのが心苦しくなり壱號艇の専属医師として勤めることになったとか。……とばっちりで大変申し訳無い話だ。この恩に報いる為にこれから粉骨砕身惜しみなく働こうと胸に誓う。
「今日は登録の為に研案塔に来ただけだから」
「燭ちゃんびっくりすんだろうな、死んだって訊かされてた人間がホントは生きてましたなんて」
「……朔」
「……わり、失言だったか」
「いえ。……燭先生には、バレても極力会わないようにしますし。理由を訊ねられても上手くはぐらかしますから」
政府に従属する者となった以上、どうしても彼との接触は免れないだろう。
だったら何故医師という先生と共通する道をわたしが志したのか、と言うとお兄ちゃん達へ恩返しをする為。まあこれは綺麗事のように聞こえるが、誠心誠意自分も人の役に立ちたいと心から強く思ったからである。
かつての闘病生活はわたしにとって非常に良い経験となって、医師を目指す最大の動機と活力源となっていた。
目には見えない恐怖と闘っている人を救いたい。なんて、とんだ大義名分を掲げて偽善者ぶるつもりなんて更々無い。けれど出来る出来ないで物を考えるより、やるかやらないかで考えなければ臆病なわたしは未来を畏れて一歩も踏み出すことなんて出来ないから。
「ちゃんと進むよ、大丈夫。これでもわたし荒波に揉まれて大分成長したんだから」
「……そうか。そうだな」
「うん。……それじゃ、先生が会議で居ない内に用件済ませてきちゃうね。朔さんすみません、少しお待たせするかもしれませんが」
「おー、気にすんな。あんまり焦って自分の名前誤字ったとかやるなよ?」
「酔っ払った朔さんじゃあるまいし」
「お前平門ソックリだなほんと」
「何せ俺の妹だからな」
「な」
「兄妹揃ってドヤ顔すんな」
……ま、ゆっくり行ってこい。と、何故かゆっくりの部分を強調して言った朔さんを訝しげに思いながらも、仰せの通り焦らずも手っ取り早く済ましちゃおうと踵を返す。
運が良いのか悪いのか、今のわたしには医師登録の申請のことだけで頭がいっぱいで、含むようなお兄ちゃん達の表情なんて一切気付きもせず、会話すらも耳には入ってこなかった。
「そんな上手く事が運ぶかね」
「断言しても良い。名前は必ず、引力のような物であそこに引き寄せられるだろう。その後丸く収まるか否かは、…まあ、あの人次第だ」
「だな。もっともどっちに転がっても、きっとお前は終わったら名前にどやされんじゃねえか? なんで嘘吐いたの! ってな」
「関係ないさ。終わり良ければ全て良し。俺はあの子が幸せになる為なら何でもする」
(ですから、ドジ踏んで俺に失態を晒さないでくださいよ。……燭さん)
鳥が鳴いた。風が吹いた。
平門が見上げた空は、青く冴え渡っていた。
「……あ、」
知れずと間の抜けた声がこぼれ落ちた。患者や研究員がすれ違う廊下の大通りの窓から覗ける桜の大樹。
ハラリと風に舞う花を見ながら、入院していた頃体調が優れてる時はしょっちゅう病室を抜け出して花弁を拾いに来ていたな、と少々物思いに耽る。ここの桜の花弁を入れたお守りは現在も常に持ち歩いていて、クロノメイに在学中の時もわたしに大きな勇気と意欲を与えてくれた。
(……これの中身のものはもう枯れちゃってるだろうし、新しく詰め替えようかな)
朔さんも用事があるって言っていたから少しくらい寄り道しても大丈夫だろう。拾ったら直ぐにまた受付に向かえば良いだけだし。
そう思い立ってお守りの中から萎んだ花弁を取り出してポケットに仕舞い、わたしは見えない糸に手繰り寄せられるように大樹の元へ足を進めた。
落ちてくる花弁は、なかなか手のひらの中には納まってはくれない。
地面に着く前に三枚集めれば願いが叶う、などと仕様もないジンクスを信じて収集するようになったけど、願いは望まない形で叶ってしまった。今も生きている事について感謝はしているけれど、もちろん納得はしていない。
……なんて言ったら、お兄ちゃんにも恍さんにも大目玉を喰らっちゃうんだろうな。苛酷な苦難を越えて成長はしても融通が利かないところはちっとも変わっていない、我ながら矛盾した言動に自嘲の笑みを洩らした。
『名前ちゃんは強いねえ』
闘病に励んでいた時、多くの人から浴びせられた誉め言葉。しかし悪気無く放たれたそれはわたしにとって自らの首を絞めていくもので、緩やかな呪縛に等しい言葉だった。
強く居なきゃ。強く在らなきゃ。
みんなに、幻滅されてしまう。
もしもわたしが死んだ時、『強い名前』の生き様を覚えていて欲しかったから。
そのまま虚勢を繕って見栄を張った。
けどいつだって、不安は漠然と居座ったままで。
本当は、
「……強くなんて、無いわ……だって結局、」
ひとりになったら、泣くんだもの。
大樹の幹に縋るような格好で寄り添い、滲んだ視界が微かに晴れる。冷たい感触が頬を伝って、重力に従ってわたしの顎から滴り落ちた。
恍さんが亡くなって、ぽっかりと胸に空いた空虚感を堪えながら勉学に臨んだ。
ええ格好しいの癖は取れないまま、咄嗟に自分を作る術を駆使しながら人と接した。
途方もない罪悪感に駆られながら、必死に考えないように日々を過ごした。
忘れられないあの人の手のぬくもりを思い出しては、……声を殺して泣いた。
燭先生にはわたしが死んだことにしてほしいと伝えるよう頼んだのは、恍さんのお墓参りに行った時点で燭先生に恋をしていたわたしは死んだから、という理由だった。
ケリを着ける。何もかも。
そう意気込んで海へ向かって、全てさよならするつもりだった。恍さんへの後ろめたさも、燭先生への淡い懸想も、自分の中の葛藤も。
決着を着けた。割り切った。
踏ん切りを着けた。切り替えた。
……はず、だったの。
事の顛末は、無理だったけれど。
愛してしまってごめんなさい。
好きになってしまってごめんなさい。
忘れられなくて、ごめんなさい。
こんなことなら最初から出逢わなければ良かったなんて今更の想いに辟易して。
でもやっぱり彼と過ごしたあの時間は、わたしにとって輝かしくて幸せに満ち溢れた、何よりもかけがえのない宝物だったのです。
「────やっと、掴まえた」
その時、背後からわたしを包み込むように回された両腕。誰かなんて疑うまでもなく、どれだけ経っても変わらない、されど切羽詰まったような掠れた声が耳朶を打って心臓がドクリと音を立てた。
なぜ、先生がここに、
思いがけない出来事に唖然として固まって、だけど耳をかすめた吐息に決して夢などでは無いと容赦無く現実を突き付けられる。同時にお兄ちゃんがわたしに嘘を吐いたことを悟って、言い様のない怒りが込み上げてきた。
けれど後ろから抱擁されて身動きが封じられている今となっては成す術が無い、逃げることも言い訳を捲し立てることも。喋ることすら儘ならず、息を飲んで口を噤むわたしに先生は痺れを切らしたのか、殊更抱き締める腕を強くした。
なんとか状況を打破しなければと、わたしは戦慄く唇でかろうじて言葉を絞り出す。
「……あ、の、人違いでは……」
「この私が間違う訳がない。ましてや見誤るなどそそっかしい真似はしない。立つ後ろ姿だけでも直ぐに分かった。髪があの頃より伸びていても、雰囲気が少し大人びていても、お前はいつだってどことなく寂しそうな背中をしていたから。……それだけは、三年前と変わっていない」
──名前。
ふいに名前を呼ばれて、再び零れそうになった涙を堪える為に唇を噛んだ。
こんなにも早く再会を遂げるつもりは無かったのに、こんな精神が不安定な時に会いたくはなかったのに。
どうせ会うのならばその時は、もっとしっかりして彼と対等に向き合える逞しい自分で居ると決めていたのに。
彼は、燭先生はそんな余地すら。
「……死んだ、なんて良くもまあタチの悪い嘘をついてくれたな。お陰でこっちはこの三年間ろくに生きた心地がしなかった。少し私が目を離した隙に色々根回しして、あの忌々しい平門やら主治医まで味方に着けて、一人だけ全部解決したつもりか? 終わらせたつもりか? ……ふざけるのも大概にしろ。何も教えられず、想い諸とも置き去りにされた側はたまったモノじゃない。一体何の意図を以てしてそんな愚行に至ったか私には到底理解出来ないしするつもりも無いが。私を欺くにしては詰めが甘かったな」
「……そん、なの。だって燭先生は、わたしの存在を疎ましく思ってたんじゃ、」
「むしろその逆だ。……好んでいない存在に、口付けなんてするものか」
「!」
言外にあの夜のことを指しているのだと直に判断が付いた。恍さんはまだ生きていると疑りつつも信じていたかった時、わたしの病室に訪れた燭先生からキスをされて悶々と明かした一夜。
もはや悪びれもなく淡々と開き直った口調で語る先生の声に、わたしは率直に告げられた言葉に混乱して戸惑って。平静を千々に乱される。適当に上手くはぐらかす、なんて朔さんには自信満々に宣言しておきながら、実際は衝撃が強すぎて自身が困惑してばかりだ。
燭先生の息遣いと温もりを側で体感しながら、気を抜けば飛びそうになる意識を懸命にこの場に押し留めて続けざまに口を開く。
「どうして、キスなんか」
「あの時お前が起きていたことくらい気付いていた。……気付いていて、やった」
「だからどうして!」
「、名前が! 手術をしてから恍と重なるような言動を取るようになったから! 私は、確かめたかった。お前が徐々に薄れていくようで、消えていくようで。名前の感触を、存在を感じたかった」
「…………なに言って、先生は恍さんと……」
「そもそも私と恍は恋仲では無い。婚約者という関係ではあったが……それも上層部に決められたことで私達の合意の上では無かった」
「私が好きなのは、名前。────君だ」
恍もとっくに知っていた。
教えられた事実に、わたしは頭を鈍器で殴られたようだった。
恍さんも知っていた?
だって、恍さんはあんなに燭先生のことを愛しそうに話していたのに。
わたしにだって、屈託無く笑いかけてくれたのに。
恍さんと先生は恋人では無かった?
なら、あの二人で仲睦まじく笑いあっていた光景は。手を合わせていた姿は。
燭先生が好きだったのは、わたしで。
わたしが好きだったのは、燭先生で。
恍さんが好きだったのは、?
途端に全身から力が抜けて、燭先生に抱き支えられる体勢になった。「っおい!」と先生からわたしを案じる声が聞こえるけれど、まともに返事を返せる余裕も無い。
膝は震えて、思考すらぐるぐると恍さんの笑顔だけが大部分を占めて、機能しなくて。文字通り崩れ落ちるように、地面に尻餅を付いた。燭先生が前に回って、些か曇った面持ちのままわたしの顔を覗き込んでくる。
泪はぽろぽろ、泉のように溢れてきて。
次から次へと止め処なく流れる雫を、先生は優しく労りげに指先で拭った。
「……、泣くな、名前……」
「……っな、で、恍さ、」
「その恍に窘められたんだ。凡て終わってから気付いたんじゃ遅いと。……ああ、全くもってその通りだった。気付いた、いや、自分の想いをようやく認めて肯定した時には、もう君はあの病室から既に居なくなっていたからな」
手遅れかもしれない。
何を今更と一蹴されてもおかしくないと。だがこれ以上自分の想いを偽って目を逸らし続けているのは、私を本気で愛してくれていた恍にも顔向けが出来ない。
だから、と。先生はふとポケットの中を探りあるものを取り出した。
それはわたしも折ったことのある折り鶴。結局一人では千羽も折ることは叶わず、途中でクロノメイに入学したから断念してしまったけれど。もしかして、と一抹の予感が胸を過って、燭先生と視線をかわせば彼は静かに頷いた。
恐る恐る受け取って手のひらの上に転がすと、紙が摩擦する音では無く鶴の中からしゃらん、と何か金属音のようなものがする。
破れないように丁寧に鶴をほどいていけば、桜をモチーフにした女物のペアネックレスが二つ入っていた。
そして白い紙面には、
「…恍の日記によると、そのネックレスは恍が例の調査から帰ってきた時名前に渡そうと目論んでいたものらしい。桜は名前に映えるから、と」
「……っ、」
「……君にはそんな優しげのある言葉を送っておいて、私には名前を悲しませたらぶっ殺す、なんて物騒な言葉を遺していった。最期の最後までとんでもない女だあいつは」
そう悪態吐きながら、燭先生も今までにないくらい穏やかな眼差しをしていた。
────君達は、お互い親友のことが一番好きで大切だったんだな。
折り目がついて今やシワだらけの折り紙を握り締めて泣くわたしを、先生は再び抱き締めた。
『名前ちゃんが元気になりますように』
達筆の文字で書かれている、わたしへの想い。
単純で、一切無駄を省いた、でもたったその一行でありったけの恍さんの心情が伝わるような。
とてつもない愛情が籠った文面を、光に反射して輝くネックレスと一緒に頑なに握り締めて
声を上げてみっともなく泣いた。
「名前ちゃん、」
ほら、顔上げて。
ちゃんと向き合って、逃げないで。
────わらって。
燭のためにも。
私のためにも。
あなたの幸せを願う、誰かのためにも。
「……何かを堪える時、自分の手のひらに爪を立てる癖も変わっていないな」
「! 知って……、」
「知っている。全部。……ちゃんと見ていた」
『……名前ちゃん、ほら』
「名前、私は、」
「……っや、」
「愛してるんだ、名前。頼むからもう何処にも行くな。ただ私の傍に、いてほしい」
──笑って。笑いなさい。
……ねえ、恍さん。
わたしは、恐いの。臆病者なの。
失うことの恐さを、命の尊さを知っているわたしはいずれのものも等しく終わりがやって訪れることを知っている。
わたしは、先生のわたしへの想いに応えてしまったら先生を愛していた恍さんの想いが消えてしまうんじゃないかと。ただそれだけがこわかった。
二人が並ぶ姿が好きだった。
二人が笑っている空間に憧れていた。
わたしのその気持ちまでも嘘だと思われてしまうようで、どうしようもなく畏れていた。
でも、それも所詮は逃げ口上。
わたしが目を背け続けたら、ずっとずっと私達は中途半端なままで、立ち止まったままで、───恍さんの想いも、昇華されることは、無いのだろうか。
『名前ちゃん、』
「名前、」
「────っわた、しは…」
……恍さん、恍さん。
大好きです。今も、前もずっと大好きです。
あなたが残してくれたものは全てわたしの血となり肉となり、名前という人間を構成する数多の欠片となりました。
これ以上望むことは何もない。
そう、満足していたのに。
「……好きだ」
耳に吹き込まれた甘言に、わたしの腕は自然と上へと上がっていた。
自身の身体を包む背中の服をきゅっと掴み、しがみつく。
彼の肩越しに見た桜の大樹。
白く霞んで舞う花弁は、何も言わず寄り添う私達を隠すようにザァッと吹雪いた。
ALICE+