最初は、ほんの興味だった。
あの頭が固くて融通が利かなくて誰が相手だろうが居丈高で高飛車でいっつも眉間にシワ寄せて小難しい顔ばっかしている男が、慈しむように柔らかく微笑みながら穏やかな口調で語る女の子。
まるで憑き物が落ちたかのように別人みたいなその姿に、私は仰天して危うく世界どころか自分がひっくり返りそうになったっけ。
アンタ誰!? 正真正銘ホンットに燭なの!? って言ったら「ハ?」ってゴミを見るような目で蔑まれた。話題に出る例の子とは天と地ほどの扱いの差だった。
こんな頭でっかちの分からず屋(な唐変木)の意中を射止めた女の子は一体どんな子なんだろう。些細な好奇心は話を訊くたび風船のようにムクムクと膨れていって、でも私がわりと空きのある時間帯は主に夜だから消灯した病棟に忍び込む訳にもいかず中々遭遇出来なくてやきもきしてた時、ある日偶然検査帰りらしきその子と出逢った。
私達の口論の途中、思わずといった様子で吹き出した気配。笑った人物を捉えるなり瞳を見開いて硬直した燭を見て、すかさず(あ、この子か)と私のカンが冴え渡った。
よっしゃ棚からぼた餅! と内心ガッツポーズをしながら若干引け腰になっていた女の子に接近して、いかにも不機嫌ですって雰囲気を醸し出してる燭なんか歯牙にもかけず私は一方的に喋りまくった。暴露しまくった。結果本当に研究費を削られるとこだった。危機一髪だった。
けどそれで名前ちゃんの燭に対する誤解? 偏見のようなものは晴れたみたいで、燭も何となく嬉しそうだった。
ちくん、と胸が痛かった。
名前ちゃんは、私が想像してたよりずっとずっと健気で可愛らしい子だった。
謙虚で、純粋で、優しくて。私とは見るからに雲泥の差だった。あの子はきっと全身からマイナスイオンみたいな癒し成分が発されている。話していると瞬く間に気が楽になって、病室を出た後は必ずまた名前ちゃんに負けないように頑張ろうって偽りなく自然とやる気が湧くから。
だから燭も強く惹かれたんだと、そう理解すると同時にとてつもない自嘲の念に駆られた。
そしてどこまでも未練がましく、引き際の悪いイヤな女である私は、迂闊にも闘病に励んでいるこの子にとって最も禁句とされている言葉を不用意にも言ってしまったのだ。
名前ちゃんみたいに病気だったら、なんて愚かしいことを。浅はかにも、私は。
「……わたし、燭先生のことが好きです。でもそれは恍さんと一緒に、恍さん達が二人で並んで楽しそうに笑ってる姿が好きなんです。だから、」
笑ってください、 燭先生のためにも。
泣かないで、 わたしのためにも。
折角の美人さんも顔が曇ってたら台無しです。
だから、ね、
────ほら、(わらって、)
なのに名前ちゃんは怒ることなくただ微笑って、ズルい私を許すかのように子供をあやすような声でそんなことを言うから。
我慢出来なくて、私は名前ちゃんの身体を抱き締めた。ううん、正確には抱き着いた、かな。
ごめんね。
腕の中のちっちゃな身体が細々と震えていたことくらい、私、気付いてたよ。
私と燭は、確かに婚約者だった。まだ確定では無かったけれど、上の人間達に持ち上げられいつの間にかそう関係が成っていた。恐らく私達を目の敵にしている連中が二人くっつけさせて厄介払いしようとしたのだろう、少しでも研究に弊害が及べば、と。あわよくば自分が手柄を、とか思ってたんでしょう。今となってはどうでもいいけど。
話が脱線してしまったが、ゆえに私達は恋人では無かった。噂は所詮噂にしか過ぎない。いちいち否定するのもお互い面倒だったから、全く鼻には掛けなかったけど。
私は好きだったけれど、……燭は、違った。
私のことを良きライバルとして同等に見てくれているのは知っていたけど、恋愛対象として見られていないのは明らかに一目瞭然だった。それに彼にはもう名前ちゃんっていう溺愛してる子が居たし。
でも名前ちゃんは当然そんなの知る由も無い。彼女も噂を信じていた一人で、……私は体よくそれを利用した。勝手知ったるってやつで平然と燭の彼女面を装って、名前ちゃんを牽制するように。
あの子が他人を押し退けてまで自分の幸せを優先するような性格じゃないことくらい、とっくに分かってたのにね。
「……よし、今日の数値も異常はないな。最近調子が良いみたいで何よりだ」
「ふふ、燭先生と恍さんが毎日来てくれてるからかな」
「馬鹿言え、そんなことで調子が良くなるなら他の患者もとっくに治ってる。お前が喩えどんな治療でも辛抱強く乗り越えてきたからだ。與儀にもその爪の垢を煎じて飲ませたいほどにな」
「わあ、與儀くんきっと涙目ですね」
くすくすと控えめに笑いあう二人は、まさしくお似合いだった。
和やかな空気、ゆったりとした時間。私と燭では絶対に造り出せない安らかな空間。夕陽の橙色が私達を暖かく照らして、だけれど私の胸には空っぽな疎外感だけが大部分を占めていた。
それは日に日に強くなって、お互いをいとおしそうに見つめる名前ちゃんと燭の姿を見てたら胸が張り裂けそうで、いっそ私が塵になって消えてしまいたかった。でも命を無闇に投げ出すなんて、生きる為に闘っている名前ちゃんを冒涜するようなこと出来なかった。…なんて、結局死ぬのがこわかっただけ。都合の良い言い訳だった。
またある日、作製途中の折り鶴がテーブルの上に放置されていてこれどうしたの? と問い掛けた。そしたら名前ちゃんは困ったように眉を下げて微笑んで、千羽鶴折ろうと思ったんですけど……と珍しく口を濁らせる。
聞けば千羽鶴を作ろうと約束した女の子が昨夜心臓発作を起こして亡くなったらしい。身近で感じた死に、名前ちゃんは隠しきれない不安を抱いているようだった。
だから私は提言した。千羽鶴、作ろうよ。と。天国にいる女の子を驚かせてあげよう、そう言ったのは名前ちゃんへの慰めだったのか、はたまた自分のエゴだったのか。
くしゃりとひしゃげた折り鶴は、さながら私の醜いこころのようだった。
「どれくらいも何もない。あいつはこれから先もずっと生きる。自分の人生を歩んで、全うして、 それから幸せな生涯を終えるんだ。まだ潰えていい命じゃない、そうはさせない。誰がなんと言おうと私が名前を助けてみせる。どう足掻こうとも名前がここで果てることが天命だというのならそんなもの、───糞喰らえだ」
「……燭、あなた……」
「……語りすぎたな。すまない」
名前ちゃんの命が潰える前提で話していた私とは違って、燭は決して諦めてはいなかった。認めてはいなかった。
名前ちゃんの心臓は限界に近い。そんなこと主治医である燭が一番よく把握していただろうに、もはや執念に近い意地で躍起になって否定して。名前ちゃんに対する真っ直ぐな想いに、(……ああ、私が付け入る隙なんてハナからこの二人の間には無いんだ)と諦観を持った。
そろそろ潔く腹、括んなきゃね。
弱りそうになる自分の頬を強く叩いて、気分を新たに入れ換えた。危険性の高い捜索の案件を引き受けて、念のための場合のドナー登録を内密に進めて、折り鶴を折って。
折った鶴の中に、この前街で見かけたネックレスを二人分入れておいた。名前ちゃんに似合いそうだなって、どうせ買うならお揃いにしようと思って購入した桜のペアネックレス。
私が無事に帰ってこれたらネタ明かしして渡そうと目論んで、ついでに折り鶴には願掛けのようにその頃には名前ちゃんが元気になりますように、と手書きのメッセージも添えておいた。
名前ちゃん、ごめん、ごめんね。
私、大人げなかった。
燭が好きで、好きで誰にも渡したくなかった。私を見てほしかった。私を愛してほしかった。
けれど、それは燭じゃなくても良かったのかもしれない。
私はただ、愛されたがりなだけだったの。
能力者化した人間を元に戻す、なんて現段階では無謀にも程がある試み。実験も失敗続きで私に失望して離れていく人間が大勢いる中、燭だけは心配してくれて私から離れることは無かった。
成果がない、それだけで政府の人間は私を役立たずだの金食い虫だの後ろ指を差して。
研究家としてのプライドはズタズタに踏みにじられた。同様に、燭と誓った希望でさえも。
だけどね、名前ちゃん。
私、あなたに逢えて変われたんだよ。
この研案塔で初めて私を研究員の『恍』としてでは無く一個人の『恍』を見てくれる人が現れて、私は、どうしようもなく嬉しかった、有り難かった、…しあわせ、だった。
名前ちゃんと居ると辛いことも苦しいことも全部忘れられて、本当に心が洗われたようで。
包容力、って言葉をまんま形にしたような子で、憧れ、だったの。
──私ね、名前ちゃんが大好きよ。多分今は、あの分からず屋の唐変木なんかよりもずうっと。
私と一緒に泣いてくれてありがとう。
私と話してくれてありがとう。
私の為に悲しんでくれてありがとう。
私と友達になってくれて、本当にありがとう。
『……大切にしなきゃ赦さない』
泣かせたら末代まで祟ってやる。
桜の樹の下、ようやく素直になって名前ちゃんを抱き締めるみっともない男の姿に、私は笑った。
はらはらと舞う桜吹雪。それは陽を浴びて白い光沢を纏い、雪のように淡く霞んで。
『────綺麗な花霞、ね』
まるで二人を隠すよう。
蜃気楼のように美しい光景を目に焼き付けるように、私は瞳を綴じて世界に別れを告げた。
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