『燭ちゃん、念願の彼女をやっと手に入れられたからって存分にいちゃつくのは構わねーけど、そのままずっと帰さないとか私の傍に〜なんて子供みたいな駄々捏ねて名前困らせんなよ? ちゃんとウチに帰してくれな。んじゃ!』
『朔によれば昨夜から名前は燭さんの所にお邪魔しているそうですね。俺の、名前がご迷惑をお掛けして居ないでしょうか? それだけが少々気掛かりです。ああ、いえ決して二人が今頃何をやっているのかとか無粋なことを探る訳ではありませんので悪しからず。ですがくれぐれも名前に無茶はさせないでくださいね。もちろん喉を痛ませるようなことも。では用件のみですが失礼します』
『燭燭燭ーっ!! 僕の可愛い可愛い大事な名前が燭の所に泊まってるんだって!? 二人がくっついたというのも一昨日知ったばかりなのに、なんて由々しき事態なんだ!良いかい燭、いくら名前がチャーミングでいじらしいからって順序というものは大切にしなければならないよ。例え名前本人が合意したとしてもだ、そこはやっぱりきちんと節度を弁えなければ男の風上にも置けないからね。お天道様が許してもまずこの僕が許さないぞおっ!! よって、くれっぐれも名前の腰を痛めるような破廉恥な行為は慎んで──』
見るに見兼ねて朝からひっきりなしに震え続ける携帯の電源を落とす。
喧しい野次馬どもが、真っ暗になった画面を見てようやく何か重圧のようなものから釈放された解放感に燭は嘆息した。
一人一人ご丁寧に釘を差して牽制してくれる。朔はまだ寛容で大目に見てやれる、が、頭痛の種は輪統括指揮官殿と貳號艇長である男二人だった。
よりにもよって厄介で扱いにくい人物達。忠告も時既に遅しだということを知ったら確実にあの兄弟はネチネチとねちっこく徹底的に燭の癪のツボを突っついてくるだろう。
これまで届いたメールに目を通すだけでも酷く消耗したというのに。しかも平門については俺の、という部分をあからさまに強調するような文章だ。
誰が貴様のだ誰が、と妙に脳裏に焼き付いた文面に青筋が浮かびそうになって燭は内心毒づいた。因みに時辰のメールに至っては腹立たしくて途中で消去した。
せっかくあの桜の下での出来事以来久し振りに二人で会えて安らいでいたというのに、なんたる障害が待ち構えていたものか。朝一番から始末の悪い仕打ちに遭って大いに疲れたと、彼はふいに隣であどけなく眠る女に目を向けた。
────瞬間、男は胸のつかえが除かれたかのように柔らかく微笑む。思いがけない邪魔者のせいでささくれ立った心は凪いで、宝物を慈しむよう慎重な手付きで寝息を立てる彼女の髪を撫でた。
上質な質感を指先で堪能し、自分と同じ洗髪剤の香りを密かに楽しむ。
おもむろに布団から出されている腕を取って細い指に口付ければ、染み付いた薬品の匂いが鼻腔を掠めた。
ふる、と微かに彼女の長い睫毛が揺れ、目覚めの兆候を窺わせる。だがなかなか現れない瞳に痺れを切らし「名前、」と最愛の名前を口ずさめば、ゆるゆると気だるげに目蓋が開かれた。
「……こそばゆいです、先生……」
「一向に起きない君が悪い。……おはよう、名前」
燭の穏やかな声色に名前はふっと微笑んで、「おはようございます……」と未だ夢心地半分のようなたどたどしい呂律で返した。身体は辛くないか、問い掛けながら労りげに頬へ手を滑らせれば微笑んだまま頷かれる。
これくらいへっちゃらです、と屈託なく笑う名前の首筋には紅い華が数多も咲いていて、男の独占欲が刻まれていた。これを見られたら間違いなくあの兄弟に以下略。
しかし込み上げる優越感の前には邪魔立ての存在など物ともせず、燭が満足げに頬から首へ手をずらせば名前はくすぐったいと身を捩った。無邪気な仕草にこの上ない愛しさに駆り立てられる。
「でも先生、ずいぶんと朝早いですね?」
キョトンと不思議そうに小首を傾げる名前に「もう昼近いがな」と訂正する。すると名前は「昨夜眠ったのが遅かったから!」と一気にのぼせた顔でわたわたと慌てるから、分かってるから少し落ち着けと彼女に深呼吸を促せば割り切れなさを感じつつも引き下がった。
あくまでも渋々、だったが。
「朝っぱらから枕元で携帯が五月蝿かったんだ」と疲れきった様子で嘆く燭に名前はますます怪訝な表情を浮かべたが、事情を事細かに訊けばああ……と彼の苦悩を悟ったように苦笑いした。
過保護だ過保護だとは思いつつもそれが彼らの愛情表現だということは百も承知していたから名前も享受していたが、今回のように燭に被害が被るとなると万が一にも対応策を練らなければならなくなる。
今度会ったら釘差しておきますね、と申し訳なさそうに眉を寄せる名前の言葉にそうしてくれ、と後事を託す燭は懲り懲りといった様だった。
「それより不愉快なあいつらの話なんて今はどうでも良い。やっと二人きりになれたんだから他にも積もる話は沢山有るだろう?」
「っ……な、んか、燭先生ってば大分積極的になってませんか? 三年前はもっとこう、潔癖って訳では無いけれど私には気安く触れるなみたいな棘のある雰囲気が……」
「三年もあれば変わるだろう。……いや、もしくは君相手だからかもしれないな」
言外にすっかり角が取れた、と名前は言いたいのだろう。事実、燭自身でさえそう実感することがしばしば増えた。そしてそれは名前が帰ってきてからさらに顕著として表れるようにもなった。腰が丸くなった、とでも言えば良いのか。
勤務中の合間、彼女と交わす些細なやり取りにでさえ心が満たされることが格段に多くなって、憂慮も懸念も何一つとして払拭されたから。
無論不満は片手で納まり切らない程あるが。なぜ研案塔では無く朔の元で働くのか、とか。兄弟諸々とか。
どんな時でさえちょいちょい記憶に浮上してくる胡散臭い顔を振り払うように名前に口付ければ背中へ腕が回される。きゅ、と縋るような服を掴む動作に気を良くしてキスを深めれば名前の眉間にはシワが寄って、強張った身体をほぐすように燭は艶やかな髪を優しく梳いた。
昨日あれほどじっくりと彼女の存在を味わったというのにまだ物足りない。何度も何度も口付けをしても飽きることは無く、むしろ深みに嵌まっていく一方だった。
息苦しさで潤んだ瞳を見てそっと惜しげに唇を離し、名前の肩からずり落ちているキャミソールの紐を直してやる。ふう、と呼吸を整える名前を見守りながら、険しい面持ちの燭は心中複雑な想いを溢した。
「……私は時辰曰く男の風上にも置けないそうだ」
「……どういうことです?」
「順序を大切にしていない、ということでな」
「あー……それは……そう、なのかな……」
悪気は無いと分かっていても名前までもに肯定されたことによって鋭利な刃が心に突き刺さった。
告白はした。名前も泣きながら最終的に受け入れてくれた。けれどたったそれだけでめでたく円満問題解決、となる訳では無くて、二人の間にぎこちない凝りのようなものは燻ったままだった。
亡くなった恍の存在は、燭にとっても名前にとっても大きかった。
正直、恍があの日記と折り鶴を遺してくれていなかったら、自分達が今こうして恋人という関係を築くことは永遠に無かっただろう。お互い遠慮して、溝は埋まらないまま。必要以上干渉することもなく、すれ違ったまま生涯を終えたんじゃないかといとも簡単に予想が付くほどに。
そんな自分達の見えない壁、境界線に焦れて燭が半ば強引にもぎ取った二人の時間。三年間の空白を埋める為に徐々に名前との距離を近付けていくのでは無く、いっそ荒療治として驚いて固まる名前を抱いた。つまりは手を繋ぐとか抱き締めあうとかそういう戯れとしての順序なんて彼方にすっ飛ばしていきなり情事に縺れ込んだのだ。
最低だ、ゲスの極み。世間からなんて後ろ指を差され名前から蔑まれても致し方ないことだとは思う。反省してもとうに過ぎたことだが。
「わたしもそれなりに痛かったですし」
「……すまない」
「こんな初体験一生のトラウマものですよ。先生のばかばかばーか。せっかち、ロクデナシ」
「否定は、しない」
「出来ないの間違いでしょう?」
「……」
「……けど、男の風上には置けなくても、先生はわたしにとって恋人の鑑のような人です」
世界中にこんな素敵な男の人がわたしの自慢の恋人なんですよってのろけたいくらい。
そう言って自分の不貞に目を瞑ってくれた名前に、燭は途端に今更どうしようもない感情が沸き上がってきて胸を締め付けられた。
彼が名前に触れる手付きは慎重を通り越してもはや恐る恐る、といった感じだった。
壊さないように、傷付けないように。余すところ無く愛を植え込むように、丁重に。名前にはなるべく負担をかけないよう常に細心の注意を払いながら身体を繋げた。
大切に、大切に。
己の快楽を拾うよりも名前への気遣いを怠らず彼女の負荷を思慮しながら心を込めて抱いてくれた燭を、どうして拒むことが出来ようか。
「大好きです、燭先生」
そこで名前はようやく、三年前片思いしていた時から言いたくても言えなかった言葉を口にした。
懸命に封じていた想い、飲んだ涙。
それらが報われた時が──今この和やかな時間だった。
恍のことを忘れた訳じゃない。ましてや置いていく訳でも。でも恍はこれから先も名前と共に居るから。名前の心臓として誰よりも近い場所で応援してくれているから。
「この事は一生根に持ってやりますから、しつこいお兄ちゃん達にバラされたくなかったら一生かけて幸せにしてくださいね。わたしも、わたしの中に居る恍さんも」
「……当たり前だ、私を誰だと思っている?」
「天下の燭先生サマです」
「先生はもう着けなくて良い。……私はもう、君の主治医じゃない」
恋人だろう、名前。
耳の軟骨に軽く歯を立てられて、あまつさえ熱の灯った息を吹き込まれて肩が竦んだ。
彼のこの大胆な不意打ちには本当に弱い。これも惚れた弱味かと名前は歯噛みしつつも、やがて降ってきた唇に文句を言わずただ瞳を綴じて受け入れた。
鼓動がトクリ、音を立てる。
「…もうどこにも行かせないからな」
「行く気も、ありません」
名前という存在を全て網羅するかの如く身体の輪郭をなぞっていく手。恋い焦がれた、温もり。
触れ、交わり、繋がって、あなたと一つに融けてしまう。
これからは二人だけじゃない、三人で。
泣いた分ほど、しあわせになろう?
舞い散る桜の花弁が、白く霞んで見えることはもう無い。
視界は晴れて、明確に映る綺麗な散り際。
(わたしも、もし今度こそ終りが来たら)
あの桜のように、美しく散りたい。
──あなたのそばで。
自然と絡まった指先、目線。意識を微睡みの中に落としていった名前がその日、壱號艇に帰ることは無かった。
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